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インディア~親蜜の香り~その一章   作者: サーガ・ノレーン
3/3

インディア~親蜜の香り~

既に一夜を過ごした後です。

英国とインドの文化の違いに重点を置いているように見えたら嬉しいです。

インディア~親蜜の香り~その二章 1

2.


 リンゼイはアーシャを連れ去るべく、次の日にはナーラーヤン家の両親に挨拶に行った。インドで必ず喜ばれるというチョコレートケーキ、ブラックフォレストを土産に。

 タクシーから降り、整備もされていない土埃が舞う路なりに降り立つ。剥き出しの屋台が幾つか並びんで、土と雑草の上に建った集合住宅の一角に住んでいると聞いていた。女たちは皆色鮮やかなサリーを着ながらも、裸足で行き来している。水道と井戸が共存し、頭に水の壺を載せて歩く貧しさに彼は呆然とした。それより驚いたのは、自分の美しい婚約者が一際汚らしい人々の塊に近寄って行き、幾つもの壺を受け取ると、井戸に行って水を汲んで手渡すのを数回繰り返したことか。

 親近感を湧かせる苦肉の策で、彼は更紗の立て襟シャツを身に付け、麻のズボンとサンダルを履いていた。まるでヒッピーである。しかしこの暑さには丁度良く、涼しい。やはり現地の恰好が一番だった。

 リンゼイも見ているだけでなく手伝ったので、汗が滝のように流れ落ちていた。周囲に人が集まり始める。彼にはこのホームレスの為に水を汲んで持って行ってやることが、見せしめの辱めのように感じられた。こんな馬鹿げたことを、この自分がしているなんて。

 彼女は、未来の夫の忍耐を試してでもいるのか!?

 不満そうなリンゼイに、アーシャがいう。

「貴方は手伝わなくても良いのですよ、サー」

「どうして、こんなことをするんだ」

 息も絶え絶えのリンゼイに、アーシャは哀愁を含む複雑な微笑みを返す。

「彼らはアウトカースト、つまりアンタッチャブルなんです。彼らはこんなに暑くても、私たち階級の上の者が水を井戸から汲んで手渡さねば、綺麗な水が飲めません。分かりますか? 穢れているから、井戸に触ってはいけないのです、ずっと大昔から、気紛れにこうして誰かが水をくれるのを待たねばなりません、そうでなければ泥水を飲まねばならないのです。掟を破れば……」

 彼女は俯き、涙を浮かべる。破れば何か、酷い罰が下るのだろう、と彼を推測する。リンゼイは後ろの黒い塊の人だかりを振り返り、痩せた産まれたばかりの赤ん坊、そしてひたすらに此方を見つめる少女を見た。目下温暖化のせいで暑さは尋常ではない、四十度はあるだろうか。彼らは原住民なので、自分ほどは汗を掻いていない。彼は無意識に自分のナップザックの中にある、買ったボルヴィックを触った。水が飲めないだって? 目の前に井戸がありながら?――人間は水が飲めなかったら死ぬ。咽喉が渇いてひりついていたが、それを出して飲む気は失せた。

 リンゼイは婚約者を見て、分かった気がしていた。これは「偉大なる」アーシャの慈善事業の一つなのだ。もしや、仕事から帰った時はいつもこうしていたのだろうか。不意に彼はアーシャが空港で彼を救い出した、初対面の時を脳裏に蘇らせた。彼女が積んだ徳があるから、あの子供たちはいうことを聞いたのではないか? あれは魔法などという安易なものではなかったのだ。

 この衝撃的現実の他に、特筆すべきことがあるとするなら、英国人からしてみれば複雑な気分になるほど、彼女の一家全員が容として美しかったことだろう。

 家の玄関には幾つもの美しい模様が描かれて、彼を歓待した。新しい家族になる予定の一家は、高くて買えない筈の様々な野菜――ヒンドゥー教徒は菜食主義である為、肉はない――料理の出前と、菫の香で迎えてくれた。

 父親は東洋人にありがちな年齢不詳の趣があり、大きな目、白い髭は立派で、知性を感じさせる大きな双眸を持っている。父親の若い頃に生き写しであろう弟は、特にアーシャと似て恐ろしいほどの美形で、大きな瞳、通った鼻筋、薄い唇に褐色の肌を持っていて、中途半端な長さのウェーブがかった髪を後ろに流して額を見せている。

 姉は作法通り目だけ出したスカーフをしていて、妹の夫を誘惑しないよう一度も口を聞かず、一度も視線を合わせなかった。母親は思った以上に肥っていたが、往年の美貌を留める程度で、耳、鼻脇、口にした赤い硝子のピアスは彼女を引き立てている。彼らは座ったリンゼイの足に右手で触り、それを己の頭に持っていって挨拶をした。

 仕来り通り輪になって座り、地べたに座り不浄の左手を脇に垂らしたまま、バナナの葉の上の米とカレーを手掴みで食べる食事の味は緊張の余り定かではなかったが、この家の温かで知的な雰囲気は、リンゼイに感銘を与えた。彼の隣には一定の空間を置いて父親とアーシャが座り、向こう側には弟、姉、母親が並んで座っている。しかし母親は給仕に専念し、食事に手を付けようとはしない。主婦は家族の奴隷なので、食卓を囲んではいけないのだ。

 食後、女たちが別室に去った後、やはり父親は彼の階級を気にする素振りをした。ここが腹の決め時だ、リンゼイが真剣にいう。

「娘さんのジャーティなんか関係ありません、彼女を尊敬し、愛しています」

 ジャーティとは生まれのことである。それが同じでないと結婚出来ないのだ。

「持参金も、要りません」

 始めは建前だと思ったのか頑として譲る気配もなく、次には「ただ」で持っていった娘を売る気なのではないか、と疑った。しかし新郎を信じた後は、ヒンドゥー人父親は涙を流し、彼の手を取って額に戴き、

「貴方は立派な男だ」

 といった。平均寿命を過ぎた中年のこの男は、娘に持参金ではなく教育を与えるような、革新的な男である。娘が選んだ男が持参金ではなく、娘そのものを求めているのだと理解したのだ。

 未来の弟が、

「アーシャを殴ったら許さないよ」

 といったのも、インドに対して造詣が深くなり、侮辱ではないと知っていたので、義弟の姉に対する心配を快いとすら感じた。

 たった一つ、リンゼイの気に障ったことがあるとすれば、風習からの離脱には賢明なな彼らもまたヒンドゥー教徒であり、世界に蔓延る悪に対して全く意識を向けないようにしていたことだった。

 女たちが戻って来てから、リンゼイが何の気なしに平均年齢について今の大統領はどんな政策を採っているのか、と質問したがった時にそれが分かった。彼にとって、社会状況について話すのは夕食の作法に則ったものであり、それが無礼なことだとは思いも寄らなかった。いうまでもなく、英国でも労働階級の者と貴族が社会について語る場合、摩擦が起きることもある。しかしリンゼイは始めに、こういっただけなのだ。

「少し前に、工場の弊害について英国の新聞を読んだのですが、益々貧富の差が拡大しているという訴えが載っていました。ここら辺でも大変であったそうですね。英国でもテロの警戒で悲惨な事件が起きましたし、他人事とは思えません。この辺の治安を守っているのはマハラナだということですが、いかがですか」

 マハラナとは、マハラジャのヒンドゥー読みである。そこまで気を使っているにも拘らず、話は二転三転する。

「あの方々は料理人でもあるんですよ、素晴らしい料理をお作りになります。宮殿こそ豊かですが、日常の小さな喜びを愉しまれておりますよ」

 リンゼイが感じた違和感は、大きい。

「そうですか……ですが、やはり暴力事件の責任は、彼らにもあるのではありませんか? 此方でも餓えて死ぬ人々が多いとお聞きしますが、英国も抱える問題ですが貧富の差が、残酷な事件を――」

「いいえ、いいえ」

 父親は首を振って、自分の妻と娘を追い遣ろうとした。何がいけないのか分からない英国人に、弟のが小声で説明した。

「穢れを家に持ち込んじゃダメなんだよ、聞くと魂を汚される」

「その通りです、サー」

 父親は大きく頷きながら、いう。

「失礼ながら、では何処で話せばいいのですか?」

 新郎はむきになって、女たちの移動を押し留めた。新しい家族が彼を相手にせず、まるで彼自身を愚鈍であるかのように窘めたからだ。確かに、リンゼイにも遅れた世界に住む人々を啓蒙したいという慢心がなかったわけではない。そして、この怒りは自分の方が正しいと思っている「先進的な人間」が、遅れた人々に劣っていると指摘されたことに触発されたものである。

 しかし、それを差し引いても彼らの返事は納得がいかない。というよりも、外語大学を出て航空大学校に入った教養溢れるリンゼイには、彼らが何を話しているのか解らなかったのだ。だから次の言葉の弁えなさも、認識していたが止められなかった。

「インドの貧しさはアフリカ以上といわれています、問題は貧富の差ではありませんか。マハラナは責任を感じるべきです、経済大国が福祉を慈善事業に頼るなんて考えられないことだ」

「彼らはその仕事をしているのですよ、誰でもその仕事をしたくないものに押し付けたりすることはできません。誰でもその選択に罪の意識を感じることなどないのです。私は現場監督です、英雄ではない。人を救うのは英雄です、私の仕事ではないのです。そうでしょう」


「では、貧しい人々はそうされたがっているから、今の生活をしているというのですか? いえ、それも一理はあるでしょう、でも誰もが餓死したいからしているなどとはいえない筈です。そもそもマハラナが料理人だと仰いましたが、それは生活の為ではないはずだ、単なる暇潰しでしょう。莫大な富を持っていながら、人間的な生活をひけらかして同調を求めるなんてのは、誤魔化でしかない」

 リンゼイの無作法に対し、義父の反応は思ってもいなかったものだった。

「これは度し難い唯物論者だ! 見えるものしか見えないのだから!」

 そういって、かかと笑ったのだ。それは喝采に近い。

「貴方様は御立派な政治家のようだ。違うのです、我々は内的世界の話をしているのですよ、いつだって不幸になるのは自分が悪いのです。犠牲のように見えるのは目が曇っているからなのですよ。人々は皆、あるがままに平和に、存在すべきです、自分が正しい、善いなどとは考えるべきではありません。世がどれだけ騒々しくても、常に自分の果たすべき役割をただ果たすことがヒンドゥーの平和です」

「――じゃあ、地主に襲われて身包み剥がされた挙句、乱暴されて井戸に突き落とされた女性は? 野晒しの不可触民の死体に何も思わないんですか? 夫に殴られる妻は? 焼き殺される妻の多さは異常としかいえない。善良に生きているのに降り懸かる災厄の七割は、宿命なんかじゃない!」

 その時、言葉を切ったのは義母と義姉が耳をサッと塞いだからだった。アーシャはそうしなかったが、どうやらそのせいで弟に耳を塞がれている。リンゼイが唖然と見返していると、弟がそれを止め、今度は英国人に向かって右手を伸ばし、白い手をペチリと叩いた。

「悪い考えを吹き込もうったってダメだよ、そんな話をこんな所で話して」

 その態度は決して、リンゼイを憎んでいるようにも馬鹿にしているようにも見えない、親愛を込めたものである。義父は同じように柔和な笑みを浮かべていう。

「そんなことを考えてはいけません、特に悲惨なことは話してもいけない、そんなことを家の中で考えていたら、意識から穢れを取り払うことが難しくなってしまいますよ。目に留めるもの、話すことは心に降り積もっていきます、穢ればかりを見ていると、人は自分の心を見たくなくなります。しかし何より幸福は無意識から現れ出でるものであり、だからこそ純粋に自分の内面を深く見つめねばならないのです。不幸を見ることで、我々の意思が穢れることの方を恐れねば」

 男は目を瞑って首を横に振った。

 まあ、だからアーシャを、働いているような女を選んだのやも知れぬ――古代インド叙事詩ではこういっている。賢明な男は蟲のわいた身体に触ることを避けるように、汚れた女の社会を避ける、と。しかしこの肌の白い男は穢れに突進し続け、生まれ変わらなければもっと大きな知恵とつながることはできまい。

 ヒンドゥーは「穢れ」を嫌う。貧しさ、醜さ、暴力。目の前で明らかであっても、自分の魂が侵食されないために近寄ろうともしなければ、助けようともしない。というよりも、ない物のように振る舞い、言葉にもしないのだ。

「確かに、そうかも知れませんね」

 こういって、ケルトの血を引く勇猛なブリテン人が黙りこくり、これ以上の論争を避けたのは敗北を帰したからではない。こんなことをいい出した婿を、アーシャが悲しげに見ていたから……まずい、一番いけないことをしてしまった。紹介の場で、相手の家風に合わないことを暴露してしまったのだ。こんな不心得者が夫などと嫌になってしまわないだろうか。

 そのせいで、この父にとって外国人は、宇宙意志に身を委ねず、自分の内的な側面と繋がることを自ら拒絶して混乱を主とし、その時々の大きな風潮に翻弄される犠牲者であるという考えを肯定したことになった。哀れなアングロ・サクソン人は自分の感情をコントロールすることもできず、ただただ突進するしか能がない、と。

 英国の新郎は貴族でありこそすれ、ヒンドゥー人の自分の国への無関心さは驚きと共に、怠惰であるようにしか映らなかった。その達観について、まったく話をすることができないと気付いてから、リンゼイは腹の底に苛立たしさを抱えて、インドを別の視点で見るようになった。

 そうか、そうだったのか、だからインドから貧困も、虐待も、争いもなくならないのか。何と無責任な国民、無責任な考え方、無責任な宗教だろうか。これだから西洋人は度し難い唯物論者ばかり、といわれようとも、目の前にある飢餓状態の人々を放置して、ヨガに耽って人生を愉しんでいることのいい訳にしか聞こえない。

 リンゼイは、英国人であることに新しく誇りを抱いていた。已むなくではあっても自分の国が選択した福祉制度、差別や他国からの難民の受け入れ、労働者階級の裁判、女性の地位の高さのすべてに。それらは彼の国が、目の前の貧困や虐待を悪と認識し、変えんとして戦った証しなのだ、それらの整備は神が行なったようには完全ではなかったとしても。

 こう思ったのは、リンゼイも彼の両親も昔からの労働党支持だったことが、大きいだろう。とはいえ、貴族の地位、端整な外見、長身だけでなく、標準的なキングズ・イングリッシュで、冷静を装う時に出る私立エリート校のパブリック・スクール訛りは、彼が高学歴のアッパークラスと呼ばれる上層階級であり、少しでも英国の階級主導の生活基準を知っていれば、彼を保守党支持者だと勘違いすること間違いない。それくらいに、血統によって区別される英国なのだ。

 またリンゼイの中にも、公立学校を卒業も出来ず、十六歳で世に出ていって失業する勉強不足の若年労働者を何処かで馬鹿にする気持ちがあるので、そう思われがちではある。しかしそうではなく、彼は保守党に票を入れる人間は、頭の軽い貴族か、頭の弱いフーリガンだけだと考えているのだ。

 英国における保守党支持者は、今でも広大な農地や森を私有化し、領主や卿として暮らす貴族たちが確かに多く、彼らはインドのバラモン同様労働者という下層階級からこの権利と血統を守り、チャーチルの英国に胸を張りたいと思っている。そして、インド他何処の国でもそうであるように、英国も保守党は教育の手を抜いて労働者を無知な愚か者に変えた。が、リンゼイの両親は高い教育を受けたが故に、何が正しいか、何を誇るべきか知っていたので、息子にはそれを教えた。

 インド人の婚約者は、容姿と発音で階級を探ることを知らなかったので、先入観なく付き合えたのだ。加えて彼の救いは、アーシャには社会への意識が仄見える純粋な晴眼があることだった。今までも彼が持ち掛ける英国の社会状況への苦言に、彼女は目を見開いて聞き入っていた。

 今日も家からリンゼイを送って再びホテルの部屋に入り、戸を閉めたことを確認してから、リンゼイがいう。

「さっき、ごめん」

「いいえ、いいんです」

「でも嫌だったんじゃないかな。僕はヒンドゥー教を悪くいう気なんかないんだ、敬意を払うつもりでいる。気に障ったなら本当に悪かった」

 と、彼が謝った時、彼女はリンゼイを見上げて、いった。

「父を物知らずだと思わないで下さいね、サー」

 

ありがとうございました。

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