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インディア~親蜜の香り~その一章   作者: サーガ・ノレーン
1/3

英国人副操縦士とインド人客室乗務員との恋

数年前に書きあげた女性向け官能小説です。当時褐色の肌の女性に萌えていました。

真面目に九十年代の英国事情とインド事情を調べました(主に図書館で)

でも今のようにニュースが入ってくることは無く…現実と食い違っていてもそこはそれ、褐色肌とエキゾチック美女と職業萌えということで、宜しくお願いいたします。


intimateiy for a English pilot & a India stewardess.


◆アーリア人……(もと「高貴な」を意味する梵語)インド・ヨーロッパ語族の人々の総称。特にインド・イラン語族派に属する人が自らをアーリアと称した。

◆アングロ・サクソン……ゲルマン民族の一。今日のイギリス国民の根幹をなす。頭髪は主としてブロンド。またイギリス国民ないし英語を話す国民の意にも用いる。

◆カースト……(ポルトガル語casta血統の意)インドに見られる社会集団。儀礼的な観念から序列づけられており、各集団間は通婚・食事などに関して厳しい規制があるが、現在は弱まりつつある。二千以上の数があり、多くの場合、世襲制職業を持ち相互に分業関係を結ぶ。インドではジャーティ(生まれの意)という。

◆ニューデリー……インドの首都。

◆ヒンドゥー……①ヒンドゥー教徒。②インド人。

広辞苑


◆シュードラ……ヒンドゥー教のカーストにおける、上位カーストであるバラモン(僧侶)、クシャトリナ(戦士)、ヴァイシャ(商人)の三カーストに仕えることを定められた隷属カースト。一般カースト。

◆ダリット……シュードラの下に置かれ、触るのも汚らわしいといわれる最低カースト民総称。不可触民。アウトカースト。アンタッチャブル。インドでは隷属カーストとダリットが総国民の八十五%を占めるといわれる。


序章


 昨今インドの経済発展は目覚ましく、首都ニューデリーはその最先端に位置していた。正に欧州風の大都市として様相を変え、「汚いインド」からは一線を画すようになった。

 しかし、デリー北西部にあるアンドベーカル国際空港周辺は、岩棚が見え隠れする荒野が広がり、この地に降り立った人間の眼を先ず風景で圧巻する。一帯には街灯が一つもなく、闇が深さを増して迫る。そして空港からも見渡す限り、闇の中に蠢く陰がある。牛、そして数え切れない路上生活者たちの姿が、此処を訪れる外国人の表情を一際強張らせる。

 この暗部と貧しさ混然一体の有様が、インドの第一印象であろう。

 ある英国人副操縦士――金髪碧眼のアングロ・サクソンの男が、故国ロンドンからニューデリーのアンドベーカル空港に降り立ったのは、盛夏の事だった。

 ロンドンからインドのニューデリーへの夜間飛行に嫌気が差した同僚のフライトを、インド・ヨーロッパ路線の運転資格を持っていた彼が同情心から操縦を交換してやったのである。

 彼自身、インドへのフライトを体験したのは初めてのことだった。

 英国に本拠を持つ飛行機会社が利用するアンベードカル空港はそれなりの規模で、一般旅客機だけでなくジャンボジェット機を受け容れられる。しかし英国から飛ぶこの飛行機はビジネスクラスが一般の小規模の飛行が売りである。この近辺に別荘を持つ富裕階級が自家用機がないときに偶に利用する以外は、ニューデリーのITビジネスに関わるビジネスマンか、里帰りのインド人が大半を占める。

 この副操縦士がインドに降り立ったのは昼間であったため、気楽に空の船を降りた。しかし待機のホテルに向かおうとした所、情けないことにショック症状を生じてしまったのである。

 彼が、暑さと時差ぼけに侵食されてふらふらしている時、子供たちに銭を強請られ、靴に汚物を投げ付けられ――靴磨きの児童労働者たちはそうして磨く必要を作る。くそ、ロンドンじゃ此処まであからさまじゃないぞ!――行く手を阻まれる。癇癪を起こしそうになっていた彼を見かねたのか、ある若い、しかし大人の女性が空港から出て来て、子供たちに話し掛け、小銭を渡し、彼を空港内に連れ戻してくれた。

 まるで魔法だった。痩せこけた子供たちは、彼に対しては妄執的な付き纏い方だったのに、その女が話し掛け、幾許かの小銭を与えると天使の笑顔を見せて、遠ざかっていった。

「ありがとう」

「マイ・プレジャー(どういたしまして)」

 流暢で丁寧な英語だった。

 女の漆黒の瞳の周りは濃いアイライナーで隈取られ、彼女の瞳はエジプトの壁画に描かれた直毛のファラオそっくりだった。耳、鼻に青いピアスを着け、手首にも足首にも金色の腕輪、足輪が幾重にも連なっている。腰までも伸ばした長い黒髪を一つに結んで編み込んで輪にしており、彼女は何処から見ても生粋のインド人である。

「ご気分は大丈夫ですか?」

「ああ、うん、治ったみたいだ」

 本気だった。熱中症のためか気分はまだ悪かったが、吐き気は引っ込んでいる。これは治ったといっても良いはずだ。

「良かったですわ」

 インド女性が滅多に見せない微笑に、彼は見惚れる。インドでは見知らぬ男に女は笑顔を見せない。また、上層カーストの人間は下層カーストの人間に微笑んではいけない。そういったタブーを彼は知らない。

 ――彼に分かったのは、彼女がとても美しくて、青いサリーが似合っていて、他のどのインド人よりも親切そうだ、ということくらいだった。が、彼女が両手を細い顎の辺りで合わせ、お辞儀をし、去ろうとした時、彼はらしくもなくその背に呼び掛けていた。

「待って、待ってくれ、君」

 振り向いた時、彼女は目を丸くし唇を薄く開く。驚いた表情はあどけなく、無防備だった。不思議そうに彼を見返し、癖なのか首を傾げる。男はそこで、英国人らしい礼儀正しさを取り戻す。

「申し遅れた、僕はリンゼイ・フォックス……エアライン航空の副パイロットなんだ」

「私はアーシャ・ナーラーヤムといいます、エアライン航空会社ニューデリー支局の客室乗務員です」

「良かったらコーヒーでも奢らせてくれないかな、お礼に」

 これは彼にとって、勇気を必要とする誘いだった。初対面の女をコーヒーに誘う。それは三回目のデートでベッドに誘うより難しい。

 だが、旅の恥は掻き捨て、という。

 もし今声を掛けなかったら、自分は悶々と悩み、新聞に投書することになっただろう。――九月十四日午後一時、アンベードカル空港で子供たちに囲まれている僕を助けてくれた青いサリーを着た美しいインド人女性、是非貴女とお話しがしてみたいのですが。

 快く承諾してくれたアーシャという女と共に、彼は空港近くの出店に立ち寄り、チャーイを二つ頼んだ。雨が上がった湿った空気に菫に香りが漂う。これは彼女がつけている香水らしい。いい匂いだ。リンゼイは自分の靴に投げつけられた汚物が気になりだし、下を向く。と、隣に彼女のすんなりした足が見えた。サンダルを履いている。

 サンダルは麻の紐で作られ、虹色に光る貝殻が装飾されていた。すんなりした足の爪は紫に塗られ、その足下には小さな水溜りがあった。彼女の裾から水と一緒に菫の香が滴り、向こうまで流れていく。

 アーシャという若い女は褐色の肌でインド女性が身に着けるサリーを着こなし、額にも飾りも付けていた。サリーは鮮やかな青色で、眉間を飾るビンディの色は緑である。目鼻立ちの彫りは深く、顎は細い。真ん中で分けられ纏められた髪の分け目に赤い粉の印はない。やった――独身だ!

 彼女は深い青色のサリーを身に捲いている。十代の頃の物だという。緑色の細かい幾何学模様で染められていた。腕や足首で鈍く光る鱗のような装飾品も、薄いサリーも動く度に揺れて銀色に光る。伏せた瞼に塗られた銀に光る茶のシャドウ、瞳を囲んだ黒いアイラインが鮮やかである。腫れぼったい唇は赤く色付いていた。それが彼にデ・ジャヴを起こさせる。何所かで見た、テレビだろうか。人ではない何か、人間よりもずっと洗練され、飾り立てられ、鮮やかで、高貴な、艶めかしい、蠱惑……。

 ああ、そうか。

 雄の美しい孔雀が、人間の女に化けたかのようだ。

 リンゼイは彼女の足先から舐め上げる己の視線が酷く不躾けに思えて、直視できなくなる。

 チャーイはミルクティーを模したもののようだったが、信じ難いほど甘かった。

「あの子たちのせいで、お気を悪くしていないと良いのですが、ニューデリーはいかがですか?」

「良い所だと思う」

「もし私が男であれば、どうぞ私のおうちにいらっしゃって、というところですわ」

 リンゼイはインドフリークの同僚が「インド人はすぐ家に来い!と招くんだよ、油断は出来ないけどね」といっていたことを思い出して、辛うじて噎せなかった。

 だが、誘惑しているのかと思うところだ、ここがニューデリーでなければ。

 彼がそう思うのも詮ないだろう、このスチュワーデスは容姿端麗な白人のパイロットの前にいるのだから。

 インドでの最初の女性との出会いが成功し、彼の中にインドへの印象が変わる。外国人の異性と話してくれるなんて、案外先進的な国なのかも知れない。

「インドは初めてですか?」

「ああ、でも興味はあったんだ」

 嘘だったが、彼女は信じて微笑み、頷く。無垢な女だ、彼は少しいい気になった。

「インドは聖者が政治をしていると聞いてるよ、マハトマ・ガンジーは偉大な人だしね」

 リンゼイは断じて不快にさせようとして、こんなことをいった訳ではない。謙って相手の国を認めるのだ、何処でも自国の英雄については詳しいものである。野暮な方法ではあるが、見知らぬ外国の人間とお喋りを続けたいという意思表示で、最も楽な方法を取ろうとしたに過ぎない。

 インドを褒めるついでにガンジーを持ち出したに過ぎない。マハトマ・ガンジーは英国植民地時代を彷彿させるとはいえ、今や世界的な偉人の一人なのだから。

 それを、まさかインド人であるこの女を、悲しい顔にさせてしまう原因になる名前だとは、聊か信じ難かった。柳眉が寄せられ、笑みが消え、泣きそうな瞳がリンゼイを責めている。

「不躾だったかな、ごめん」

 これから先、かなり長い間、彼女に謝り続けることになろうとはリンゼイはまだ知らない。今回も女の機嫌を直したくて、彼は反射的に謝罪せざるを得なかった。

「いいえ、ただ私はマハトマ・ガンジーを貴方のようには感じられません、彼は支配者です」

「ガンジーを尊敬していないのか?」

 彼の口調は、そんなことが知識階級に許されるのか、という響きを必死で隠している。

「マハトマ・ガンジーが、嫌いなの?」

「彼を敬しては、います。でもそれは彼が菜食で、断食や真理の追究を質素な姿で貫いたからです。私たちにとって、あの方は救いではありませんでした」

「だが、実際には彼は、……僕がいうのも何だけれども、インドを解放した第一人者じゃないのか?」

「彼が解放したがったのは、バラモン、クシャトリナ、ヴァイシャだけです。私たちをカーストから解放しようとはしませんでした、この空港の名前……聞いたことがおありですか、サー?」

「アンベードカル? いいや」

 女は辛そうに俯き、それから空中に視線を上げて彷徨わせてから、リンゼイを見た。

「アンドベーカル博士、彼は人間の平等を教えてくれました、カーストによって差別されることはあってはならない、と。ガンジーは私たちを奴隷のまま留め置いて、差別意識はなくすべきだといいました、どちらが正しいと思われますか?」

「君は奴隷なのか?」

「ええ、ある意味では。私はシュードラなのです、分かりますか?」

 彼女の口調は是非を問う、詰問に近かった。

 リンゼイは自分が間抜けに思えてきた。恥ずかしいことに――アングロ・サクソンはそんな感情を抱くような人種ではないのだが、リンゼイはアンベードカルとやらも、ガンジーのいった内容についても知識はない。バラモンだとかシュードラだとか、英国においては知らなくてもいい情報ではないか。突然、世界的共通意識である筈のマハトマ・ガンジーを批判されて、理不尽に感じる。

 これはインド人が良くやる外国人苛めなのだろうか?

 外人には分からない政情をがなり立てて、相手を絶句させるという形の。

 しかし少々ムッとしたまま彼女を見返して、彼の懐疑心は溶解する。

 この女は孔雀のように美しい。だが、剥製ではない……。

 二人は、彼がフライトで英国へ戻る直前の昼食を一緒に摂った。寝たわけではない、初めてのチャーイの時は彼女の国内フライトが迫っていたので話し半端で別れねばならず、次の日の約束をして別れたのだ。幸い彼女はすっぽかしたりせず、遣って来てくれた。

「お相手が、私などで宜しいんですか」

 その言葉の裏に、私は貴方と寝たり卑猥な話をする気はないのに、という問いが見え隠れしている。何と身持ちの良い女なのだろう。

 頑張って、気に入られねば。 

「君しかインドには知り合いがいないし、食事は人と一緒の方が美味しい気がするんだ、それにアンベードカルのことをもっと聞きたくて」

 そこまで早口でいい訳し、白人の男は言葉を止める。

 嘘ではない、嘘などつきたくない。本当は、君に会いたかったからなんだ。

 彼が宿泊した歴史ある街バルデーオンは、ニューデリー市街地へ行く幹線道路とは反対の方向にある。国際空港の近くという立地条件から、この町は驚くべき「郊外」として生まれ変わっていた。少し前までは荒野だったなどと、外国人には信じ難い。

 旧市街地には混沌としたバザールや古い家屋が密集した地域があるのだが、反対に此処は急速な拡大を続けるデリーのベッド・タウンとして開発され、荒野だった町外れに企業主導の様々な娯楽施設や大型マンション、ショッピング・モール、映画館――それも現代的なシネマ上映館が林立する。荒野の中の「郊外」にリンゼイが泊まるビジネスホテルもあった。

 マンションやビジネスホテルの周りは高い塀が囲み、道路にはゲートが設けられ、入場許可証がないと入れない。殆どが核家族で、車で出かけ、昼間は勤務と私立学校に通う為、人通りはなくなる。

 そういった富裕層が通うショッピング・モールには、整然と何十もの店舗が配置され、先進国並みの高価なブランドショップが並ぶ。中にはゲームセンターや、家族の為の大規模な遊技場もある。

 また、カフェ、レストラン、ファーストフード店も点在しており、彼らは二度目の記念すべきデートをした。デートだと思っているのは、リンゼイだけかも知れなかったが。

 アーシャはタクシーで遣って来た。入り口で待つ彼に寄って来て、初対面の時の強気は何処へやら、リンゼイに全てのエスコートを任せることに決めていたようで、淑やかだった。モール内のインド人は皆洋服で、サリーの彼女はとても目立つ。

 彼女もそれを感じているのか、居心地悪そうに、

「窓がない」

 と呟く。

 確かに、彼女がいうごった返したバザールや「薄汚い」旧市街方面には、一切窓が取り付けられてはいない。しかし噴水の広場に面しては、全面ガラス張りで何処からでも見渡せる。

 彼はそんな解放されたインドの象徴たるプラザにおいて、この地が未だに絶対的な中世社会であり、政治、軍事、経済がバラモンを始めとする「王族」に支配され、それ以下のシュードラ等を搾取し続けていると知った。

 彼女はこの航空会社における、シュードラで五人目のスチュワーデスで、それも契約社員であり給料は正社員のヴァイシャの半分だと知る。偶にシュードラらから政治家が現れることもある、一度そうなった時には、地方のシュードラやアウトカーストの重罪犯罪の被害が八十%も減少したという。しかし彼らは政権を握ることが難しく、すぐにクーデターによって倒されてしまう。

 リンゼイはアーシャの言葉をすぐに信じた。此処の磨き抜かれた床に貧困の陰はない、臭いもない、塵一つ落ちていない。だが、空港の周りの路上生活者の貧しさは晴眼に焼きつき、テレビを消すようにはいかなかった。外気の臭い、声、音、触覚の知覚において、リンゼイはそれらを地続きの現実として認識している。

 それに、インドにも英国と同じ階級と階層による差別があることは、朧ながら知っている。

 また、英国に移民したインド人たちのことも頭を過ぎる。彼らは自分たちだけのコミュニティで暮らして、滅多に世間を騒がせないが、今でも親が決めた結婚をしていることで有名だ。そして、愛のない結婚を悲観したインド人の若者が自殺するニュースを聞くこともある。

 今まで生粋の白人であるリンゼイには、何の係わりもない瑣末ごとに過ぎなかった。だが、前途有望な若者が自殺しなければいけないほどの不自由が、彼らには押し付けられているのだ。結婚などという、欧州では最早親とは関係ない個人的な成人の選択において。

 英国という異文化に囲まれていても変わることなく、これらのことが続けられている。もしもそれが現地のことで、もっと重圧のかかるであろう階級差であれば、推して知るべしか。

 とはいえ、現在、目の前の彼女がどちら側の人間なのか、確かに判断するのは外見からは難しい。

 だが、彼女は自分は奴隷階級だといった。

 奴隷――深刻で、恐ろしい、彼女は未開の国に住んでいるのだ――。

「私はいつも国内のフライトばかりで、外国へ行くようなことはないのですが、でも偶には国際線に乗ります。英語が出来るし、細身なので……フランスに行った時、一人、仕入れ交渉に行ってらしたビジネスウーマンがシャンパンを飲んでいました。白い肌の女性は生き生きとしてらして、素敵だと思います」

 欧州の航空で、彼女たちインディアのスチュワーデスは赤いサリーとその柔かに撓う様子でどれ程目立ったことだろう。

 アーシャは自分の地位と英語力が、家族が村を捨てて都会に出て身を粉にして働いてくれたお金のお陰であり、他にもタイピストと速記者の資格も持っており、このスチュワーデスも苦学の末に得た地位でとても気に入っていて、父母、姉と弟と共に旧市街に住んでいると語った。彼女の姉はデザインの勉強をしながら、タイピストをやっているという。

「私の村では、女は私たち姉妹しか字が読めませんでした。私の夢は、女性たちが全員、私のように字が読めるようになることです。そうしたらインドは変わると思います。私は少ないですが、団体に寄付もしているんですよ」

 彼女は少女のように瞳をきらきらさせて、リンゼイの覚めた視線に抗するようにいった。

「実現は遠いでしょう。でも、何もしなければ何も変わりません。私は仕事をずっと続けることで応えたい」

 アーシャは夢見るような表情で両手を合わせ、その二つの人差し指の先端を唇につけた。それから、世慣れしていない自分を羞じる実利的なビジネスウーマンに戻って、いう。

「私の話、退屈ではありませんか?」

「まさか!」

 これは本心である。

 彼にとってはアーシャの話は何もかもが新鮮で、世界のことを何も知らない、しかし無知ではない無垢な感性や、初々しさのようなものに、知らず知らず強い感銘を受けていた。

 此処には、彼の国にはないものが一つだけあった。否、精確には彼女の中にある。英国では手垢のついた陳腐な言葉、自由、平等、成功を恵まれぬ他者に還元しようとする思想が、生命を持ってアーシャ・ナーラーヤンを、そして彼女がいう「同胞たち」を励ましている。また彼女は、良くいわれるインド人特有の図々しさが見られない。単なる成功者に見られがちな尊大さもなく、感謝を忘れない謙虚な充実感をその身から発して、それがこの女を他のインド人と大きく異にしている。

 生まれ持った美を持ちながら、この女には駆け引きや欲などないかのようだ。

 リンゼイは副操縦士として、搭乗する各国の添乗員との恋愛遍歴を重ねてきた。それは彼の退廃的な面を成長させたが、決してリンゼイ自身の持ち合わせる純粋なものに憧れる気質を失わせはしなかったらしい。

 アーシャは一昔前の時代の女性に見える。実際にそうなのだろう。噂に聞く自立した同性への清らかな憧れ、働くこと働けることへの喜びと幻滅、家族を微塵も重荷と思わない健気さ。これらと対立するロマンティックな恋愛関係を切り捨てる気概。そして、女らしい繊細な服装と立ち振る舞い。

 こうした過渡期の女性は、こんなにも潔く清潔で美しかったのだろうか。

 リンゼイの故郷や、米国や、先進国のすべてで?

 だが、彼女の様な意志の強いインド女性もインドには滅多にいない。ここは女が滅多やたらと働けるような国ではないのだ。自分が先駆けだと信じる女の凛と伸びた背筋が……全身から照り映える麗しさに精神的な磨きを掛けていた。

 こんな風にリンゼイにとって始めから、アーシャが光って見えたのは確かだ。だが、少々遣り込められて、それが正しいことと識って衝撃を受け、新しい感覚に感服したことが大きかったのかも知れない。

 微少な悪意は、転ずれば大きな好意に変わるのかも知れない。


1.


 竜の吼え声に似た、外の気流――。

 目の前にちらつく赤や緑の点滅。車に備え付けられるような大小様々なギア、計器、気象レーダーまで合わせると、周囲には一〇〇近くものシステムボタン、操縦桿が無数に並べられている。こんなにも精密な機器が、地球上に存在する殆どの飛行機に同じ配置で機能していることを思うと、この世を支配しているのは政治家ではなく、パイロットか管制塔ではないかとの不遜な気持ちが湧くのも致し方ないのかも知れない。

 今時は条件が満たされれば、離陸から着陸まで操縦桿に手を触れないでも操れる。飛行機のコンピュータがエンジン、舵を自動的に採り、定められた速度を定められた高度で、経済性までも考慮して飛ばせるのだ。操縦士は必要に応じて新しいデータを入力する監視官である。

 操縦士たちの小さな視界は深夜の為、灰色の雲が横切る以外は星も見えない。暗い紺の垂れ幕が掛かったように何もない。一人が、航空管制官の指示を受け、計器で自分たちの位置を確認する。その操縦席で同じパイロットの制服を身に纏い、鏡に映ったように同じ座り方で隣通し、目の前を凝視していた男の一方がジャッチメントを下した。

「再び、自動操縦に切り替える」

「イエス、サー」

 機長と副操縦士の二人は、高度に進化した自動運転に任せたことをチェックし、ゆっくりと背もたれに凭れた。

「今日は静かだな」

 話し掛けた男は、胸ポケットの上の小さな授が、隣の男に比べると一つ多い。こちらが機長であるようだ。坊主同然のクルーカットに、口髭を蓄えているが、若く見える。

「そうですね」

 一方、答えた男は髭もなく、髪も短く切ってはいたが、オールバックにした金髪を見ると案外伸ばしているように見えた。深い眼窩には理知を思わせる青い目が光っている。高い頬骨や通った鼻筋、薄い唇は彼が止ん事ない血筋であることを物語っている。これが英国の飛行機であることを思えば、その推測は決して間違いではないだろう。綿々と続く血統は、貴族階級が堅固であった国ほど外見に影響されるようになってしまった。金銭面ではともかく、長身で金髪碧眼、均整の取れた肉体に美貌を持つ者は大抵貴族の血を引いており、反対も然りなのである。

 口髭の男は、その髭を撫で、色男なのに自慢する気配のない同僚を見る。

「最近良く会うな、フォックス。珍しいよ、お前みたいなキャリア組が夜間飛行の、しかもニューデリー行きに乗るなんてさ」

「フランスやアメリカ行きのレディは、お高く止まっててたまらないんだ。僕じゃ役不足だってね」

「ははっ、そりゃいい」

 リンゼイは英国人の証、冗談も冴えているではないか。空軍の戦闘機パイロットから、ジャンボ旅客機の操縦士に転職してきた、異色の同僚は非常に評判が良いのだ――善きスポーツマンの名を冠しているというのも、強ち間違いではない。誰もが友人になりたがるだろう。

 笑ってから、操縦士は前回のフライトを思い出して、顔を顰め、頭を掻いた。

「お前は真面目で遣りやすくて助かるよ。この前なんか、ジョニーの馬鹿と一緒で参ったんだ……あいつ、スチュワーデスとトイレで浮気するしか脳がないんだから、その間ずっと自動操縦だった」

「ハハッ」

 フォックスと呼ばれた操縦士は、お喋りな相棒に柔和な微笑みを帰した。

「僕は元々オリエンタルに興味があったんだ」

「でもま、一泊するのはニューデリーのバルデーオン地区だろ、近代化されてるからな、あそこは。俺は他のインドは嫌いだよ、汚らしくて怠け者で、どいつもこいつも唾を吐く。とにかく嘘、嘘、嘘! それを責めると狂ったみたいに怒る!」

 機長の名札にはマクナリーとの記載がある。

 リンゼイは心の中で返事をした。唾を吐くのは、唾の捉え方による。ヒンドゥーでは疚しい考えをすると口にその不浄のものが集まって唾になると考えられているので、年寄りは吐きたがるのだ。しかし彼は、それを説明してインドフリーク振りを披露したいとは思わなかった。

 機長はインドを後進的な、怠惰で不衛生なだけの国だと考えている。

 だが、そんなことはない。崇高な理念を抱く彼女がいるのだから。彼女を産んだ、それだけでもインドには価値がある。

 リンゼイは一瞬、何を見るでもなく目を細めて、肩を竦める。

「でも、僕は二、三日泊まって、旧市街なんかを観光するつもりなんです」

 どうやら、ニューデリーに宿泊することを打ち明けようか迷ったかららしい。実際それを受けて、マクナリーは大仰に驚いた。

「フォックス、何だって? ニューデリーにいる?」

「ええ」

「なるほど、そうか。そこで見つけた女と四十八時間一緒ってわけね。白い制服なんか着ていなくても、お前なら釣れるだろうけど」

「そんなんじゃない」

 それを聞いて、僅かに赤らんだ自分の目許を、リンゼイは左上の目地を点検するふりをして隠す。呼応するように管制官が着陸軌道を取るように告げた。

「そろそろだな」

 滑走路のテールランプが目に入ると、操縦士、副操縦士は途端に背筋を伸ばす。機内に安全ベルト着用のアナウンスが流れ、下降し始める。この時が一番危険なのだ。しかし操縦士たちにとっては、もう慣れっこの感覚である。リンゼイ・フォックスの透き通った眼に、青や赤の小さな電子が走り抜ける。彼の瞳孔が最大のストレスに呼応して大きくなり、アドレナリンが体中を走る。しかし、それはいつもの退屈なそれではなく、胸の高鳴りを伴っていた。これから降り立つ小さな空港で、ある人が彼を待っている。

「手動に切り替えます」

 リンゼイが素早く手動操作を行い、計器や気象レーダーをチェックする。

「良好です」

 リンゼイが外部の監視も怠らずに、管制官、クルーからの連絡に受け答えをしている雄姿に、マクナリーは満足そうに頷く。この青年は一番の出世頭だろう。次の行動を予測しながら、数秒の間に幾つもの判断ジャッチメントをこなしている。

「管制官、最終進入経路ファイナルアプローチを採る。機長」

「完璧だ、フォックス。来年は機長昇進試験に推薦だな」

 副操縦士は一瞬マクナリーを振り向き、不敵な笑みを浮かべる。

 彼は操縦技術だけを見れば、機長を凌ぐかも知れない。

 もう少し仕事に野心的、意欲的になって腰が落ち着けば、尚良いだろう。しかし程好く独立的で、機長に依存してはいない。クルーとのコミュニケーション能力も高い、しかもこの顔立ちと姿だ。とても良い機長になるだろう。


 かつてインドなどのアジアの宮廷では、淑女は男とは別の種だといわれている。ジャワ、ベトナム、インドのマハラジャが住まう王宮が、血道を上げて作った美妓に会えば今でも、その感覚を実感として抱かざるを得ないだろう。まるで蓮の花で、触れるのも恐ろしいような緻密な芸術品、これぞ女という別の種族である、と。

 リンゼイは自問自答する、自分にも、従順で官能的といった古風な女らしさを兼ね備えているアジアの女への幻想があったのだろうか? 確かにそうかも知れない。

 アジアの女はゲルマンの女と付き合い慣れた欧州の男からすると、花のように可憐に見える。サクソン男の前で彼女たちは、小さくて、慎ましやかで、優柔不断で、少女の様に触れるのも怖い。アーシャもそうだった。



次回は十三日20時を予定しています。

次話ってくっつけられるんだ…まだ機能の使い方が分かっていません。

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