ブルドッグ
冷凍庫に入れていたせいでモソモソとした食感になってしまった食パンをモソモソと食べ終わると、鴎は高校へ向かう準備を始めた。夏が過ぎ、そろそろ十月なので、夏服のままだと剥き出しの腕を肌寒さが襲う。
学校にたどり着くと、既に友人たちは登校していた。
「あのラーメン屋美味いよなー、俺もうめちゃくちゃ行ったわ」
「どれくらいだ」
「週に九回は」
「めちゃくちゃ好きだな」
「まあ、お前ほどじゃねえけどよ」
「…バカ」
鼻をこすっている体つきの良い方が大寺仁で、後ろ手を組んで下を向いている大柄の方が倉沢剛史だ。
「おはよう、少女漫画ごっこ?」
鴎は友人たちに声をかけながら席に座った。教室を見るともうかなりの生徒がやってきている。
「おう」
「おいおい遅いぞお前、たるんどるんとちゃうんか?おう?」
仁がぐいぐい肩を押し付けてくる。
「ちょ、痛いよ、やめてよ、ちなみにどれくらい?」
「うちのプリンちゃんの顔くらい」
プリンちゃんは仁の家で飼っている、見るものを悶絶させるつぶらな瞳が特徴のブルドッグだ。
「ブルドッグって顔の皴の汚れ取らないと病気になるらしいぞ」
剛史が、あたかも訃報を伝えるが如き厳かな声で呟く。またどうでもいい知識が増えてしまった。
「へー」
鴎は腕組みをした剛史に生返事をしながら自分の席に向かう。そうしてちらりと、今朝の夢の中に出てきた人物の机を窺った。
「ちなみに頭を叩くと目が飛び出る」
「ふーん」
教室に入ったときも、嫌でも視線がそちらへ行ったが、やはりそこに姿はない。
「…あと水中で呼吸ができる」
「反応薄いからって嘘はダメだよ」
「…ごめん」
最近は鴎が学校に着くよりも早くに来ていることが多いが、丁度席を外しているのだろうか。
そう思っていると、教室の前の扉が横に滑り、目を引く金と黒の髪が現れた。その色を認めた途端、鴎の心臓が一際大きな音を立てた。
六城結は、異母姉妹である六城クレアと何事か話している。夏から編入してきたクレアは、出会ったときは喧嘩腰だったくせに、今ではすっかり結と仲良しになっていて、学校でどちらかを見かけるとどちらかが隣にいる。
近頃男子生徒の間で話題に上がる頻度が増えている結は、そんなことに毛ほども興味がなさそうなクールな表情で、クレアに相槌を打っている。改めて見ると、夢の中にでてきそうな程に整った顔つきだが、夢で見た姿よりもきれいな気がする。
元々女子と雑談をするタイプでもない鴎は、今のように席が離れていると話す機会がない。夏休みの間ほとんど会っていなかっただけに、座席の間隔の何倍も距離が出来てしまった気がする。
そうしてぽけーっとした顔つきをしていると、仁が肘をドリルのようにぐりぐりと回しながら鴎の横腹を突いてきた。
「おい、聞いてんのか?!」
「痛い!痛いよ!」
「やっぱたるんでるなぁお前!」
剛史も加わって二人がかりで脇をくすぐってきた。
思わず笑い声を上げながら身をよじっていると、HRが近いことを知らせるチャイムが鳴った。
「文化祭近いんだからもっと気合入れてけよ!」
やっと解放され、ひぃひぃ言いながら席に座ると、周りから少し見られていたことに気づいた。気まずくなったが、同時に仄かな期待が胸をよぎり、結の方へ少しだけ視線を動かす。しかし、残念ながら結は姿勢よく椅子に座って教壇を向いていた。
恥ずかし損だなぁ、と思いながら、鴎も背筋を伸ばしていると、担任教諭が教室に入ってきた。いつもならそれを境に教室の雰囲気は変わるのだが、今日はまだどことなく緩いままだ。
理由は江袋高校に通う生徒なら誰もが思いつくだろう。仁が言っていた通り、文化祭がもうすぐそこまで迫っているのだ。公立では精々大きな企画でも演劇くらいなものだが、やはり高校生たちが文化祭という非日常に寄せる期待は大きく、校舎全体がのぼせているようだ。
自身少し浮かれていることを自覚しつつ、鴎は担任の話へ耳を傾けるのもそこそこに、結の背中へばれないように視線を送った。斜めに座るクレアがこちらをちらりと見るのにも気づかず、あんな夢を見たのも浮ついてたからかなあ、と鴎はぼんやり考えた。
夏が終わると長髪は落とされ、短めに切り揃えられていた。どんな髪の長さでも、似合う人は似合うものだ。
夢の中でなら、そんな考えだって伝えられていただろうに、今の自分には難しい。話すようになったころはこれほど気負っていなかったはずだが。
目が合わなくて正解だったかもしれない。あんな夢を見た後に、どんな顔をすればいいか分からない。知らず漏れたため息が、湿り気の少なくなった空気に溶け込んだ。