第三話 日常会話
日常会話的な。
海の底、窓もなく空もなく、錆びた違法建築たちが群れを成すだけで朝も夜もない。そんな場所が最下層のドームだ。人々はここに来ることを“罰”だと言った。そして誰かはそのドームを“監獄”と言い、また違う誰かは“亜人の場所”だと言った。人ならざる者の居場所だと。他のドームで生きることが難しくなった人間は何かしらの罪を犯してこの最下層に落とされることを望み、そして全人口の一割にわずかに届かない程度の人間がこのドームで過ごしている。
いくら最下層で他のドームに出入りすることが難しいとしても、このドームに仕事がないわけではない。政府に申告して幾つかの試験をクリアすれば援助金などを貰って飲食店や服飾店などを開業することもでき、その店の責任者が許可すればそこで働くことも出来る。その場合売り上げの内何パーセントかは政府へ払わなければいけないが、援助金と残った売り上げで食材や材料を仕入れることも出来る。既製品がないためにこういった店はかなり多く、ドーム人口の半分ほどは政府公認の店を開いて日々を過ごしている。
また、そこまで贅沢をしないでも生きていけるのならいい、という住人は全く働かないでいることも多い。趣味に没頭してたまに作品を売るような者もいれば、ただ何もせずゆったりと毎日を過ごす者もいる。その全てが自由に生きており、このドームの方が生きやすい、とこぼす者もいた。
そんな最下層のドームの中で異彩を放つ者は少なからずいる。例えば損傷が激しくもう人の住んでいない廃墟地区のリーダー、ハイラインとアルベルト。“暴君”ハノイ。この最下層で唯一上流階級の言葉を話しフルネームを持つ春原アリス。花を育てる“庭師”ゼノール。名前を挙げればきりがない。
多種多様な人間の集う街。昼も夜も空もないドーム。
アニーや店員からそれを聞いて本当に暮らしていけるのかとおどおどとしていた少年レオンだったが……。
「まさか慣れるなんて、思わないよなぁ…」
自宅でトーストを齧りながら、少年は一人呟いて苦笑した。この最下層に来てから一週間。既に近隣住民との挨拶も済み、彼はここでの過ごし方に慣れてきていた。少しばかり体感時間は狂うが、起きた時間が朝で眠くなる時間が夜だと考えるとそこまで気にしなくてもやっていけることに気が付けば、もう気にならなくなった。店も定休日や開店時間などが細かく決まっておらず、昨日は開いていた時間に行っても今日は閉まっていたりすることもあれば、昨日は閉まっていた店が今日は開いていたりと全てがそれぞれのペースで動いている。そのマイペースさは、それほど苦手ではなかった。
「時間に縛られないって、いいことなんだな」
今まではずっと学校に通ったり店に行ったりと時間に縛られる生活をしてきた少年にとって、この生活は新鮮そのものだった。好きな時間に起きても怒られることはなく、夜遅くに出かけることが禁じられているわけもなく、好きに交友して好きに過ごせばいい。仲の良い友人や家族に会えない事は少し寂しかったが、申請すれば文通も可能らしいのでそれもすぐ解消できそうだった。冷たい水を飲み、トーストを飲み込んで息を吐く。
「ちょっと自由を満喫したら、どっかの店で働かせてもらおうかなぁ。ずっと何もしないのも嫌だし…」
そう呟きながら皿を台所に持って行って皿を洗っていると、不意に「キンゴーン」と澄んでいるんだか濁っているんだか分からないドアベルの音が響いた。少年は慌てて水を止め、タオルで手を拭いてそちらに歩いていく。一応ドアにある覗き穴で外を見ると、そこには少し困ったような笑みを浮かべているフクロウが立っていた。いつでも黒づくめの彼はよく夕食の時間に最初に会った店で会うのだが、こうして家に来るのは初めてだ。少年はそんな事を思いながらチェーンを外して鍵を開け、扉を開いた。
「はーい」
「あ、こんにちは、レオン。突然すいません、今は大丈夫でしたか?」
フクロウは少年の声の聞こえた方向に顔を向け、少し首をかしげて微笑みを浮かべた。少年は「大丈夫ですよ」と答えてから、彼の後ろに立っている小さな少年に気が付く。ふわふわした茶色の髪は天然の巻き毛の様で、翡翠色の目は少女のように大きく明るく輝いていた。白いブラウスにサスペンダー、チェックの長ズボンにスニーカー、とこの辺りでは珍しいらしい上質な生地の服を身につけている。彼は目が合うとにこりと笑った。
「あのですね、彼は僕の友人なんですがレオンとも友人になりたいと言われまして、こうして二人で家を訪問させていただいたわけです」
「あぁ、なるほど…」
少年は一度、説明してきたフクロウを見てそれから彼の後ろにいる彼の友人らしい少年を見た。フクロウは少し笑みを深め、小さな彼の肩に手を置く。
「ほら、黙っていては伝わりませんよ。名前だけでも名乗ったらどうです?」
「わ、分かってるよーっ。フクロウはいっつも急かすんだもんー…」
少し頬を膨らませてから、彼は少年に片手を差し出した。太陽のような笑顔を浮かべ、口を開く。
「ぼく、ハノイ!よろしくねーっ」
「あ、俺はレオンです」
少年は名乗り返してその手を握ってから、相手の名前に聞き覚えがある事を思いだした。そしてそのシチュエーションとその名前の前後を思い出し、頬を冷や汗が伝うのを感じる。それは彼にこのドームについての知識のほとんどを教えた彼女が「一番危険人物」と言った名前だ。少年は恐る恐る、彼に問いかける。
「ハノイ君、って、さ」
「んー?」
「もしかして、“暴君”って…呼ばれてる?」
その問いに、彼は顔を輝かせて大きくうなずいた。少年が固まるのも気にせず、はしゃいだように笑って口を開く。
「そうだよーっ!えへへっ、ぼくも有名になったのかなー?ねぇ、フクロウ!」
「そうかもしれませんね。良かったですねぇ、ハノイ」
ハノイとフクロウはにこやかに和やかに会話する。少年は頭が混乱していた。まさかここに来て一週間で一番の危険人物に出会うことになるとは。しかし、と思い返して目の前で楽しそうに話すハノイを見る。彼は少年よりも小柄で、そんなに悪い人ではなさそうだ。噂に踊らされるのもいいことではない。そう判断し、ハノイに笑みを向ける。
「これからよろしくね、ハノイ君」
「うんっ、よろしくねー、レオンちゃん!」
「ちゃ、ちゃん…?」
少年は少し困ったように首を傾げる。ハノイはそれに大きく頷き、楽しそうな笑みで口を開いた。
「うんっ!だってレオンちゃん、ぼくより弱いもんね?ぼく、ぼくより喧嘩弱い人は、ちゃんって呼ぶのー」
「へ、へぇ…」
少年は目の前に居る小柄な彼がどうやら噂通り“暴君”と名付けられるにふさわしい性格を持っているのかもしれない、と少し肩を竦めた。ハノイはとても楽しそうに笑い、それからフクロウの腕をちょいちょいと引く。
「フクロウー、レオンちゃんと一緒にお出かけしてもいいかなぁ?」
「え、今からですか?」
「うん!」
ハノイは大きく頷く。え、と少年は思うがそれよりも早くフクロウは首をかしげて頬に手を当てた。人差し指を立て、ハノイの方を向いて少し眉間に皺を寄せる。
「ハノイ、彼にも予定という物があります。数日前に約束をしておくのがマナーというものですよ」
「えーっ、ぼくレオンちゃんと遊びたいよー」
「いけません。レオンの予定を聞いてから日程を合わせて約束することをお勧めしますよ」
ハノイは頬を膨らませるが、フクロウは全く意に介さない。少年はハラハラするが、フクロウは慣れたように腕を組み、そしてハノイに言った。
「ハノイ、わがままはいけませんよ。無理に連れ出すより約束して合意の上の方がお互い楽しめるでしょう」
ハノイは頬を膨らませて拗ねたようにそっぽを向いたが、フクロウが正しいと自分を言い聞かせたのか、不本意そうに「はぁい」と答えた。口をとがらせて少し不機嫌なハノイにフクロウは微笑み、その柔らかそうな頭を軽く撫でる。
「それでは、レオンに約束をしなくていいんですか?」
「…レオンちゃん、明後日一緒に街行こうー。ぼくのおすすめの場所教えたげるから」
「えっと、明後日ならいいよ。何も予定はないし…おすすめの場所教えてほしいな、俺はまだこの近所しか行ってないし」
少年が答えると、ハノイはパッと顔を輝かせた。そして明るい笑顔で少年の手を掴んで何度か上下に振り、楽しそうに体を揺らす。
「えへへっ、楽しみーっ!」
「良かったですね、ハノイ」
「うんっ!じゃあぼく達帰るねー。レオンちゃん、また明後日迎えに来るからねー!」
大きく手を振って、ハノイは一人で階段の方に走って行った。少年は彼に手を振って見送り、その姿が角に消えてからフクロウを見る。彼はハノイが走って行った方向を穏やかな表情で見ていた。少年は少し考えてから彼に話しかける。
「フクロウさん、ありがとうございます」
「いえいえ、彼は少し世間知らずな部分がありまして…色々と教えているんです」
フクロウは少しも疲れた様子もなく微笑んだ。不苦労とはよくいったものだ、と少年はふと思い、それからもしかするとそれが名前の由来なのかもしれないと考えたが、口には出さずにおく。
「それでは、僕も戻りますね。こんな時間からお邪魔しました」
「いえいえ、大丈夫です。気をつけてくださいね、階段は急ですから…」
送りましょうか?と問いかけるとフクロウは首を横に振った。それからハノイが走って行った方向に顔を向けて、少し微笑む。
「大丈夫です、彼が待ってくれていますから」
「あ、そうなんですか?」
「えぇ」
フクロウは少年を見て、そして少し困ったような、嬉しいような笑みを浮かべた。
「いつも僕を待っていてくれる、とても優しい子なんですよ」
「…それなら、大丈夫ですね」
フクロウは頭を下げて杖をつきながら廊下を歩いて行った。少年はそれを見送り、廊下の角で二人分の話し声がするのを聞いてから部屋に戻る。久しぶりに温かな人間関係を築いている人を見て、少し心が温まっているような気がした。皿洗いが途中だったのを思い出してそれを再開しながら、少年は少しだけ笑っていた。
次回「暴君散歩」
鋭意作成中