少年の日の
「ただいまー」
一般人には縁のない大きさの玄関で靴を脱ぎながら、六城庵は帰宅を伝えた。小さい頃数えようとして、その多さにすぐ諦めた部屋と廊下の奥から、はーいという返事が聞こえた気がした。
手洗いうがいをして自分の部屋で着替えると、居間へ向かう。いつも家族で食事をとる机に座った姉、六城紡が、こちらを見てほほ笑んだ。
「おかえりなさい、庵」
「うーい、ただいまかえりましたー」
庵はそう言いながら床へ座る。すると机で隠れていた姪、六城結の姿が見えた。
そろそろ一歳になる結は、くりくりとした黒色の目で庵を見つけると、持っていたおもちゃを放り投げて腕をわしゃわしゃと動かし始めた。
「なんだよ」
庵は結を抱え上げると自身の膝の間に座らせた。結は庵を小さな指で力いっぱいに指しながら、「おー」と言っている。
「何言ってんだ?」
「結は本当に叔父さんが好きですねぇ」
姉はにこにこしながら二人を見ている。
「叔父さんのおーじゃなくてお兄さんのおーだよ、多分」
「おー」
少し騒ぐと落ち着いた結を膝に乗せたまま、庵は体を脱力させた。
「疲れたんですか?」
「んー、まあ、別に」
もう中学生になった身としては、疲れたなどと弱音を安易に口にしたくなかった。そんな心境はすべて見抜かれているとも知らず、庵はそれ以上語るのを避けた。
人とは異なる生き物である “可能種”が多く住まう京都では、近頃不穏な空気が漂っている。四摂家が主導権を奪還しようとしているとも、現状を不遇と捉える五大家の支族たちが下剋上を企んでいるとも、あるいはその両方だとも。
火事の前触れに煙が立ち込めるように、今の京都では宜しくない噂が絶えず、騒動に近しい六城家の一員である庵としても、当たり前の日常を過ごしているだけで、拭えない重さが肩に加わっている気がしていた。
六城家が京都に居を構えている以上その負担は紡も同じはずだが、保護者であると自負する重みが、つい最近反抗期を終えた庵へ向ける眼差しに力強さを加えていた。
そうして、庵が家へ帰ってきて気が抜けただけだと見極めると、紡はいつも彼女が浮かべている暖かい笑顔で、
「おやつの時間にしましょうね」
そう立ち上がる背中に、庵は少し硬い声で尋ねる。
「あの人は?」
「今日は遅くなるみたいです」
「……今日もだよ」
決して聞こえぬよう小さい声で呟きながら、目の前の幼い顔を見つめる。まだ赤子の段階では、両親どちらとも似ていないが、庵は出来れば母親にだけ似てほしいと思っている。
入り婿の結の父親は、いつも親戚との会合や“命題”の研究に時間を割いていて、庵はおろか、娘の結、妻の紡と話しているところすらほとんど見ない。
結に庵のことを叔父と呼ばせて、他の呼び方は許さないような古臭い価値観を押し付け、母親代わりの姉への扱いに情を見せたことのない父と同じで、庵にとっては姉との平穏な空間を乱す存在であり、家族だという感覚はあるかないかというくらい薄く、蜘蛛の糸よりもか細い。
唯一の拠り所だった姉を奪った男への憤りに似た感情は、当の本人が不在がちだったこともあり、自分を裏切ったように思えた姉へ向けられ、庵の反抗の対象はほとんど紡一人だった。
突然拒絶された紡は、態度にこそ出さなくても傷ついていて、元より姉が大好きな庵としてはそんなことで気が晴れるはずもなく、姉に冷えた態度を取ると同時に自分を苛むような息苦しさが増すだけの日々だった。
それを終わらせたのは、二人の間に生まれた結だった。姪が生まれて、年長者としての自覚が生まれたとか、そんなきれいな話ではない。ただ、自分が向ける、嫉妬や憎しみの暗い目線に何ら構うことなく這ってくる結を見ていると、段々と心の張りが緩んでいった。
久しぶりに姉に話しかけて、元気に返事をされ、そしてそれが涙声混じりだったことに気づいた身としては、父親が誰であろうと、きっかけをくれた結へ感謝する気持ちがあった。
だからこそ、死んだわけでも別居したわけでもない父親に構ってもらえないこの子を見ていると、不憫に思うのだ。
「お前だって、あんな父ちゃんでもいた方が嬉しいよなあ」
庵は結の脇の下を持って抱き上げた。そこだけは六城家の血を色濃く感じさせる深い黒の瞳で、結は庵を見つめている。開いた口の端からたらたらと何かが流れ落ちた。
「あーあ、涎たらしちゃってまあ」
そう言って結の口を拭ってやり、床の涎も拭き取ると、何が楽しいのか、結はきゃっきゃっとはしゃいでいる。
「だから何言ってんだ?」
庵は苦笑いしながらまた結を膝の上に乗せた。