放課後の二人
塗りつぶすだけの単純作業は、今の鴎にとってはありがたかった。嗅ぎなれた教室の臭いに紛れて鼻に届くマジック臭をことさら感知しながら、いつも以上に鋭さを失った頭で考え事をする。
自分をあんなに突き動かした原動力は何なのだろう。今更、友人間のそれの範疇だなんだと、見え透いた言葉を重ねるつもりはなかったが、単に好意と呼ぶよりも、もっと相応しい表現がある気がする。この気持ちは、気恥ずかしさを乗り越えた先に、そう複雑でない題名と共に待っているのではないか。
「鴎くん」
前触れなくその声で呼びかけられるのは、今の鴎にとってニトログリセリン以上の劇薬だった。頭のてっぺんからつま先まで衝撃を行き渡らせると、結の方を向いた。
「はい、どうしたの」
「もしかして、お友達と喧嘩でも?」
「え?」、と声に出ると同時に、
「その、それとも単にスケジュールが合わなくなったんでしょうか」
と重ねられてようやく意図を把握する。
「ううん、元々二人とは別行動の予定だっただけだよ」
「そうですか」
尋ねにくいことだったらしく、結は少しホッとした様子だった。そうして他意の無い調子で当たり前の疑問を続ける。
「では、どうして」
「それは」
輝く一対の宝石と向き合うと、丁度先ほどの答えが思い浮かび、口に出す。
「結と一緒にいたかったから」
言った方も言われた方も数秒全機能を停止させ、それが解除されると体中の血液を顔に回した。
そうしていながら、鴎は全身を耳にして結の答えを待った。
放たれた矢は進むのみだ。たとえそれが思わぬ拍子に手を放してしまっただけのものだとしても。
鴎にできることは結に届いたのかどうか知ることのみで、重ねる言葉は持ち合わせていなかった。
「…そうですか」
辛うじて声に出した結は目を逸らすと、壁に向き直った。
奥深い黒の輝きが網膜から消えてしまったとき、鴎の中でこれ以上ない大きさに積み上げられたものが崩れる音がした。
これまでとこれからの全てを対象に、終わったという声が響く。何もかもがどうでもよくなり、マジックを持つ手が苦痛と疲労を思い出したかのように訴えだすが、周囲と見分けがつかないほど叩きのめされていても、鴎にだって意地はあった。
泣くのは帰ってからだ。
そうして、明日世界が終わると告げられても動じない、自信に似ていながら本質的にはまるで違う気持ちを抱えて、紙に光の無い目を向けていると、
「あの」
こんな状況でも、耳を閉ざしているはずの何十もの隔壁が素通りさせる声に、もう一度顔を向ける。
結はこちらまで熱が伝わってきそうな頬をそのままに、壁の方を向いていた。鴎の目に捉われたことに気づくと、小さな肩が震える。
「その」
できればもう近づかないでくれますか、か、それとも精神的な苦痛に対して賠償を求めていいですか、か。
アクセルが壊れてしまった車と同じように後ろ向きにしか進まない思考で、鴎は少しでも苦痛を和らげようと自己防衛を始めた。
「うれしい、です」
そうして、初めて目にしたときを彷彿とさせる、経験の少なさを物語る、だからこそ魅力的な、照れと恥ずかしさをブレンドした不器用な笑顔を浮かべた。
心臓と血管に過大な負担がかかっていることは間違いないが、留めようが無かった。思いと同じ温度の、脳髄を溶かした熱が顔に流れ込んでくる。
完全下校を促す放送が聞こえるまでのごく短い間、二人は色合いの似た顔で見つめ合っていた。