切り上げ
「いやぁ、よかったね」
「はい、伊那さんのおかげです。二人は今日部活があるんですけど、また時間を見てお礼に来るって言ってました」
すべて片付いた放課後、鴎は一人で伊那の元を訪れていた。
参謀とも言える働きをした伊那は、鴎の改まった態度に苦笑しながら手を振って応えた。
「いいよ、そんなの。僕も考えるのは楽しかったから」
「すごかったです。伊那さんの言う通りに進んで、あんなの僕たちだけじゃ無理でした」
成功を伝えられるという喜びもあって、鴎は数時間前の興奮そのままの口調だ。
「まぁ、そんなに褒められたことでもないよ。実行したのは君たちだしね」
ともすれば憧れの念が混じりそうな鴎の視線を躱すように、伊那は目を逸らした。鴎があと十年歳を重ねていれば、それがどこか迷惑そうな、何よりそう思う自分自身を煩わしく感じているような仕草だったことに気づいていたかもしれない。
「でも、なんだか鴎くんの顔は晴れないね」
伊那の言う通り、鴎には引っかかったままのことがあった。胸の内に留めておくべきだという思いもあったが、誰かに話しておきたいという思いは抑え難い。その相手が、これまでも相談に乗ってくれた伊那だけに猶更だった。
「その、勢いであんなことしたけど、僕らの都合で巻き込んじゃったから、したくなかった人たちのこと、ちゃんと考えてたのかと思うと」
票数で言えば鴎たちの案が頭一つ抜けていたが、他の案への賛同者がいなかったわけではない。事前に作戦を立てていたのは自分たちだけで、不意打ちをした相手と目が合ってしまったときの後味の悪さがある。
「面倒だから嫌だっていうのもその子たちの都合だよ。結局意見を通す努力をしなかったんだから当然の結果だ」
鴎は意表を突かれた思いで伊那の顔を見る。ずいぶん厳しい物言いだ。
「それに鴎くんたちのやり方なら、出演者以外は実際他の企画より楽だと思うよ。教室で準備することなんて少ないし。そう気に病むことない」
落ち着いた声で語り掛けられると、そんなものだろうかと納得してしまう。そんな自分は甘いと思いつつ、伊那の気遣いも肌で感じた鴎は、結局未熟だという自己判断を再々度突きつけられた気分になった。
「そういえば、何の話を劇にするの?」
沈み込んでいた内省の沼から、質問に引き上げられる。
「あ、それ、まだ決まってないんです。金曜までに考えなきゃいけないんですけど」
「ふーん。ん?鴎くんが?」
「はい…」
言い出しっぺだから、いつも本を読んでいるから、と選ばれた。
「気が重そうなのはそれもあったんだ」
「はい。あ、でも、僕はいくつか提案するだけで、どれを選ぶのかも、細かい内容もクラスで決めるらしいので、そこまで重荷じゃないです」
文化祭の劇では物語をそのまま演じるのではなく、かなり馬鹿馬鹿しく改変したものを用いると聞いている。鴎に求められるのは題材にしやすい物語の選出だけなので、台本などを書く必要はない。
「演劇かあ、話を持って来いっていうならオリジナルじゃないんだし、やっぱりおとぎ話とかが選ばれるのかな」
「僕もそう思ったんですけど、仁はそれじゃ意外性がないって」
「意外性がいるの?」
「さあ…、言い張ってたのも仁だけでした」
「難しいね、皆が知ってて、それでいて意外性があるって」
「い…、万先生とか、ベストセラーの現代作家とかですかね」
鴎も一ファンである万桐生は、百万部も実写化も達成している売れっ子の作家だ。その正体が会ったこともある結の叔父だと知っているので、鴎の中では凄まじい存在感を持っている。
しかし伊那は、僅かに首を傾げると
「万?知らないなあ」
「そうなんですか!?」
「鴎くん、今日一驚いてるね」
そこから、鴎は伊那に万の詳しい説明をした。所々熱が入る鴎の様子を、相槌を打ちながら少し微笑まし気に見届けた伊那は、
「へえ、今度読んでみるよ」
と言って立ち上がった。
「それじゃあ、今日ちょっと用事があるから、頑張ってね文化祭」
「はい、あの、ありがとうございます、話聞いてもらって」
「いいよ、やっぱり楽しかったし、何だか懐かしかった」
「伊那さんも演劇をしたんですか?」
「どうだろう、そこまで覚えてないなあ」
笑いながら答える伊那は、やはり年齢不詳だった。