英国人副操縦士とインド人客室乗務員との恋2
彼が操縦する名ばかり立派なビクリトリアン機が着陸したとき、もう倉庫へと移動していた小型機のことを聞き、リンゼイは途端急ぎ足になった。空港の待合席は、これから英国に行くはずの出稼ぎ希望者で待合い席は埋まっていた。彼らはホテルに泊まる金さえない。
機内から出て、添え付けられた階段を下りると、凄まじい湿気と熱気、そして生ゴミの臭いが鼻を刺した。
空調と空気清浄機が効いた機内から出ると、リンゼイの青い目も喉も痛み出す。いつものことだ、すぐに慣れる。暑さにどっと汗が噴出すと分かっていたので、彼は空港の救護室でシャワーを浴びるつもりだった。しかし、時間が限られているので諦めるしかない。
彼は白い制服を着替えもせず、タクシーを拾うために空港を出る。数歩も行かずに、子供たちに囲まれてしまった。夜なのに熱心なことだ。リンゼイは罪悪感を覚えながらも小銭だけ渡し、タクシーに乗り込む。行き先を告げても、ターバンを巻いた黒い肌の男は走り出さず、「もう少し待つ」と呟いた。
「何いってるんだ、さっさと走らせてくれよ!」
しかし男は首を振って、
「ドル、ドル」
と繰り返した。
リンゼイが舌打ちし、ドアを力づくで抉じ開ける。
「ダメ、ダメ!」
男が叫び、運転席から手を伸ばして白人の鴨を掴み戻そうとする。構っている暇はない、英国の航空で金持ちの男が遅刻をして離陸が遅れ、その煽りを食って到着が一時間遅れてしまったのだ。人を待たせている。振り払って外へ出ると、違うタクシーを止め、乗り込んだ。男が追って来ていたが、リンゼイがそれを怖いと思う余裕すらない。
「誰か追ってきてますよ、サー」
「いいから遣ってくれ」
タクシーの運転席を後ろから叩いたお陰で、この運転手は従う気になったらしい。急発進した運転の乱暴さに、バックシートに押し付けられた異邦人は思わず笑い声を上げた。
「そうだ、急いでくれ」
人力車や牛を避けながら、観光名所に向かって大通りを流れて行く。
昼間はもっと騒然としている辺りである。埃が舞い上がる道は一応整備され道路となっているが、四車線が混在しトラックが行き来する大きな車道にも、自転車やバイクが走り、そこを平然と歩行者や白い牛が横切っている。
道や店にいるのはほとんどが男ばかりだったが、時には会社で働いているらしきシャツとズボン着用の女性、または鮮やかなサリーを纏う女性もいる。同じくして、近代的なビルとカラフルな屋台、牛、物売りの手押し車、馬車が車道を囲む。整えられた空港やビジネスホテル、土産店の向こうには、聳え立つヒンドゥーの寺院と遺跡、そして巨大な綿工場と森林がうっすらけぶって見えた。ここは特に、都会と古来の文化が共存する地域なのだ。
余りにも多いホームレスがいる数ブロック先の目的地に近付くと、整備された庭園を囲む白い塀に面した通りに出た。門を潜り、ホテルというには大き過ぎ、宮殿というにはアジア特有の華美が足りない、白い宮の前で降ろしてもらう。チップを払い、見上げる。
この地に置ける唯一の三つ星レストランを有するホテルは昔、マハラジャの離宮だったという。流石に周囲に貧しい出で立ちの人間はいない。
もちろん、パイロットだからといってこんな高級ホテルに泊まれるわけではない。普段なら美術館以上のこの造形美を眺めてゆっくり中に入るところだが、リンゼイは早足でホテルの扉に向かう。制服姿に注目を浴びながら、ドアマンに案内されフロントに声を掛ける。
「フォックスだが」
「はい、お連れ様がお待ちです」
中はシャンデリアが輝き、中世を模した豪華な絨毯と絵画が飾られている。シルクの絨毯の上に同じく刺繍布張りのソファがあって、そこに黒髪の女がゆったりと腰を掛けていた。白いサマードレスが豊満な肉体に張り付いて、強調している。整った彫の深い顔立ちのその女は、リンゼイをじっと見つめてくる。肌は白く、そのセクシーな格好に気後れもないのでインド人ではなくイタリア系だろう。
もっと行くと白塗りの壁の向こうに、庭の見えるテーブル席が用意されていて、席は殆ど埋まっていた。数世紀逆行した、英国人がこの国を支配していた頃にタイムスリップしたような豪華さである。一面の窓から眺める庭には、熱帯の花々が植えられ、ポーチ側の庭園にはプールが光り輝き、椰子の木下に藤で編んだベンチが置かれている。彼は四方八方から、白いパイロット服に視線を感じた。目立つのだ、だが、すぐに周囲のことなど忘れ去る。
窓の近く、端の方のテーブルに座った女性が、向かってくるリンゼイを見て立ち上がったせいだ。周囲を囲む白い壁、白いテーブルクロスにコーヒー色の肌と極彩色の衣装を着たその女は、はっとするほど引き立って見える。
「リンゼイ」
インド人女性が、嬉しそうに立ち上がる。彼女は手を合わせて、彼に向かって頭を垂れた。
「アーシャ!」
彼はその女を見る度に感じる、不思議な思いに心が満たされながら近付いた。一九二〇年のハリウッド映画に出てくる東洋そのもの。
今日のサリーは赤である。彼は、もう彼女の好きなインド更紗が赤が基調だと知っている。しかもそのサリーの細長い布には、青や緑の反発色で刺繍や模様が描かれているものばかり。イタリアのモデルが見たら、嘲笑いそうな色使いである。しかし、確かにそれらは色濃い彼女の肌の為に長年を掛けて誂えられ、調和していた。
「会いたかったよ」
彼は美しい褐色の女に腕を回し、頬にキスしようとする。が、彼女は周囲を気にして大きく身を引いた。
「いけません、捕まってしまう」
「すまない」
リンゼイは項垂れて離れ、彼女を熱い眼差しで見つめるだけに留める。
捕まる――大袈裟ないい方では決してない。有名な外国人俳優が、インドの女優の頬にうっかりキスしただけでも犯罪になる国なのだ。
そして捕縛されれば罰されて、醜聞が新聞に載ってしまう。リンゼイの心が読めれば、触れ合わず離れていてもすぐに法に触れるだろう。もっとも、このレストランはイギリス領も同然で、そんな騒ぎは起こらないだろうが、そういい含めることはできない。もうインドは独立したのだ。
二人は近くにいたが、これまでのデート同様、完全に離れていた。リンゼイはそのままでいるわけにもいかず、椅子を引いて座らせてやり、自分も座る。
「もう何か飲んだ?」
「いいえ、お待ちしていました」
「じゃあ、まず飲み易いワインでも開けようか、それとも果実酒の方が良いかな」
「貴方のお好きなもので……」
リンゼイは手を挙げてウェイターを呼ぶと、果実のような口当たりの白ワインを注文し、彼女に微笑み掛けた。
実は彼女とはアンドベーカル空港の炉辺で会ったあれが、初対面ではない。
一度だけ、英国の空港でスチュワーデスの集団に彼女を見たことがあるのだ。髪を襟足のところで纏め、一様にサリーとビンディを身に着けていた。彼は勤務を終えて帰るときに、彼女たちと擦れ違った。共通の制服である赤いサリー、同色の額飾り、黒いまとめ髪、同じ旅行用バックからインド・インドのスチュワーデスだとすぐに分かった。その中で後ろから三番目を着いていく、彼女と擦れ違った時……声を掛けなかったことを後悔していた。だから、硝子の靴もないシンデレラを探しにニューデリー行きのフライトを代わった――二度目のチャンスを逃すような真似はしなかった。
もしかしたら、その時の女性はアーシャではなかったのかも知れない。孔雀の様に優美な女たちに圧倒されて、それを一目惚れを勘違いし、「本当に高貴な」インド女だったら誰でも良くなったのかも知れない。しかし、リンゼイは彼女だと信じている。その一つは、彼女の強い菫の匂いである。彼女の動きに合わせて、香りも実体があるかのように揺れる、儚げなヴァイオレット。それを、あの時も感じた。リンゼイはしかし、まだ彼女に確かめてはいない、そうしたら魔法が解けてしまうようで。
何より、今やそんなことは関係なくなっていた。
女性の声質に美を見出すインドに住む女らしく、彼女が鈴の鳴るような声音で話しているのだから。
「弟が専門学校に受かったのです」
「本当に? 君がずっと望んでいたことだね」
「はい、とても幸せです……でも本を買って勉強するためにお金が必要で、もっとお金を稼がなくてはいけません」
「これからもたくさん、フライトに乗るということ?」
「はい」
「そうか……身体は大丈夫なのか?」
「はい、仕事ができて嬉しいです」
華奢で細身のその肉体は、思った以上に強靭であるようだ。
添乗員は過酷な仕事だと初めて知る。削られる睡眠時間や慢性的な疲労、サービス業に付き物の接客トラブルに見舞われ、定まらない時間帯のせいでプライベートはないも同然だと思われた。アーシャは何もいわないが、リンゼイは労働の基準を超えていると疑っていた。が、ここは英国ではなくインドである。
自分のフライトだけで体力的にも丁度良く、適度に豪遊生活が楽しめ、スチュワーデスの社会的憧憬を利用して異性関係にも恵まれる。それがスチュワーデスの普通だと思っていた彼には、信じ難いことばかりだった。
しかし、お金のため。
何度、「僕が出すよ」といい掛けただろうか。金銭的援助をする、と。リンゼイは彼女の数百倍の給料をもらっている。首都は近代化されてそうでもないが、都会を離れれば一般的な生活費が一日数ドルも満たない。ルピーの価値は低いのだ。リンゼイの懐にとっては大したことは無いだろう。しかしその提案はずっといえないでいた。元々英国人にとって金の話はタブーの一つである。彼は自分の年収が幾らなのか、それすらはっきりとはいえない。
本当は嫌だった。彼女は事前に連絡をくれはしたが、今までに二度、デートが突然キャンセルになった。掻き集めるように他人が休むフライトを代わって、その都度犠牲になるのはリンゼイとの逢引時間である。
卑怯かも知れないが、彼女の方から借金を申し出てくれたら……。
「君に決めたことなら応援するよ。できることがあったらいって欲しいんだ、無理をしないで」
「いいえ、とても良くしてもらっています。でも……母も姉も刺繍をしています。それでも足りないので、母は食事を夕食しか食べないといっています。だから、もっと働きたいです」
そこで、アーシャは想いを今に戻したようだった。リンゼイを見つめ、少し俯いて身を縮める。彼がどうしたのか気付く前に、彼女がいう。
「何度も会えなくて……ごめんなさい」
「いいんだ」
良くはなかった。
だが、反対などできよう筈もない。
前々回のデートで、彼女はいつ契約が打ち切られるか分からないと悩んでいた。その次にやっと漕ぎ着けた夕方の軽いサパーでリンゼイは、彼女の家族が二部屋しかない一室を間借りして住んでおり、今は十八歳の弟を情報処理の専門学校に通わせるために、全力で働いているという現実を打ち明けられた。父親は土木の派遣で、年の半分は家を留守にしているという。
思った以上の貧しさにリンゼイはショックを受け、「添乗員を辞めて、英国に留学に来たら?」と強く勧めたことが悔やまれた。だが、決して幻滅しなかったのは不思議だった。今でもインドの格差は予想以上に過酷で、一方彼女の国には娘の結婚に三千人もの侍女を添え付けするマハラジャがいる。と、全く同じ時に今だ僅かな持参金の不服感で、夫が花嫁を焼き殺す風習も残っている。
彼女は男尊女卑の傾向強く残る結婚に、否定的な見解を持っているようだった。
「結婚は考えていません」
という時のアーシャは辛そうというよりはいっそ苦々しげで、聞かれるのも嫌という趣があった。
「父は私たちに学を与え、こういいました。持参金を求める男と結婚するくらいなら独身の方がいい、と。でもこの国では女性は結婚しなければ宗教的にも救われず、永遠に亡霊になるという強いヒンドゥー信仰があります。なので、それから自由でいようとすることは、並大抵の意思では出来ません。殆どの家族は、結婚しないくらいなら、または、離婚するくらいなら、娘が夫に殺される方がましだ、と考えています」
リンゼイも、何度も会う中でダウリーという持参金の額を不服とするが故に、臨月の妻ですら焼き殺して事故だと言い張る事件が多数存在するのは、もう常識としていた。
彼はうっすら、彼女が自分を好ましく思って付き合っているのは、インド人男性にはない新鮮さよりも結婚相手として不適格だからではないか、とすら考える。
そうはいっても、アーシャはどんな妻になるだろう。彼女を尊重して指図などしない夫なら、上手くやっていけるのではないか? 勿論、持参金なんて要らない。彼女は知性もあるし、理性に目覚めた女性でない限り得られない物を持っている。謙虚ながら、世界に向かって開かれた知識欲があり、それらに基いた人の役に立とうという強い目的意識もある。
この容姿でこの中身……金なんかよりも価値がある。彼女のような女性と暮らすのは楽しいだろうな。いつの間にか、彼女との結婚生活を想像している自分に気付いて、リンゼイは苦笑する。
結婚などと。
まだ寝てもいないのだが、彼女を攫ってしまいたい。
通算五回目のデートで、そんなことを考える自分が可笑しかったが、理由のないことではない。
アーシャはお金がないという態度の割には必ず決まった個人タクシーを呼んで、家の前まで送ってもらう。運転手は従兄弟だという。一緒にいたいが為、リンゼイがレンタカーを借りようとしたが、止められた。はっきりとはいわれなかったが、外国人が運転していて事故を起こした場合、その場で命を奪われる可能性があるかららしい。全く以て恐ろしい文化の国である。
幸い、その従兄弟は無口で、一族の誇りたる従姉妹を優待しており、邪魔をしようとはしなかった。その道程にて、バスは痴漢天国で嫌というほど触られる上、女の一人歩きでは拉致される女が後を絶たない世界――インド旅行者の女にもその忠告が必ず成されるほどである――彼女のタクシーでの帰宅はささやかな贅沢ではなく、誘拐を恐れてのことだと知ってからというもの、彼の畏れにも似た激しい所有欲求は募るばかりだった。
しかし、果たして彼女がこれを男女のデートだと理解しているのか、いささか不安の残るところであるが……もしかしたら、キングスイングリッシュを学ぶ良い機会だとでも思っているのかも知れなかった。
もしかしたら、サパーを一緒に過ごしたら当たり前に男性が奢るこの世界で、夕食代を浮かせるために会っているのかも知れない。賭けても良いが、リンゼイと昼食なり夕食なりを共にした日、彼女は家で夕食を摂っていまい。アーシャは上品に物を食べ、喋ったが、一度も食事を欠片も残さなかった。
男女が出かけた食事で、男が代金を出さないことなど考えられぬインドにおいて、できるだけ高いところへ連れて行ってやるのが甲斐性であり、軽いサパーの方が下心が透けずに安心かと思っていた。が、そうと知ってから、貧しい彼女がスチュワーデスの恰好で来るしかない三ツ星のレストランではなく、高品質で良質の料理を多過ぎると思われるボリュームで提供する料理店に連れて行くことにした。
一ルピーも出せば食べ放題の、ゾロアスター教徒の奉仕精神が作った勤勉なベジタリアンの店である。
その六回目のデートで、アーシャは細身の何処に入るのかと思うほどたっぷり食べた。そこはスプーンも付けてくれたが、手で食べるのが作法であり、彼女は右手で摘まんで口に運ぶ。左手は不浄なので使ってはいけない。リンゼイも真似をして手で食べてみたが、程なく手首の方まで汚れてしまう。アーシャが指先だけしか汚さないのを、芸術的だとすら思う。
いや、それよりも、彼女の食欲をそそったのは何だったのだろうか。
菜食の食材が載った鉄の大皿だろうか。
ナイフやフォークを使わない、手掴みで食べる開放感か。
溢したりした訳ではないが、餓えたような貪欲極まりない食べっぷりに、彼は呆気に取られ、その次に感動し、幸せな気分に浸る。先進国の女性はこんなに食べない。少なくともリンゼイが付き合うような上流階級の女性は。今や欧米では、細い身体こそ富と品格の象徴に成りつつあるのだ。
嬉々として次から次へと美味しそうに平らげる女性は、見ていてこんなに楽しいのか。
リンゼイも体形維持の為カロリーなど気にしている方であるが、そんなことが馬鹿らしく感じられる。彼女に食べさせているのは自分だ。愛する女性の腹を満たすことがこんなにも幸福なことだとは思いも寄らなかった。
しかしその気持ちは、すぐに萎んでしまった。
「弟さんが卒業して職が決まったらどうするの」
そんな質問をした時に。
「あんまり考えていません、私はもう半分以上生きましたから」
「何だって?」
「あと十年、生きられるか分からないの」
「病気なのか!?」
「いいえ、でも……親戚の女性は皆、三十五歳前に亡くなるから、きっと私もそれくらいだと思ってきました。本当だったら、十年前に嫁いで子供をもう九人くらい産んで、その時に死んでいても可笑しくないのに、ずっと楽しく過ごせた」
未だに多産と貞節を当然と強要され、女の平均年齢が四十歳未満という恐ろしい数字をリンゼイは今日初めて知る。産まれた子供が成人する確率は六十パーセント。九人産んだとしても成人するのは平均五人。絶対的な男社会で、保証などなく、女が身を護り養うために子供が必要なインドで、子を産まない女は石女か非難されるべき親不孝者だけである。
「でも私の父は勉強が好きで、私たちにも好きに勉強させてくれたわ。持参金を出してやれないから、せめてもの花向けに、と良く泣いていました。でも私はそれで良かったんです。弟の花嫁には持参金を沢山持ってくる人が良いと母はいっているけど、姉も私もそうじゃなくてもいいと思っているの」
思った以上に口が軽くなった今夜のアーシャの発音に、強いヒンディー語の訛りが見られた。
「この生活をずっと続けたい、でも若くなくなるから、他の仕事を探さなくちゃ……でも弟が卒業したらそれでもきっと食べていけると思うの」
「若くなくなるって、君は確か二十五歳だろう?」
「ヒンドゥーでは、もうとても結婚できない年齢ですわ。適齢期は十年前……でも結婚には多額の持参金も必要だし、いいんです。無理だけど、できたら死ぬまでこの仕事がしたいから」
アーシャはそれを特別おかしなことだと、思っていないようだった。
打って変わって無口になり、食が進まなくなったリンゼイに合わせたのか、アーシャは喋らず食べることに没頭する。二人で十五種類ものメニューを頼んだので、食事は残ってしまった。それでも一つ星ホテルでは、この一〇〇から一〇〇〇倍の値段でなければカップルでは入れない。彼女は残したものを包んでもらい、いつもは決してしない満面の笑みを浮かべてタクシーに乗り込んだ。
送っていくその帰り、浮かれた彼女は初めてリンゼイの頬に接吻する。吐息が掠めるような、そんなキスだった。
「ミスター、ありがとう」
運転手が興味深そうな視線を注ぐ中、彼女は直ぐに行儀良い距離を保って座席に凭れたが、すっかり気を許したようだった。
もっと早く、こういうところに連れて来るべきだった。どうして気取ったりしたのだろう。リンゼイは嬉しさよりも差し込みのような痛みを胸に感じ、項垂れ、手を伸ばして彼女のそれを握った。家の近くにタクシーが到着するまで。
それが三回前の、四ヶ月前の話である。
それからリンゼイはアーシャの携帯に一日おきに電話した。
何処にいても、必ずニューデリーの時刻で夜の七時に当たるように。
流石に離陸時と着陸時に重なった時はずらさずにはおれないし、アーシャがフライト中は掛けても繋がらないのだが。そんな時は何日か連続で掛ければ繋がった。そうなると、落ち着いて話せる時に彼女がフライトの予定をやっと教えてくれて、擦れ違うことはなくなった。二度のデートのキャンセルを含む六十四回の電話で、彼女の趣味がペディキュアと、詩を読むこと、映画を見ることだと知った。
彼女も色々知ったはずである。リンゼイの趣味は数ヶ月前までヨットとビリヤードだったが、最近はいつでもアーシャという女のことばかり考えていると、分かってしまっただろう。電話はほとんどが三分以内の短い挨拶程度で、特に何か目新しいことを話したわけではないが、彼女は笑い声を立てて電話に応え、打ち解けた話をするようになっていた。
アーシャがリンゼイを恋人として意識していると伝えてきた電話は、彼がした十回目の七時の電話で、「お休み、良い夢を」といった直後だった。
「いつも……に電話して、を……怒らせないのですか?」
遠い異国の電話は、できる限り自宅やホテルの電話から掛けたかったが、今は自分の携帯から掛けている。今夜の電波は酷いものだった。リンゼイが大声で聞き返す。
「えっ? すまない、聞き取れなかったんだが、何だって?」
「いつも私とこんな電話をしてしまって、恋人を怒らせたりしませんか?」
「何をいって……恋人なんかいないよ!」
思わず大声になった。空港の詰め所から掛けていたため、何人もの関係者にじろじろ見られ、リンゼイは口を当て背を向ける。
「僕に恋人がいると思っていたのか?」
「はい、だって」
「馬鹿な! どうしてそんな」
「でも……いいえ、ごめんなさい、貴方はハンサムだからそう思ったんです」
リンゼイだって頭では分かっていた。
アーシャは身分を弁えている。美しく若いスチュワーデスは玉の輿に乗ることも可能ではあるが、パイロットと結婚する率は低い。看護婦が医者と結婚するようなものである。大抵はお互い軽い恋を楽しみ、パイロットは物分りの良い良家の子女と、スチュワーデスも自分の条件と照らし合わせた男と結婚するものだ。浮気相手には困らない。リンゼイもまた何度も、仕事にも欲望にも貪欲な現代の女性の御相伴に預かったのだから、身に覚えがあり過ぎる。
だから、アーシャがそう思うのは全く仕方がないことだ。遊ばれたくない、と思っていたのだろうか。それとも本当に英語に磨きを掛けたり、食事代を浮かせてくれる安全な足長おじさんとしてしか見ていなかったのだろうか。どちらにしろ、恋人がいる外国の礼儀正しい友人くらいだったのか。
だが、一夜置きに電話を寄越す男に不可思議感を掻き立てられ、聞かずにはいられなかったのだ。
そして、その時に彼も気付いた。
どうしてそんなことを聞いたのか、などと聞かなくても分かる。彼女自身も自覚しているようだった。今まで会っている時、一度として恋人の有無を気にしなかった礼儀正しいアーシャが、脈絡もなくこんなことを訊ねたのは、リンゼイを憎からず思うようになっているからだと――。
御友達扱いされていたという今までのことはさて置き、電話を切ったリンゼイは隠しきれぬ笑みを浮かべていた。電話は愛の証明に成り得るのだ。さっさと携帯番号を聞いて、こうしていれば良かった。世界を回るパイロットが定時に電話をしたり、番号を残すのは至難の業であろう。その度「今はドイツだよ、朝の五時らしい」とか、「自宅にいるんだ、今起きたんだ」などと話しかけながら電話するのは、結婚していたり、プライベートを恋人と過ごしたり、またただ弄んでやろうと思っていたりする男には絶対にできない。
一日おきに、自身が仕事中でも、仕事が終わった瞬間でも、就寝中の真夜中でも、相手の時差に合わせて電話を掛け続けるなど、無理だろう。しかもその都度礼儀正しく、しかし楽しませるように気を遣って喋らせるなど、彼女中心に世界が回っている男でなければ、不可能なのだ。
ずっと会っていなかったが、二人の関係は大きく動き出している。そんな気がしていた。だから、今夜は美味しくて大量の料理を出す大衆食堂にせず、自分がわざわざ宿泊した五つ星ホテルのレストランにした。
リンゼイは白いテーブルクロスの上で一際映えるコーヒー色の手を見て、さっと自分のそれを伸ばして上に重ねた。アーシャが目を上げて、また伏せる。その口許が微笑んで、今度はリンゼイの眼を見返してきた。
「こうして君と食事を共にできることを、僕はとても素敵なことだと思っているんだ」
彼は慎重でない自分の物いいに一瞬、躊躇する。
「その」
実はまだ、キスもしていない。リンゼイ自身、キスもしていないのに夢中になるなどということが、存在するとは思ってもいなかった。自分の深刻さに照れて笑い、いう。
「もし良かったら、僕の部屋に来ないか」
ずっと、人に化けた雄の孔雀を自分のものにして、一晩中眠らずに過ごしたかった。彼女の肉感的な蜜蜂の様な体形は、女好きな雄が化けるであろう女の理想の形をしているから、余計に婀娜っぽい。
が、そんなことを悟られるわけにはいかない。紳士に、節度を持って。彼は自分がヒンドゥーの風習には疎いと良く知っていたので、身を慎むように心掛けて、相手が切っ掛けを与えてくれるまでずっと待っていた。
俯く美しい横顔に、彼女が戸惑っているのが分かる。
ニューデリーがいかに都会化したとはいえ未だに封権的で、外人の男に誘いに載ることなど許されてはいない。が、これから行くのは密室で悪質な噂や、犯罪の露見を恐れる必要はない。
「でも、私」
「見て帰るだけでもいい、せっかくのスウィートルームだから」
見せるだけで、帰らせるつもりなどない。
アーシャにこんな口から出任せの偽りをいったのは、思い返しても初めてだった。大切に扱い、ずっと誠実に接してきたからだ。しかしいざとなると、こんなことをいってしまうのか。リンゼイは内心自分を羞じ、騎士からただの男に成り下がった気がして落胆したが、アーシャを誠実そうに見つめるのは止められなかった。
続きはムーンライトノベルで書きます。
ありがとうございました。