木曜 昼(1)
「里見君」
声を掛けられ振り返ると、クラスの女子が両手を合わせて拝むようにしてこちらを見ていた。
「委員会の仕事、代わりにやってくれたんでしょ? ごめんね」
「ああ、いや気にしないで、大したことなかったから」
礼を口にする女子へ愛想よく対応しながら、鴎は内心苦笑する。
自分と同じくらいに大きいカエルに殺されかけることも、そのあとに遭遇した諸々を思えば、大したことはない。
結の調査を手伝った次の日の昼休み。
鴎は生気を取り戻した表情で弁当箱を取り出す。昨日はカエルにおびえることもなく過ごせたので、ずいぶんすっきりとした気持ちで登校した。ただ時折、この学校のどこかに危険人物が潜伏しているという事実が意識の表層に浮かび上がり、そのたび、見えない銃口に無防備にさらされているような恐怖を覚える。
“可能種”は人間を巻き込むことを好まない、とは知らされたが、あの粉々になったコンクリートを浴びた身としては、半信半疑といったところだった。
恐慌状態に陥るのを避けるため、今の自分にとって必要なもの、気が置けない友人たちとの他愛のない話を求めて顔を彼らに向けなおすと、
「長田好きなん?」
仁に問われる。今話した女子の名前だと気づくのに三秒かかった。
「なんで?」
「話してたから」
「話したら好きって小学生レベルじゃん」
「こいつ女子に話しかけられたら好きになっちゃうからな」
仁は黙り込んだ。
「マジ?」
三人とも彼女はいない。まだ入学して半年も経っていないのだから別段珍しいことでもないが、仁はそのことを訊かれると、必ず、今は、と、強調する。
「そもそもこっちに話しかけてくるのは興味があるからなんだから、こっちがアプローチすれば向こうもその気になるだろ。そういうこと考えだしたらこっちとしても気になりだしちゃうもんだろ。それに小学生レベルってことは純粋ってことじゃねーか」
仁は突然やたら喋った。
「小学生のころだって純粋じゃなかったでしょ仁は」
「別に興味なくたって話しかけることはあるしな」
剛史の言葉に、その通りだ、と、鴎は思い、ちらりと自分の二つ前の席を見る。
いつもはそこに座っている女の子。周囲の人々からまるで意識されていなかった女の子が誰かに話しかけられたとき、その誰かの動機に、彼女への好奇心や興味が介在することは無かったはずだ。鴎自身、委員会の仕事がなければ、卒業まで話すこともなかったのではないかという思いがある。
なぜなら彼女は、人々から気づかれにくいという“可能種”であり、加えて、存在が揺らぎがちらしいからだ。
鴎はヒートアップする仁の相手を剛史に任せて、昨日結から聞いたことを思い出した。
結たちが夜の校舎の調査を始めたのは先週の月曜日から、それまでは結が各クラスの生徒の様子を確かめていたらしい。しかしどの生徒にも“可能種”と断言できる要素は見当たらなかったため、夜間に学校周辺の調査を行うことにした。
すると、最初の対象だった江袋高校の体育館であのカエルと同じように巨大なザリガニに遭遇し、それを処理した二日後も、グラウンドに大きなオタマジャクシが出現した。
このことから、結たちは逃亡者が学校で何かしらの実験を行っており、夜間における貴重な実験場所として学校に執着していると推測した。そして一昨日、鴎がカエルに襲われたことで、それは確信に変わった。
そう話した結は、学校で過ごす間は折を見て、各クラスの不審な人物の調査をすると言っていた。鴎は自分も手伝うと申し出たが、一人の方が目立たないと断られた。
結としては、鴎をこれ以上深くは関わらせたくないという思いがあるのだろう、と、鴎は考えている。
そして今、昼休みに結の姿は教室にない。おそらく校舎を歩き回っているのだろう。
事情を知っていながらのん気に昼飯を食べていることに幾何かの後ろめたさを感じつつ、意識を会話に戻すと、二人はどうすれば仁がモテモテになるか話していた。
「女子からしたらお前は見た目怖いからな。その分優しくならないと」
「優しいって話なら俺はエコバックめちゃくちゃ使ってるぞ!」
「地球に優しくしてどうすんだよ」
「人間にだって優しいわ! なあ鴎、お前が体力測定でシャーペン忘れた時貨してやったよなあ!」
「うん」
芯入ってなかったけど。
「お前女子と話すとき意識しすぎだ」
「あ、確かに。仁、女の子にはいつも敬語使うよね。それだと逆に仲良くなりづらいと思うよ」
「いや使ってねーよ。バリバリため口だわ。なんなら関西弁だわ」
仁の後ろに委員長が現れた。
「大寺、先生が呼んでる」
「あ、はい」
仁は、鴎たちに向けるものとは打って変わっておとなしい声で返事をした。
「俺なんかしたっけ」
「今嘘ついたからじゃない?」
「ついてねーよ!」
「大寺急いで」
「あ、はい」
そそくさと席を立つ仁を見て鴎は、やっぱり仁と剛史は違うかな、と、思った。
鴎は県を超えて江袋高校に入学したので、周りの生徒の出身中学校は入学式に聞いたくらいだが、もともと馴染みのない名前ばかりで、今は一つたりとも頭に残っていない。信用できるのは何度か家に遊びに行って、家族とも会ったことのある二人だけだ。
「剛史って駅前の中学から進学したんだよね?」
「ああ、西江袋な。それがどうした?」
「ちょっと気になって。このクラスに同じ中学の人、何人いるかわかる?」
剛はごつごつとした指を折りながら、
「六、七…八人かな?」
名前を教えてくれるよう頼み、メモ帳に書きつけた。
鴎は自分なりに考えた方法で、逃亡者の調査をしようと思っていた。ただ座って校舎を眺める以外にも、何か意義のあることがしたかった。知れば止められるだろうという確信に近い予感があるので、ある程度成果が得られるまで結には黙っているつもりだ。
“可能種”ではあっても、結と違って、庵は一般人として認識できた。この辺りに逃げ込んだという“可能種”も庵と同様であれば、外見以外から判断するしかない。結曰く、“可能種”は基本的に京都の周辺に住んでいて、その逃亡者も京都から来たらしい。本人が出身地を馬鹿正直に京都だと答えるとは思えないが、出身地について皆に尋ねていけば、そのうち周囲の話と食い違う、引っかかりのある人物を発見できるのではないか、と、思っている。
もっとも、鴎が調査できるのは、学校全体どころか学年も怪しい。せいぜいクラスメイトが限界かもしれない。あちらこちらで出身中学を尋ねれば、逃亡者に感づかれる恐れがあるからだ。
剛史と仁の出身中学は違うはずなので、仁にも同じ質問をしなければいけない。手始めにこの八人と、後で仁に訊いた分とを除いた生徒を調べよう、と、考えをまとめたところでチャイムが鳴った。