アラート
「…というわけで、浮かれ気分からの切り替えはちゃんとするように。じゃあ級長、号令」
文化祭当日気分の男子生徒たちが馬鹿でかい声で挨拶をして教室を飛び出していった。担任は忌々し気なしかめ面をしている。
少数派の帰宅部である鴎は力なく椅子に座り込んだ。
何もできない、しないまま、放課後を迎えてしまった。
「…」
チャンスが無かったと言えば嘘になる。鴎は外の駐車場の掃除担当であり、結はゴミ捨て場の担当だったはずだ。落ち葉でも持っていく振りをして会いに行くことはできた。
ならばどうして行動しなかったかというと、尻込みしたのだ。おそらく結と話ができる、することになるのは間違いがなく、そう考えると、途端に足が体重を上回る重さとなって移動を拒んだ。
結とは何度も会話をしてきた。今更話すのに抵抗がある間柄ではない。しかし、文化祭を一緒に回ろうと提案するのは一線を超える行為な気がして、はっきり言って怖かった。断られたときのことを考えると心臓が嫌な縮み方をする。
結がまだ教室に残ってクレアと話をしていることを確認しても、足が動かない。
自分の情けなさ、いくじのなさを恨めしく思うのはこれで何度目だろう。心の中でいくら罵倒してみても仕方のないことだが、そうせずにはいられなかった。
今もこうして時間が経つのを待っている自分がいる。結が出ていくのを見届けてから、ああ遅かった、とわざとらしいため息を吐くのだ。
このままではだめだ。今ここで変わることができないのなら、変わっていく彼女にどうして近づけるだろう。
思いつめた表情の鴎は一大決心をして立ち上がった。
結はまだクレアと会話をしている。いまの内に靴箱に向かっておこう。出口で待っていればいずれ必ず結は現れる。そうなれば、いくら自分でももう逃げ隠れ出来ない。
昇降口の前には大きな木が植えられてあり、鴎はその下で座って靴箱に視線を送っていた。
いつもは過酷な練習を前に仲間内で不平をこぼしている部活生たちも、文化祭前だという要素に化学反応を促進され、躁状態のはしゃぎっぷりだ。ある者が校庭を三十周すると宣言すれば、他のものはそれに逆立ちを加えて行うと言う。
そんな周囲の騒がしさも、今の鴎の内面に影響を与えるには及ばなかった。
肺か心臓か、胸に何かが大きくつかえていて、唾を飲み下すのも一苦労だった。関節のそこかしこに不安が挟み込まれて、身動きができないほど窮屈になった気がする。傍から見たら笑えるくらいに肩を強張らせ、鴎は逃げ出したくなる自分と必死に戦っていた。
話しかけるだけ、それだけなのに、どうしてこうも緊張するのだろう。
答えは分かりきっている。結の返事が恐ろしいのだ。断られることも考えたくないが、その上、関係を見直そうなどと口にされたら、自分は立ち直れないかもしれない。
そこまでして今日話しかける必要があるのか?明日は丸一日休みみたいなものじゃないか。明日のお前に任せて今日は帰ろう。一日終わって疲れた状態でなくとも、万全な体調のときに行えばいいのだ。
第一、結と友達でいられる現状に不満があるとでも?失敗すれば間違いなく気まずい間柄になることを、お前は理解しているのか?
結と何でもないことで笑っていられる今が幸せなら、それでいいではないか。さっさと立ち上がってしまえ。そうすれば、胃を掴んでむしり取られるような吐き気はおしまいだ。何でもない顔をして明日も登校すればいい。
耳に心地良い誘惑を、歯を食いしばる思いで堪える。
「何してんの?」
背後にはまるで無関心だったので、不意打ちは心臓を突き通して体を通り抜けた。
「え?ちょっと、大丈夫?」
返事も出来なかったが、青くなった顔を心配そうに見ているのがクレアだと気づき、何とか息を整えようとする。結果として深い呼吸を繰り返して、危うく過呼吸に陥る所だった。
「もう、びっくりさせないでよ」
「こっちのセリフだよ…」
骨そのものから出ているような掠れた声に、クレアは怪訝そうな色を深めた。
「あんたホントに大丈夫なの?顔の血流止まってない?」
「大丈夫、それより…」
頭を振って周囲の様子を確かめる。やはり近くには誰もいない。クレアと一緒に回り込んできたのではなさそうだ。
「一人なの?」
「まあね、あんたの結ちゃんとは別行動」
茶化す言葉で増々鴎の顔が血の気を失い、クレアは慌てて顔を寄せた。
「ちょっと!あんた絶対病気でしょ!?」
「違うよ、ごめん、でも違う」
胸を押さえた手に、指先が軽く食い込むほどの力を込める。皮と肉の先に自分の体の芯を感じると、呼吸を静めるのに集中した。
「…一緒じゃないのはやっぱり珍しいね。その、結はどこに?」
クレアはやはりその話か、と言いたげに鼻を鳴らした。
「まだ学校。何か用事があるんだって」
「…用事?」
「そう、だから先に帰ってて、だって」
続く言葉は頭の中で意味を持たなかった。
達也が残した言葉が頭の中に警戒色で浮かび上がる。
俺はやると言ったからにはやるからな。
つまり、そういうことか?
「ごめんクレア!後でまた!」
大声に驚くクレアの横を走り抜けようとして、この子にも話を通しておく必要があると思い至る。
振り返ると、鴎に話を遮られるという初めての体験に、目を見開いたままのクレアへもう一度近づく。
緊張を飲み下した喉仏からごくりと音が鳴った。
「あのさ、クレア」
「な、なに」
恥ずかしがっている場合ではないのだ。推敲無しに喋る。
「文化祭、一緒に回っていいかな、クレアと結と一緒に、僕も」
鴎の尋常ならざる姿に受けた驚きが、発言の驚きとぶつかって相殺されたのか、クレアは目を白黒させはしたものの、鴎よりは冷静に見える様子で考え込んだ。
少し首を傾げて、じっと鴎の顔を見たあと、静かに漏らす。
「…好きにすれば」
鴎は一気に明るくなった顔で、「ありがとう!」、と手短に伝えると、教室へ走り出した。
クレアは、もう一度圧倒された様子でその後ろ姿に視線を送っていたが、残影が瞳から消えると、ゆっくりとした足取りで帰り道に向かった。
その横顔は、友人たちが自分には踏み入ることのできない領域に進もうとしていることを悟っていた。しかし、寂しさを浮かべたのは束の間で、後ろ手を組んで数歩歩くと、背後の建物へ上半身を向け、穏やかな声で呟いた。
「まあ、頑張りなさい」