水曜 放課後
六城結が叔父の車に乗る頃、時刻はすでに夜を迎えていた。五月の半ばを過ぎたといっても、この時間に庭を抜けていく風にはまだまだ肌身に刺さる厳しさがあった。
傷が開いて眠り込んだ彼女は次の日の夕方に目覚め、叔父から気を失う前後のこと、そして同級生への対応を聞くと、
「そうですか」
と、短い感想を呟いてしばらく黙った。
そして口を開き、叔父にこれから夜の校舎へ向かうと伝えた。呆れかえった表情の叔父に、また腹中血まみれになるぞと脅しをかけられても、顔色一つ変えず車の準備を頼んだのだった。
夜勤の警備員も教師もそれぞれの居場所で眠ったままでいるはずなので、誰にも見られることはない上に、それを着ているのは車に乗っている間くらいだというのに、結は今日もわざわざ制服に着替えた。それは、生真面目さもあるが、新しい制服へ密かに抱いていた期待がさせているのだという自覚は、本人にはない。
江袋高校の長い坂を上りきると、車は生徒用玄関のすぐそばに停められた。
礼を口にして降りた結が歩き始めたときには、その髪は人目を奪う豊かな銀色に変化していて、制服も軍服のような服に取って代わられていた。
それを運転席から眺めた庵は、着替えた意味なかったよな、と、内心独り言ち、車を発進させる。これから校内で繰り広げられるであろう出来事を思うと、少し口元が緩んだ。
そんな叔父の様子を露とも知らない結は、南校舎の屋上に向かって歩みを進める。一旦北校舎の三階まで登り、渡り廊下を使って南校舎まで行くつもりだ。
周囲に気を配るその足運びはゆっくりとしたものだったが、二階の廊下にたどり着くとさらに緩やかになった。自身が倒れ伏していた辺りで一度立ち止まったが、それも僅かな間ですぐに歩き始めた。
渡り廊下を歩きながらそれぞれの校舎に気を配っていると、一陣の風が吹き抜け結の髪が靡く。窓から覗ける各教室は昼間の喧騒が嘘のように静かだ。
南校舎の三階にたどり着き、屋上への階段を上ろうとして
「……!」
結は何者かが屋上の入口にいることを察知する。伸ばした右手には音もなく翡翠の薙刀が現れ、瞳からは消せない殺気が漏れ出る。全くの無音のはずの空間を、何者かの微かな息遣いが振動させる。
踊り場まで辿り着くと薙刀を両の手で握りしめつつ、沈み込むように膝を折り曲げ、一気に踏み出す。
吹きすさぶ風に背中を押されながら屋上につながるドアの前まで跳躍し、相手を視界に収めた。そこで結は動きを急停止させ、呆気にとられた顔でその人物を見つめる。
「里見君……」
視線の先には結と同じくらい、若しくはそれ以上に驚いた鴎の姿があった。
「心臓止まるかと思った……」
「驚かせてごめんなさい」
鴎は情けない声で情けないことを口にしながら、胸に手を当て座りこんでいた。今度はきちんと顔を認識できる結が、こちらを気遣うように覗き込み、同時に疑問の色を浮かべている。
「でも、どうして里見君がここに?」
鴎はまだ早鐘を打つ胸に手を当てながら質問に答える。
「六城さん、校舎を見張るんでしょ。それなら僕も手伝えると思って」
昨日の晩、庵の車に戻った鴎は、自分に結の手助けをさせてほしいと伝えたのだ。庵は、六城家の当主は結であり、自分はその意向に従うと前置きした上で、鴎をどう扱うかは聞いていない、といたずらっぽい笑みを浮かべていた。
校舎を監視するのは結が一人で行っていると聞いたので、自分も一緒にするつもりでここに来た。そう鴎が説明しても、結が浮かべるもの問いたげな表情は収まるどころか、かえって深刻さを増した。
「叔父からは、里見君には事情を話して家に送ったとだけ聞いています。そんな話は聞いていません」
きれいに整った眉が弓なりになるのを目にしながら、鴎は、
「うん」
と、頷く。
「自分が言っても六城さんは聞かないから、僕が説得しろって、庵さんが」
それを受け入れたのは、鴎も、自分で結を納得させなければいけないと感じていたからだ。
「僕も何かしたいんだ。手伝わせてよ」
結は理解に苦しむといった風に頭を軽く振り、ダメです、と、短く答えた。
「私たちに関わることがとても危険だと、里見くんは身を以って知っているはずです」
その声が暗い廊下によく通るのを聞きながら、鴎は、来た、と、身構えた。
「だからだよ」
一応、どう話すかは予め考えていた。結が反対することも、その理由も想定問答に含まれている。
「あのカエルみたいなのが、また校舎に出てくるかもしれなくて、学校にも“可能種”の人がいるんでしょ?」
結の前で“可能種”という言葉を口にしたとき、自分がこの出来事にもう足を踏み入れてしまったのだという実感が、鴎の心底まで届いた。
「放っておけないよ。六城さん一人だとあのカエルに苦戦するって庵さんから聞いてるし、少しでも負担を減らせるなら僕もできることをしたいんだ」
その苦戦する結を放って逃げ出しておいてよく言うものだ、と、自分でも思うが、自分も監視に参加することで結が楽になるというメリットを強調するため、鴎は敢えて厚顔であることを選んだ。
鴎の言葉を聞き終えると俯いてしまった結に、鴎が、どうしたのか訊こうとしたとき、ひどくか細い声が漏れ落ちた。
「嫌じゃないんですか……?」
その声は驚くほどに力なく、質問の意味も、結がここまで沈んだ様子である理由も判然としなかったので、鴎は困惑しながら結を見つめる。
「何が……?」
先ほどの結の口調に込められていたのは純粋な疑問ではなかった。その証拠に、結がこちらに向ける瞳は揺れている。
「監視するなら、私と一緒にいることになります」
鴎はそこでやっと、昨日自分が結にどれだけ酷な態度をとっていたのかを思い出した。あんな風に脇目も振らず逃げられれば、相手はどれだけ傷つくか。
同時に、打ちひしがれた少女を見捨てたときの赤色が脳裏に湧き出し、鴎はたまらず頭を下げたくなる
「六城さんが嫌いだから逃げたんじゃないんだよ!」
急ごしらえの顔の皮は簡単に剥がれ落ち、鴎はつい本心を口にしてしまう。いきなりの大声に結は目を見開いている。鴎自身、思ったよりも大声が出てしまったので少し頬が染まる。
しかし、照れている場合ではない。
「怖くなったんだ、だから逃げた、二回も。でも、こんな情けないままで終わらせたくないんだ」
切実なものを込めた瞳で結を見つめる。
「一緒にいてそのことを証明したい。六城さんのためじゃなくて、僕の問題なんだよ」
その真剣さに押されたように、結も少し細めた目を足元に向けたあと、小さな声で呟いた。
「……わかりました」
用意していたものとはずいぶん異なる内容の会話だったが、ひとまず目的は達成した。鴎がほっと胸を撫で下ろしていると、
「ただし条件があります。また里見君が危険な目に遭ったら、その時点で共同調査は中止します。いいですね」
これだけは譲れない、という強い意志の込められた瞳で見つめられ、鴎は、
「うん」
と、上擦りながら頷いた。
それを確かめた結はくるりと後ろを向き、屋上へのドアに近づくと、どこからか鍵を取り出しドアを開けた。そのまま進む後ろ姿に鴎も続く。
江袋高校の屋上は日ごろ封鎖されていて、誰かが上っているのを鴎は見たことがない。初めて見る何もないだだっ広い空間は、鴎をひどく開放的な気分にさせた。柵に近づいて校舎を見下ろしていると、結に声を掛けられる。
「里見君」
慌ててそちらを向くと、結の顔からは先程までの遣り取りがなかったかのような、一昨日と同じ感情を読めない表情を浮かべていた。
「決めた以上は、もうどうこう言うつもりはありません。これからよろしくお願いします」
そう言ってぺこりと頭を下げる。
少し浮かれた気分になっていたことを自覚した鴎は、気を引き締め、どんな形でもこの娘の力になるという決意を新たにする。
「うん、こっちこそ。改めてよろしくね」
向き合った少年と少女の間を風が吹き抜け、銀色の髪がたなびく。月の光を浴びてキラキラと照り輝くそれを見ていると、やはりきれいだな、という場違いな感慨が鴎の胸に去来した。