夕焼け
送り出した力の分だけ地を踏み返す足で、鴎は走っていた。教師に見咎められることも、あっという間に視界を外れる生徒たちに奇異の目で見られることも気にならなかった。
警告の通り、時間はいつの間にか背後まで近づいていた。間に合うことを、取り返しのつくことだけを祈りながら、鴎は足を動かす。
階段を上り終えると、もう部活生も、そうでない生徒も見当たらなかった。結がどこにいるのか訊いていなかった自分の愚かさを汚い言葉で罵りながら、とにかく二組の教室へと踏み入った。
死に行く夕日はこれから自身が辿る道を力の限り照らし、並ぶ椅子と机の間に強烈な明暗を作り出していた。
壁に寄りかかる城やカボチャの馬車の前に立つ黒髪の少女が、静かにこちらを向いた。
肩だけで呼吸をする鴎へ向けられた涼やかな目に驚きが混じる。
「鴎くん?」
「…うん」
足を止めるとどっと疲れが押し寄せ、無理をさせた体が悲鳴を上げた。みっともなくへたり込みそうになるのをぐっと堪える。
独りということは、達也は関係なかったということか?いや、既に事は終わっているのかもしれない。そう考えた途端にうるさくなり始めた心臓を押さえて、鴎は声を絞り出す。
「あの、結はどうして…」
ここに、と続けようとして、机に一列となって置かれた油性マーカーが目に入った。近くにはガムテープやセロハンテープも用意されている。
「背景にもう少し手を加えようと思ったんです」
撮影に使った衣装や道具は、文化祭の間教室に飾っておくことになっている。だからといって、これ以上作業をしようとする生徒は他にいない。撮影に使えるクオリティではあったのだから、出来にはみんな満足しているのだ。
それをわざわざクレアを帰して一人でするとは。
結らしいと、と鴎は思った。
「じゃあ、それで?」
念押しする声に頷きながら、繊細な輪郭で形作られている顔が、より不思議そうな表情を浮かべる。今の自分はよっぽど平静を失って見えるらしい。
達也はまだ来ていない、もしくはこないつもりなのか。
鴎は大きく息を吐いた後、何が、の対象を欠くよかった、が胸中に広がるのを受け入れかけて、それだけでいいのかと自問する声に顔を上げる。
競争相手はいなかったし、まだ明日がある。今日はこれで万事解決、それでいいのか。
他に誰もいな教室に結と二人きり。初めて話したときのことを思い出す風景に、しかしもうあのころとは違うのだという思いが沸き上がる。結の髪の毛は少し短くなっていて、どちらも背丈が伸びていて、自分は心境が変わっている。
「鴎くんこそどうしたんですか?そんなに急いで。何か急用でも?」
ブンブンと頭を振り否定しようとして、視界の中心に据えたその顔に動きが止まる。
もし教室に入って目にしたのが達也と話す姿だったら。この黒々とした瞳が自分以外の誰かに向けられていて、そして段々と自分から離れていったら。走りながらそんなことを考えると、筋肉も肺も脳も心臓も、残された寿命を全て使うように激しく稼働して、そして縮み切って皴だらけになりそうだった。
嫌だった。想定したあらゆる事態が好ましくなかった。そして今なら避けられるかもしれない、変えられるかもしれない。
そのときには、鴎は足に絡みつく、結の答えについての数十を超える悪い想像を振り切っていた。
「うん、お願いがあって」
背筋を伸ばす。
「もうクレアには言ったんだけど、明後日の文化祭、一緒に見て回ってくれないかな」
どうしてそんなことを、という疑問が目容に表れたが、すぐさまそれを打ち消すと、
「いいですよ」
あっさりとした返事に、鴎は承諾されたと理解するまで突っ立っていた。
「…あ、いいの?」
「クレアもいいと言っていたんですよね?」
鴎はコクリと頷いた。
「ならもちろん私も構いませんよ」
結はいつもの通り、凪いだ水面を思わせる落ち着きっぷりだった。
上手くいった場合は、鴎が込めた思いに対して何らかのリアクションがあると予想していたが、結を見るに、それはうまく伝わっていないようだった。少なくとも鴎が意図した程ではない。
現実と想像との落差に、事態をすんなりとは受け入れられず、鴎は間に合わせの声を出した。
「そっかぁ…」
難なく願いは叶った。しかし、鴎には姿かたちの定まらない淀みが残った。
あれだけ思い悩み、抱えたストレスは間違いなく寿命を削り取って、胃の壁に二、三個穴をあけていてもおかしくはなかったが、結局一人で盛り上がっていただけということか。それとも、結にとってはこの程度の誘いは動揺を生じるものではなかったのか。
考えごとを始めたこちらに結は変わらず視線を向けており、それに気づくと昨日から続けていた杞憂を見透かされた気がして、鴎は話題を逸らした。
「何かミスでもあった?書き忘れとか塗り忘れ?」
落ち着いた教室の配色の中、原色に近い色で塗りたくられた紙が壁一面に並べられた光景は、ある種の芸術的なパフォーマンスにも見えた。
「目立つほどではありませんが、端の方や線が重なる部分に色が塗られていない所があるんです」
言われてよく見ると、確かに台紙の色そのままの空白地帯がぽつぽつとあったが、顔を寄せないと目には留まらない程度だった。
「はあ、よくこんな細かいとこ見つけたねえ」
「たった三回だけですから、なるべく手を抜きたくなくて」
「文化祭が?」
「はい、それに高校生も三年間だけです」
微妙に響きの変わった声音は、鴎に以前から尋ねたかったことをふと思い出させた。それは結も同種の思いを持っているのではないかと、神経の一部が脳へ推測を寄こしたからだった。
「高校を卒業したらさ、結は京都に帰っちゃうのかな」
「そうですね、今のところはその予定です」
柔らかい言葉は鴎の感傷的な部分を刺激した。
やはり、この時間に終わりが訪れるのはそれほど遠い未来でも無いようだ。そう思うと、今結の隣にいられることが何にも代えがたい意味を持つ気がして、鴎は屈みこむとペンを拾った。
「…僕もするよ」
遠慮しようとした結は、鴎の表情にただならぬものを感じ、考えを改めたようだった。
「では、鴎くんはお城をお願いしますね」