古きミーム
これは私の一つの答えです。
拙いですが、よろしくお願いいたします。
さぁ考えようか。
『人が人を殺してはいけない』 と
一体誰が決めたのかを
始めに、この疑問を解くには、この言葉の背景を考える必要がある。まずそれは古くから残る凝り固まった倫理観であり、例えるなら人間に根付く
ルールの花と言える。そこに根付いた花の蔓は、今もなお人に食い込み縛りつけている。
しかし当然、花は永遠に咲き誇るわけじゃない。現に今、倫理は枯れ始めている。『人が人を殺してはいけないのか?』と。それはつまり、
人を縛り付けていた蔓がほどけ、自由を得た人間が生まれつつあるということと
言えるだろう。
一見一つの進化と見えそうな事象だが、自由となった人間は蔓の代わりに
本能に縛られる。
それは自分だけでなく周りをも傷つけ
人を人で無くしてしまう。その事実からこれを進化とは言い難い。
蔓は人にとって鎖であるが
人を守っているのに対して、
本能は人にとって自由であるが
人同士を傷付けるのだ。
この思想の背景について知ったところで、さて改めて考えよう。
『人が人を殺してはいけない』と
一体誰が決めたのかを。
私が答えるならそれは理性だ。なぜなら、人は進化と共に理性を得たからである。人は同種である人間を傷付けないため、理性という鎖で己自身を縛り付けたのだ。つまり理性は人特有の生き残る術なのだ。
この答えが正しいなら鎖は、 人と獣との違いを表す存在証明と言い換えることができる。鎖があるから人を殺すことを躊躇する。いや躊躇することができるのだ。
しかし今 人は獣に戻りつつある。
それは社会のストレスからなのか、生まれもった思考からなのか。
理由は何にせよ、理性と引き換えに自由を得るその行為は退化だ。哀しく、愚かなことなのだ。
ここまで来れば解るだろうが、結論として私は、人を殺すことに賛同しない。
人はやはり人であるべきと考える。
しかし、この世界には多くの人間がいるため、その数だけ道が生まれる。このような素晴らしき多様性があることで、哀しいことに人間には、理性と自由を決める選択肢が与えられてしまう。鎖で雁字搦めとなるが人間であることを選ぶのか、自由を得るが獣と成り果てることを選ぶのか。決めるのは己自身であり誰にも変えられない。
ここまでが私の考えだ。
さて、君はどう考えているのだい。