木曜 昼(2)
掃除時間、校舎裏を担当する鴎は箒を動かす手を止めて、二十一人の名前と二つの中学校名が記されたメモ帳を見つめながら思案していた。
あのあと、弁当を食べ損ねて機嫌の悪い仁をなだめ、剛史にしたものと同じ質問をしたところ、クラスの内九人が同じ中学校だった、と、言っていた。
これでクラス三十六人のうち、自分と結、剛志と仁、そして二人と同じ中学出身者十七人の計二十一人がひとまず候補から外れる。クラス内にいると仮定すれば残りは十五人だ。ずいぶんと絞られたように感じる。調査においては楽観的と言えるその仮定も、事実であれば鳥肌ものだ。もし同じ教室で半日過ごしていたのならと考えると、思わず身震いする。
赤茶色のメモ帳を閉じ、ポケットに収めようとすると、
「こらっ!手を動かさんか!」
後ろから突然かけられた声に慌てる鴎を見て、ケラケラ笑っているのは同じ清掃場所の大谷だった。
「ねえねえ、似てた?びっくりした?」
はしゃぎながら鴎に近づき、その手のメモを見て、
「なにそれ?」
好奇心を隠そうとしない、子供のような声で鴎に尋ねつつ、小首をかしげてメモ帳から視線を顔に移す。
声と同じように幼さが抜けきらない顔を見つめていると、その名前が二十一人ではなく十五人の方に含まれていること、仁がかなり可愛いとにやけながら言っていたことを思い出した。
前者が理由で即答は躊躇われたが、やはり前者が理由で質問をしてみようと思った。
「僕、県外から来たからさ、クラスのみんなの出身中学校くらい把握しておこうと思って。分かった人はメモしてるんだ」
それと悟られぬように一呼吸入れ、尋ねる。
「大谷さんはどこの出身?」
鴎の緊張を知っているのか知っていないのか、大谷は先程と変わらぬ調子で、
「私も県外だよ、大瀬良中学ってとこ。クラスに知り合い一人も居なかったから最初すごく心細かったなぁ」
知り合いなし。つまり身元保証人はいない。警戒度が指数関数的に跳ね上がる。落ち着け、と、鴎は自らに言い聞かせた。動揺を悟られるな。
「でも、うちのクラスそういう人結構いるみたいだね。鴎君と私以外にも三人くらいいたよ」
「そうなの?」
そこまで聞いて肩の力が抜けた。考えてみれば、スポーツ推薦なら県外からの入学は珍しくない。自分のように家庭的な理由を持つものもいるだろうし、その場合訊きだすのは簡単ではないだろう。
はやくも前途を塞がれた思いの鴎は、落胆しながらメモ帳をしまうと箒を掴んだ。大谷は、そんな鴎を意味ありげな目で見つめた。
「鴎君、なに悩んでるの?」
「えっ?」
もうこちらを捉えていない瞳は、足元を掃く箒に向けられている。
「なんか昨日もぐったりしてたし、今日は元気だったけど」
冷や汗が背中を伝う。事情を知らなかったとはいえ、火曜の憔悴した鴎を逃亡者が見ていれば、真っ先にカエルのことと結びつけるだろう。
「いや、何も悩んでなんかないよ」
押し隠せない動揺を滲ませる、鴎のあたふたとした様子に大谷は含み笑いを漏らした。
「鴎君、すぐ顔に出るよね」
おかしそうな大谷を見ていると、やはり苦手だという感想が胸に浮かぶ。
大谷の言う通り、鴎は感情が表情に出やすいので、よく指摘され驚かされる。隣の席になってからというもの、しばしばこんなことがあってそのたびに嫌な汗をかいた。鴎が未だに大谷を苗字で呼ぶのは、その安心して腰を据えていられないような印象が原因だろう。
「こないだのひどい顔色だったときなんか、赤村先生そっくりで」
「こらっ! 手を動かさんか!」
大谷と鴎の肩が大きく跳ねる。間違えるはずがない。この怒声は、鬼の体育教官長野伸介。これまで反省書を提出させた生徒の名前を連ねればその身長ほどになるとも、体育教官よりも国語の教師の方が向いているとも評判の長野だ。
作文の練習は真っ平ご免の二人は、すぐさま互いに離れ、箒を握る手を動かした。
あのまま話を続けていれば、余計なことを口走っていたかもしれない。このときばかりは長野に感謝しつつ、それほど落ち葉の無い地面を熱心に掃きながら、鴎は今の大谷の言葉を思い出していた。
赤村先生。
言われてみれば、赤村の様子がおかしくなったのは鴎たちが入学してからだ。逃亡者が関係している可能性は大いにあるのではないだろうか。
早速障害にぶつかったものの、思わぬ回り道を見つけた気分で頬が緩んでいると、
「おい、そこの! そんなところに落ち葉は無いだろうが!」
再び怒鳴り声をあげた長野は、鴎が先ほど不真面目にも掃除時間中に談笑していた一年生だと気づいた。そしてそこから掃除が終わるまでの四分間、たるんだ態度に対する猛烈な説教を続け、掃除時間の終わりを告げるチャイムが鳴り響くに至ってようやくそれをやめた。
聞き流していた怒声が止み、やっと終わった、と、鴎は内心呟いた。チャイムがこんなに嬉しいのは久しぶりだ。
「HRが終わったら教官室に来い」
去る長野の背にほとんど絶望的な目を向ける鴎の顔には、失意と落胆がありありと浮かんでいた。視界の端では、大谷が顔だけはご愁傷様という形にしながら、笑った目をこちらに向けていた。