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プラスチックと銀

作者:芹沢紅葉
 私は母を捨てた。

 三年前に父が還暦を迎えると同時に他界してから、少しずつ母に認知症らしき症状が見られ、様子がおかしくなった。半年に一度、帰省をしているが、その度に変だとは感じていたのだ。

 実家から珍しく電話が来たと思ったら親戚からで「認知症が進んできていて、もう母を一人で生活させるのは無理だ」と言う。私は仕事をやめるわけにはいかず、始終母の面倒を見ることもできないと判断を下し、親戚と話し合った末、今私が暮らしている付近の介護施設に入所させた。母は何も言わなかった。

 いくら週休二日とはいえ、毎日忙しいことに変わりはない。そんな中で母の介護なんて出来るはずもなかったのだが、時折ふと思うことがある。

 私はお金を使って母を売ったのだ。

 母が私を生んだのは四十を過ぎてからで、子供は私一人だけ。今年で六十八になる、はずだ。そういえば、母の年齢をよく覚えていない。

 私が母と一緒にいたのは、十八までだった。大学に進学するために家を出て以来、母と顔を合わせるのはたまの帰省と父の法事くらい。他は親戚に任せきりだった。家を離れて七年経った今、母は近くの介護施設でお世話になっている。

 母が良くなることはなく、今ではちゃんと私のことを覚えているかどうかも定かではない。それでも、毎週土曜日に必ず様子を見に行くようにはしている。それは本当に、様子を見るだけで特別何かをするというわけではないのだけれど。

 私は母のいる部屋に入る前が一番緊張する。覚えてはいなくとも、母に何か言われるのではないかと考えてしまうのだ。それは、昔のことであったり、こうやって施設に入れてしまったことだったり……。それを持ち出されたら、私は何も言い返せない。週一で一番憂鬱な時間が、この扉の前に立ってからの二、三分だ。

 一呼吸を置いた後、今日もスライド式の扉を開ける。母はベッドの上でぼうっとしていた。その眼はどこを見ているのかよく分からない。だが少しすると、ふと夢から現実に戻ってきたように目の焦点が合って、ゆっくりと私の方を見る。まるで人形のようにゆっくりと動く母に、いつもドキッとさせられる。だから、母が口を開く前に私は声をかけるのだ。

「お母さん、千沙だよ」

 母は少し不思議そうな顔をして私に聞く。

「どちらさま?」
「千沙だよ」
「ああ、そうね、そうやね。よう来たね」

 曖昧な返事は私が誰か分かっていない証拠ではないだろうか。私は母にとって「よそ様」になってしまったのだ。私が知り合いらしく振舞うから、母は失礼にあたらないように上手く誤魔化しているのだろう。

「ご飯食べた?」
「もうよか。よかばい」

 会話は微妙に成立していない。よか、と繰り返す母を、私は母と思えなくなってきている。この人は、母のフリをした宇宙人かなにかなのではないか。

 ベッドの傍に備え付けられているテーブルの上に、大量に残ったご飯が置いてあった。スプーンが濁ったように汚れていることから、少なくとも食べはしたのだろう。だが、残された食事はもうすっかり冷めきってしまっていた。

 一度母に無理やり食事を取らせようとしたところ、嫌がられてしまった。それからはこうした確認しかしていない。食べたくないなら仕方ない、と諦めたのだ。食事は回収され忘れているのかもしれない。下げるくらいはしてあげよう。スタッフさんに手渡すだけだが。

 深くなった皺と、ほとんど白髪になってしまった母は、なんだか父が生きていた頃よりも一気に老けたように見える。

「最近は天気もよかねぇ。お隣の山田さんも畑仕事がしやすかろうたい」

 そんな母の話を私は、いつも通り適当な相槌を入れながら少し聞いて、「また来るね」とだけ告げて部屋を出た。

 自動車は持っていないので、歩いて社宅に帰る。私の足元で夕日に炙り出されたかのように色濃く影が伸びている。まだ五月になったばかりだが、この様子だともう半袖を出してもいいかもしれない。ぼんやりと考え込みながら、私は早足で家へと向かう。影は足にこびりついてきた。

 私は色々と、母に酷いことをしてきた自覚がある。年を取った母が嫌いだったのだ。小学生のころは周りの同級生の母親を見る度に羨ましく思っていた。授業参観で他の綺麗なお母さんたちの中に、おばあちゃんみたいな母がいたのはすごく恥ずかしかった。綺麗な花畑に枯れた木があるせいで、景観を損ねているような感じだった。

 気が付けばいつの頃からか、私はそういった「授業参観のお知らせ」を母に渡さなくなった。すると見事に生徒の後ろに並ぶのは綺麗な母親だけとなって、一気に見栄えが良くなった。今にして思えば、そのことに母は気が付いていたと思う。定期的なお知らせがこない理由も察していたのだろう。

 父は若作りだったから実年齢よりかなり若く見えて、実際の年齢を言うと驚かれたものだ。そんな若々しい父が私は大好きだった。自慢のお父さんだ。小さい頃に肩車された景色は普段見るものと違って、新鮮だった。もうあの高さからの景色を二度と見ることはない。でも、私がもしボケてもそれだけは忘れはしないと思う。

 今思うと、私はかなりのお父さんっ子――ファザコンだったのだろう。父が死んだときはかなり泣いたが、私は母の葬式では泣けるのだろうか。

 私と母の思い出は、どちらかといえば私の一方的な嫌悪で作られている。それでも、今では父のことよりも母との些細なことを思い出す。頻繁に会いに行くようになってから、母との時間が増えたのも影響しているのかもしれない。ただ、思い出す度に私は母を見捨てたのだと言う靄がかった罪悪感に襲われていた。

 母は、介護施設に入所してしばらく経った頃から、何度も何度も同じ言葉を繰り返すようになった。最初は、同じ話を一時間に一回繰り返すだけだったというのに。もう何を話したのかさえ覚えられなくなっているのだ。私が会いに行けば行くほど、母は取り留めの無い話を繰り返すようになっている。

 家に帰るなり、ごちゃごちゃした考えを追いやりたくて押し入れから半袖を引っ張り出す。衣替えを黙々と進めていると、奥から表に「ダビング済み」と書かれた二十センチ程度の箱が出てきた。なんだったか思い出せずに蓋を開けると、DVDが入っている。父の遺品整理で引き取ったものだ。

「……そういえば、まだ見てないや」

 独り言をつぶやきながら、いったいなんのDVDなのか気になってデッキに入れると、自動的に再生画面になる。それなのに画面は真っ暗なままだった。声が聞こえてくる。

「うーん、撮れてるのかなぁ。画面暗いんだけど」
「お父さん、蓋取らなきゃ撮れないでしょ」
「あれ、どうやって取るの?」
「もう、貸してごらんなさい。あ、ちーちゃんまだ駄目よ、だーめ」

 お父さんとお母さんの声がした。どうやら私が物心つく前のものらしい。きっと父がテープからDVDに焼き直したのだろう。いきなり画面が真っ白になって、ピントがぼやけながら徐々に合っていく。画面いっぱいに映りだしたのはお父さんのどアップでびっくりした。お母さんの笑い声が聞こえる。我が家の初ビデオは大好きなお父さんのどアップか。今では生前のお父さんを見ても、悲しみよりも懐かしさが溢れてくる。画面が大きく揺れ、今度はお母さんと幼い私が映された。

「千沙ー、こっち見てー」
「あら、ご機嫌斜めかしらねぇ」

 一歳になるかならないかの私は木製のチャイルドチェアに座って、少し不機嫌そうに食卓に並べられた小皿に手を伸ばしていた。それを見た母がペースト状にされた離乳食を子供用の小さなスプーンにすくっている。子供用アニメのキャラクターが描かれたプラスチックのものだ。小学校の中学年までうちにあったのを覚えている。

 だが、私が一番驚いたのは、母の姿だった。私の記憶の中の母と違い、二十代には見えなくとも綺麗な女性だった。きっと、これが私にとって一番若い母の姿だからかもしれない。

 母がすくった離乳食をなかなか食べようとしない私を見て、母は食べるフリをしてみせる。じっと見つめる幼い私に、母は楽しそうに笑ってゆっくりとスプーンを差し出した。

「ちーちゃん、あーんして。あーん」

 その声を聞きながら、小さなスプーンを咥えた私に、画面外から大きな手が頭に伸びてくる。お父さんの手だ。優しい手つきで私の頭を撫で、父は満足そうに言った。

「いい子いい子、千沙はいい子だね」
「たくさん食べてね、ちーちゃん」

 母の手から与えられたものを、幼い私は素直に食べた。おなかが満たされたのか、不機嫌な様子は消え、無邪気な笑みを浮かべている。母と私が一緒に笑っている。その光景が信じられなかった。

「おいしいねぇ」

 手間をかけて作った初めての離乳食を食べてもらえたことが嬉しいのか、母は穏やかな笑みを浮かべている。ふと、自分が母に食事をさせようとした時のことを思い出した。忙しくてとりあえず無理矢理にでも食べさせようとしたことを、母は嫌がったのだ。

 私は一体母に何をしてあげられただろうか。母と仲が悪くなったのは口喧嘩をした中学生の頃で、親孝行なんて全然しなかった。私がしたことといえば、施設にいる母に会いに行っているだけではないか。靄がかっていた気持ちがはっきりとした形になっていく。私は、母のことなんて何も考えてなかった。罪悪感が私の心を覆っていく。

 甲斐甲斐しく私の面倒を見る母の姿に、私は暫く画面から目が離せなかった。



 あくる日曜日、私はまた母の病室にいた。二日も続けて来たことなんて初めてだが、母は昨日のことすら覚えていないのだろう。驚いた様子はなかった。

「お母さん、具合はどう?」
「まぁまぁやねぇ」
「ご飯食べてないじゃない。ちゃんと食べなきゃ駄目よ」
「そうねぇ」

 食事はまだ運ばれたばかりなのだろう。銀色のスプーンを手に取って、いくらか固形物の残っているおかゆをすくう。昔のお母さんを真似て、笑みを浮かべながらゆっくりと口元に運んでみる。呆けたお母さんの介護。現実と罪悪感から震えそうになる手で恐る恐る食べさせれば、お母さんは何の抵抗もなくそれを口にする。その様子を見ていると。私は自然と涙が出てきた。

 私の世話を焼いていた母が、私に世話を焼かれている。そうしないといけないくらい、母は老いていたのだ。もっと早くそのことに気が付いていれば……。気が付けば私の口からは。謝罪の言葉が飛び出していた。

「ごめんね、お母さん。ごめんね」

 モゴモゴとゆっくり口を動かしているお母さんの目に、今の私はどう映っているのだろうか。見知らぬ他人が唐突に泣き出したようにしか見えないかもしれない。自分の子供が、自分のことを思って泣いているとは分からないかもしれない。

 母とちゃんと会話をすることさえ出来なくなっていた。母の記憶に、私は残っていないのだから。小さなプラスチックのスプーンでご飯を食べさせてくれたことも、私が授業参観のお知らせを渡さなかったことも、今では私一人しか覚えていない。

 感謝や謝罪を伝えたところで、母には分からない。伝えたとしてもすぐに忘れてしまう。今更面倒を見たところで、意味はないのかもしれない。

 だが母は、スプーンを持ったままの私の手を握って、穏やかな声で言った。

「おいしいねぇ、ちーちゃん」

 あの映像と同じ、綺麗な母の笑顔だった。

(END)

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