火曜 放課後(3)
「可能種……」
もしそんなセリフを聞いたのが昨日の朝だったら、と、鴎は思う。自分はきっと困った風に笑いながら受け流して、それきり思い出しもしなかっただろう、と。
しかし今の鴎にとって、その説明は確かな説得力を持つ。むしろこれがバラエティ番組の企画で、「ドッキリ大成功」なんて人を馬鹿にした文句の書かれたプラカードを庵が取り出したら、そちらの方が突飛に感じるだろう。
「そう。不死身の肉体と人知を超えた力を持ってた“万能種”っていう生き物の子孫で、現代社会にも少数ながら生き残ってるのが、俺たち“可能種”」
「じゃあ、さっき六城さんを病院に連れていかなかったのは」
「俺たちは優れた身体能力と高い治癒能力を持っている。車を片手でぶん投げられたり、吹き飛んだ腕もくっつけときゃ一晩で治るくらいにな」
「もしかして僕が六城さんのことを覚えていなかったのも……」
「あぁ。普通の人間は“可能種”をはっきり認識できない。記憶に留めたり、認識し続けられるのは“可能種”と強い結びつきがある人間だけだ。“可能種”も人間に関わるのを嫌うから、俺たちを知ってる人間はほとんどいない」
流れるように行われた鴎と庵の応答は、鴎が見せた躊躇いにより一旦中断された。これを尋ねるのは少し勇気が要る。
「昨日の夜僕を助けてくれたのは」
先回りするでもなく、遮るでもなく、鴎の言いたいことを察して答えてくれた庵が、ここでは黙ったままだ。そのことに少しの感謝と落胆、そしてそれを感じる自分への失望を覚えながら、続く言葉を口にする。
「六城さんだったんですか」
語尾が掠れたことにも気づかず、相手の返事を待つ。
「ああ」
鴎の胸には、初め、やはりという実感が訪れたが、すぐさまそれを押しのけるようにして、罪悪感で一杯になった。
「理由があってあの子一人で校舎を見張ってたんだ。そこに君が来てあのカエルと鉢合わせそうになったから、間に割って入った」
庵の声が止むと、鴎の視線が下がる。その説明は自分に改めて突き付けられた不実を、なんら正当化するものではなかった。やはり結は自分を助けるために怪我をして、そしてその恩人を、自分は見捨てて遁走した。
脳裏に血の海で横たわる結の姿が浮かび、知らず奥歯を噛み締める。そんな鴎の様子を黙って見ていた庵は、やがて静かに口を開き、
「君には危険な目に遭わせた。申し訳ない」
頭を下げる庵をみて驚く。大の大人にこうして謝られるというのは初めてで、あまり気分のいいものではなかった。
「い、いや、むしろ僕が助けてもらったんですから、謝ってもらうことないです。それよりも、話の続きを」
庵が頭を上げて説明を続けると、鴎は少しほっとした。
「俺たちはあのカエルが学校に現れたことに気づいていたんだが、けしかけたやつの狙いが分かるまで監視に留めるつもりだった。もしその黒幕と接触したら、あの子一人で対処できるか分からなかったからな。そのことはあの子にも伝えてた。でもあの日、君が学校にきてカエルに出くわしちまったことを確認して、あの子はその場に飛んでいった」
リビングには庵の声と、置時計の秒針の音だけが響く。
「それで負傷して帰ってきたあの子に、俺は治るまで学校を休むよう勧めた。さっきも言ったけど、人間は“可能種”のことを覚えていられない。君はそうは思えないだろうけど、少し時間を空けてれば君は全部忘れてたはずなんだ。でも、あの子はそれを拒んだ。俺が理由を聞いても答えずに、ただ学校へ行くって言い張ったんだ。腹には包帯がグルグル巻かれてたのに。あんなに頑なな態度は初めてだったよ」
先ほどの庵の言葉も合わせて受け取り、身の置き所がなくなった気分でいた鴎に、庵から声が飛ぶ。
「実は、それについて聞きたいことがある」
庵の方を向いた鴎は、そのときだけ庵から発せられた、ここまで感じたことの無い威圧感に気圧された。意識されたものか分からないが、それはほとんど敵意と遜色ない温度で鴎の体を打った。
「な、なんですか?」
「あの子は君を友達だって言ってたけど、本当にそうなのか? ずっと友達なんて作ってなかったあの子と、どうやって仲良くなったのか気になってな。あの子が一方的にそう思ってるんじゃないのか?」
そうではないと即座に否定しようとした鴎の脳裏に、昨夜の自分の醜態が浮かぶ。
あんな状態で見捨てておいて、友達だと。
結局否定は果たせず、鴎は二つ目の質問にだけ答える。
「六城さんの委員会の仕事を手伝ってたんです。そのときに、好きな本についての話とかで盛り上がって、それで」
庵は、好きな本、と、呟き、組んでいた手を解いてソファに体重を預けると、天井に顔を向ける。ちらりと目だけ鴎に向けると、
「ちなみに何の?」
知られて困る話でもないのですぐに答える。
「万桐生っていう作家さんの、アルカンスの矜持って名前の…」
そこまで口にして、庵が明らかに驚きの表情を浮かべたのを見て、鴎の口は止まった。
「ふうん……」
と、口から漏らし、取り繕うように少し視線をさまよわせる。
「あの本をねぇ……」
戸惑う鴎の顔をまじまじと見つめながら呟きを漏らすと、
「あの子もそこらへんの本読んでたもんな。それでか」
と、納得した風に頷いているが、演技臭さの抜けきらないものだった。
何だか置いて行かれた気分の鴎は、居間に響く大音に体を硬直させる。見ると、先ほどから秒針の音で存在を告げていた柱時計が零時を指していた。ボンボン時計だ。
「もうこんな時間か……」
鴎と同じように時計へ目を向けていた庵は、
「他に今聞いておきたいことないか?」
「は、はい」
鴎の返事を聞くと、ソファーから弾かれたように立ち上がった。
「車で送るよ」
そう口にすると、あとはすたすたと玄関へ歩き去っていく。早口に礼を言いつつ、慌ててその背中を追いかけた鴎は、上がり框の辺りで振り返り廊下を見つめた。
冗談のように長い廊下は、奥に行くほど暗さと同居する静けさが増しているようで、そのどこかにいるはずの少女の気配は感じられなかった。
鴎は少しの間手を止めていたが、やがて靴へ目を向けた。
玄関の扉を開けると待っていてくれた庵に、この家も特殊な造りだと説明されながら再び門を潜る。
行きと同じ、住宅街に並ぶ民家から出てきた鴎は、キツネにつままれたような顔をしながら路駐されたままの車に乗り込んだ。
鴎にアパートの位置を尋ねた庵は、ハンドルを握りながら説明を続けた。
「俺たち“可能種”は大半が京都に住んでて、俺たちもそうだった。こっちに越してきたのは、江袋高校に逃げた“可能種”を追ってきたからだ」
「江袋高校に!?」
驚く鴎に、庵は頷いてみせる。
「他の一族からの依頼でな、こっちに逃げてきた“可能種”の対処を任された。ただ、潜伏先が江袋高校ってだけで、学生なのか教師なのか、それとも忍び込んでるホームレスなのかも伝えてこなかったんでな。あの子が夜張り込んでた」
“可能種”は人目に付く場所での活動を好まないらしく、昼間襲われる可能性は無いと庵は説明するが、もし夜に遭えば命は無いと知っている身としては、あまり気休めにはならなかった。
むしろ、昨夜の惨状は自分の通う学校の誰かの仕業だという可能性に気づき、ぞっとする。
「一目で“可能種”だってわかるあの子がいる以上、あまり目立つ真似はしないだろうから、そう心配しないでくれ」
鴎の動揺を推し量ったのか、苦笑とともに庵が漏らした言葉に、一つ疑問が湧く。
「向こうは、六城さんがその“可能種”だってわかるなら、六城さんにもわかるんじゃないですか?」
庵は顔をわずかに横に振ると、逆に鴎に尋ねる。
「鴎君、俺のこと最初からはっきり見えてたろ?」
庵の言う通り、夕方会ったときからその顔を認識できていたことを思い出し頷く。
「でも、あの子は顔も名前もぼんやりしてたはずだ」
もう一度頷く。
「さっき言った、昔は存在した俺たちの先祖、俺たちは“万能種”って呼んでるが、いなくなっちまったそいつらは今、どこか別の世界にいるって考えられてる」
突然要領を得なくなった説明に、鴎は曖昧な返事を漏らした。
「“遷界”っていうんだけどな、そいつらの持ってる力をこの世界が許容できなかったから、いつの間にかどっかいっちまったらしい。まぁそんで、俺たちはそいつらの子孫だから、そういう存在の不安定さも受け継いじまってんだよ」
そこでようやく得心のいった鴎は、同時に心中に冷たいものが下りてくるのを感じる。
「その、“万能種”の人たちと同じで、六城さんもいなくなりそうだったから、僕は覚えてられなかったってことですか?」
「“楔”って呼ばれてる、まだ生きていたい、ここにいたいって思いが、俺たちをこの世界に繋ぎとめる。でもあの子は、六歳のときに母親が死んで父親がいなくなってからどんどん暗くなって、いまじゃあの有様だ」
声の低さに込められた肯定の意と、告げられた結の過去に絶句する。家に叔父の庵しか姿が見当たらなかった謎が解け、代わりに何か切ないものが胸を占めた。
「“楔”が無けりゃ、傷の治りも遅くなるし、発揮できる力も少なくなる。周りに与える存在感はどんどん小さくなって、ある日いつの間にか……」
言葉の続きを探るように庵の顔を視線をやった鴎は、その瞳の昏さに息を呑んだ。事態の深刻さを認識した頭は、言葉が喉を超えるのを拒んだ。
ゆっくりと視線を逸らす鴎に、庵は何も言わなかった。
窓で隔てられた車内と外では、静けさに大した違いはなかった。体に力が入らないのは何も疲れのせいだけでなく、鴎は鈍化した思考を結のことに巡らす。
庵から聞いた話と、今までの結への認識、二つについて知った上で思い出されるのは、今日見た結の背中だ。
あのときは背筋の良さばかりに目がいき、何事にも揺らぐことのない城のような印象を受けたが、今はその小ささに思い当たる。それは事情を知る自分の感傷的な気分がそうさせるのかもしれないが、あの背中が独りきりだったことは確かだ。
今更ながらに思う。
結はどんな気持ちで、あの教室にいたのだろうか。その周りを囲む誰にも気づかれない少女は、何を思っていたのだろう。どうして、自分の名前も覚えていない同級生を、命がけで助けたのだろう。同じ立場ならそうしていたかどうか、二度も逃げだした身には即答できない。
思案に沈む体が揺れ、鴎は顔を上げた。気づけば、いつのまにか車は目的地である鴎のアパートの前に停まっていた。
「ここでいいんだよな?」
返事をして、礼を口にしようとした鴎に庵が話しかける。
「鴎君」
何を言われるのか予想がつかず、鴎はわずかに体を強張らせた。
「あの子と話してくれてありがとうな。でも、もうこれ以上巻き込まないよう関わるなって言っておく。あれだけ事情を話しておいてなんだけど、君もこのことは忘れるようにしてくれ」
今度の、温かみを含んだ眼差しにも何も言えず、鴎は曖昧に頷くともう一度礼をして車を離れた。一階の端にある自分の部屋の前まで辿り着き、ふと後ろを振り返ると、小さくなった車がまだそこにあった。
それを見ていると、背中の小ささは、二人の距離が原因なのではないかと思った。自分は結という個人のことをまるで知らない。好物、趣味、誕生日。友人なら一つや二つ知っていそうなことも見当が付かない。それを踏まえると、やはり知人程度の関係だ。
今日得た知識も表面的なもので、増々結の気持ちが分からなくなった。どうして自分を命がけで助けたのかもわからない。知れば知るほど遠ざかる背中が、見えなくなるのは時間の問題だろう。
取っ手に手もかけず、鴎は扉と向かい合う。このまま部屋に入って何事もなかったように登校すれば、明日の自分は一切合切を忘れているだろうという淡い予感があった。あんな恐怖とは無縁な、微睡むような日々の安らぎが、この扉を隔てた先にある。
そしてそれは、あの背中を見失ってしまうことを意味するのだと思ったとき、鴎の口から漏れ出た吐息が空中へ溶け出した。
緩やかな動きで踵を返す。ぬかるんでいた思考に、一つの指針が出来上がった。何ができるか分からないけれど、何かしたい、ひとりぼっちの恩人のために。あのまま誰にも気づかれず、いなくなってしまうなんてあんまりだ。
何より、この三十六時間で充分みっともない真似をした。これ以上繰り返したくないと思う程度の気概は、鴎にもある。何の借りも返さずにのうのうと笑っていられるほど、無神経ではいたくはなかった。このままにしたくない、このまま終わらせたくない。
意を決した鴎は、一歩一歩を踏みしめながら来た道を辿った。黒塗りの車に近づく。運転席の人物の顔を目にしたとき、思惑通りだったのだろうか、という感想が頭に浮かんだ。