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満月

作者: 山内博之

出口がないと思っていた大阪の暮らしから、縁ができて奈良県桜井市の東光寺の住職になった山内宥厳の生き方を描いた自伝的小説

月曜日の夜遅く、天然酵母パンの仕事から解放されて、大阪から西名阪高速道路を経て奈良県桜井市の東光寺へ向かう。東光寺は真言宗の寺院であるが、楽健法の本部道場でもあり、日本アーユルヴェーダ学会の本部も引き受けている、僕とマニス・ノアールが暮らす小さな山寺だ。

自分が食べる一週間分の作り立ての天然酵母パンを段ボール箱にいれて愛車に積み込み、天然酵母パン特有の甘い香りにつつまれ、CDから流れるサッチデーブの地の底から湧きでてくるような横笛を楽しみながら、マニス・ノアールが待っている東光寺へ帰山する。

 サッチデーブというインドの横笛の達意の奏者が、二十年ほど前に日本各地で公演したことがあり、たまたま縁があって大阪公演のプロデュースを僕が担当した。

友人のRicが、プロデューサとして活躍をしていたオレンジルームで、サッチデーブの公演は満席になって成功だったが、サッチデーブの公演の一週間前にも、やはりオレンジルームで、インド舞踊のシャクティさんの公演があり観に行った。

Ricはインドのものが続くので客が来るかどうか心配していたが、逆に集客の効果があがったようだった。

シャクティさんは、開幕早々のセレモニーで、笑顔で一輪の花を口に銜えて登場し、その花を舞台から客席に恭しく投げたが、その花が、狙ったかのように、両の掌を上に向けて半跏趺坐していた僕の手のなかにすぽっと飛び込んできて、とてもいいことがその後起こるような不思議な予感がしたが、あの頃から僕は、心で願ったことがまもなく現実となるような人生が展開するようになったのだ。

サッチデーブは関西では大阪、京都で公演のあと、社殿が再建される前の天川神社で奉納演奏することになっていて、天川村へも同行した。

当時僕は阪大医学部衛生学教室に本部のあった、アーユルヴェーダ研究会の事務局長をしていたので、インドとのかかわりがなにかとあり、アーユルヴェーダ研究会創始者の丸山博夫妻もサッチデーブの演奏にいたく感動して天川神社へも僕の車で一緒に行った。

まだトンネルなど出来ていなかったので、天川への道は九十九折りの山道を上り下りしながら時間がかかって、ずいぶん遠くに思ったものである。

当時の古めかしい社殿は、新しく建て替えられた現在の社殿よりははるかに興趣が深く、サラスワティー(弁財天)の強い気がみなぎっているように思った。

最近天川神社で宮司さんとお目にかかることがあって、サッチデーブの大阪公演のプロデュースを僕がやっていたと知って、

「いままで天川神社で演奏された音楽では、サッチデーブが一番印象深いです」

と宮司さんが、僕があの奉納演奏会にかかわっていた因縁に驚かれながら話された。そして、 「サッチデーブさんは、お元気なんですかね」

などと聞かれたのだが、無論僕がサッチデーブの消息など知るわけはなかった。

宮司さんと、サッチデーブの思いで話をしたことがきっかけで、帰山して早速インターネットでサッチデーブの検索を試みたところ、アマゾンをはじめいくつかのサイトでCDが販売されていることが判明した。アマゾンの音楽CDのページの写真のジャケットには彼の懐かしい顔があのときのままあった。

サッチデーブがどこでどうしているかということまでは判明しなかったが、さっそくCDをアマゾンに発注して数枚送ってもらった。

彼から当時もらった何本かのテープは、録音もあまり良くなかったし、二十年の間に伸びてしまってダメになっていたテープもあったからである。

そういうわけで、彼のバンブーフルートの音色を家でも車のなかでも、最近繰り返し聴いているのである

サッチデーブはもの静かな瞑想の似合う男で、半跏趺坐して笛をかまえ、右足の親指をわずかに動かしてリズムをとりながら、心を凝然して地の底からわき出すような音色をかなでる。

サッチデーブの笛の音は、今風にいえばヒーリングミュージック(癒しの音楽)で、瞑想しながら心を笛の音に合わせていると、傷ついた人生の亀裂を埋めてくれて、いつのまにか満月の中空を飛翔している気分に導かれる。

ドライブ向きの音楽とはいえないが、この音を聴きながらでは、ぶっ飛ばし屋の僕も高速道路を爆走しないことは確かだ。

六十路半ばともなれば、僕もかなり枯れてきて、なにごとにも沈着冷静になるだろうと思うひともいるようだが、なかなかどうして歳とともに血まで枯れてはいかない。

人間の若さは、体と心のなかを流れている赤い血が決定しているので、年齢とか見かけなんかとは無関係だ。

この車を入手した二年前に、出雲へ講演に出かけての帰路、中国縦貫道で追い越し車線を走って十台近くの車を牛蒡抜きをしようとしたら、そのなかの一台が列からぬけて僕のあとについてきたかと思うと、それが覆面パトカーで、三十日の免停と高額の罰金を取るべく赤ランプを回転させた。

新しい車のスピードのマキシマムを試してみようなんて気持ちが、いまだにどこかにあっていけないのだ。爾来走行車線をゆっくり走っている車は罰金をとられて懲りた面々に違いないと思いながら走っている。

罰金に懲りてからは、よほどゆっくり走る車でないかぎりは追い越しをしまいと心がけるようになったが、ともするとアクセルを踏み込む癖が脱けないでいる。

パソコンと車のことでは、僕はいまもってオタクにカーキチの若造かも知れない。

天然酵母パンを作るのは毎週月曜日一回だけだが、月曜の夜のことを、東光寺だよりの「今月の和尚の詩」にこんなふうに書いたことがある。



月夜のくろがし 


寺川の流れを見ると

山に目が移る

あの山のあのあたりに

ひとまたぎほどの

まだ見ない源流があって

わたしの思考は

そのあたりへとんでいく

雨あがりの

激しくなった水の音も

あの山中の谷間から

天と地の轟きを開始する


今夜は月明かりがいい

 

東光寺橋を渡ると

疲れて帰るわたしの肩に

くろがしの葉群れが

ざっざっと騒いで

やわらかな月のひかりを照り返す

百ちかい石段をゆっくり登るにつれて

この里の家々の瓦が

視野のなかで大きくなり

月明かりをしーんと受けとめる

鳥見山も音羽山も

羊羮色で月に濡れている


今日は月曜日で

わたしはしこたまパン屋に精だして

不可思議のいちにちを生きてきたのだ

なぜわたしは

週に一度はパン屋になるのか

重い足を運んで

石段を登り

くろがしの葉群れの高さにわたしが立つと

月明かりもここへは届かず

本堂前の

蝋燭立ての下あたりから

黒猫のマニス・ノアールが

わたしを迎えに立ち上る


彼女の甘えた鳴き声を耳にしてから

わたしは変身する

パン屋から僧侶へと

あるいは具体から抽象へと

わたしはなにかにつつまれ

くるまれてあることを自覚する

模糊としたわたしの過半生が

くろがしの葉群れの闇に

のまれてしまったかのように

             (東光寺だより・今月の和尚の詩・から)



パン作りの日の月曜日は僕は数時間たらずの睡眠のあと、午前三時前に起床する。

早朝に起きなければと思うと、三時に目覚ましをかけておいても2時過ぎに目覚めてしまったりもするので、そのまま目覚めた時間には起きてしまう。入浴して水をかぶり、四時四五分までメールのチェックと進行中の仕事でパソコンに向かう。

愛機のメインマシンはアップル社のパワー・マッキントッシュ7300/180。

使って五年目になるが、32メガだったメモリは208メガ、2ギガのハードデスクを30ギガに増やし、アクセラレーターもつけて改造して現在はG3に変身したそこそこ快適なマシンである。マック歴は一九九五年パフォーマー575からはじまり、パワーマック6100/66、次が現在のマシンで、サブマシンとしてパワーブックG4とパワーブック2400/180とを使っている。

ウインドウズはVAIO・PCGーF60/BPとVAIO・PCG-SRIM/BPのノートが二台。

まわりが圧倒的にwindowsなので、送られてくるアーユルヴェーダ研究の原稿がマックで開けなかったりすることがあるので、どうしてもウインドウズも必要である。

ほかにはモバイルギアはNECの530とPalmが二台。

ウインドウズ98が発売されてパソコンショップに長蛇の行列ができた日は、僕はたまたま秋葉原の電気街にいたが、あの時はなんのための行列なのか知らなかった。マックを溺愛していたわけではないが、魅了されていてウインドウズなどさわりたくもなかったのである。

あの頃はマックとウインドウズの優劣を論じるやからがあちこちにいて、マックな人は馬鹿な人、などと書いた雑誌の記事なんかもあったが、端的にいえばマックは明快で、ウインドウズは回りくどいマシンである。

マックを使っていてウインドウズを触ると賢くない機械だなと思う。 マックは職人が使う道具だが、ウインドウズはエンジニアが使うマシンだ。

職人というものは常に最短距離の仕事を本能的にあやまたず見つけるし、エンジニアは試行錯誤を繰り返す。

マックは有機農法だが、ウインドウズは現代農法であるとも言える。 有機農法は体と心を癒す充実感があるが、現代農法は体と心を疲れさせる。

マックはアーユルヴェーダだが、ウインドウズは現代医学なのだ。 つまりマックは人間的だが、ウインドウズは心から遠いところに位置する機械である。

僕がそのようにいう理由は、使えばすぐわかることだが、マックは泣いたりわめいたり微笑んだりする顔が見えるが、ウインドウズはロボットのように無表情でにこりともしないのだ。

しかし98になってからウインドウズはマックの操作に限りなく近づいてきたので、ほとんど開きはなくなってきた。マックが使えたらウインドウズも問題なく使える。一昨年まで旅行中はNECのモバイルギア530で、携帯電話を使ってこれでメールのやりとりもしていた。小型だが、キーボードも両手で快適に打ち込める。ホテルで室内にパソコン用のジャックがなければ、電話機の裏からジャックを外して差し込み、ゼロ発信させて使う。

しかしこのモバイルNEC530はシステムの安定度がよくないことが次第にわかってきた。ウインドウズCEに本来使われているメールソフト、アウトルックが530ではまったく使い物にならない。時間がやたらにかかるだけでなく、受信したはずの百通を越えるメールが、翌日に起動すると勝手に三分の一に減っていたりする。なんどかメーカーに出して点検などもやったが直らない。

このメールソフトと同じトラブルが、マックのオフイス2001に入っているEntrageでも起きたことがあって、使いはじめて数日たったころ、受信して保存出来てるはずのメールが、半分ちかく消えてしまっていたことがあって、なんだ、あれと同じじゃないかとがっかりして、以来マイクロソフト系のメールソフトは一切使わないことにした。

しかしNEC独自のMGメールというソフトがついているので何とかそれを使っていたが、複数のアクセス先を設定しても一つしかアクセスできないというような癖があって克服できない。

そこで最近はVAIO・PCG-SRIM/BPを持ち歩くことにしていた。しかしこの機種も旅先のホテルの電話を使ったゼロ発信が設定ミスもないのにどうしても話し中音になってつながらない。

マックの2400/180も携帯に便利な機種だと考えて買ったマシンではあるが、いかんせんモデムを内蔵していない。モデムカードと携帯電話を使えば受信はできるのだが、ホテルなどで電話からインターネットにつなげないのでは、便利な機械などとはいえない。マックのノートブックG4では問題なくゼロ発信もOKだが、二キロを越える機械の重さがバッグを掛ける右腕につらいので持ち運びに難渋するのだ。

そこで発想を変更して最近は仕事で出かけるときは、パワーブックG4を持ち歩いて、入れ物を大八鞄にした。車つきでひっぱれるアレである。雑踏したターミナルを引っ張るときには他人の足を引っかけないよう注意が必要だが、これならパソコンの一キロぐらいの重量差は気にしなくてもいい。車附きの鞄で、桜井の田舎町に夜おそく電車を下りて道路をひっぱって歩くとがらがらとかなりやかましいが、気にしないでひっぱることにした。大八鞄の車にゴムのついてるのがないか探してみたが、プラスティックの車輪ばかりでゴムの車輪のはなかった。なかなか配慮の行き届いたグッズは世にないものである。

最近はDOCOMOの携帯電話で、250文字までだがメールのやりとりもできるし、小型な画面ながら、端末としての機能は不十分ながら備えているので、急ぎの原稿でもなければ、パソコンを持ち歩かなくてもよくなってきた。そのうち長文のメールを受け取れるようになれば、モバイルパソコンとはさよならできるかもしれない。

携帯電話はいまでは個人のユーザーにとっては、もっとも便利な端末と言えるだろう。文字の入力に関しては、一文字を選ぶのに何度もキーを押さなくてはならないのが面倒だが、鉄道のどこの駅の時刻表でも即座に見ることもできるし、情報を得るための端末として、実用性と便利さは自宅のパソコンなどの比ではない。

こんなところが僕のパソコンの通信環境である。

僕がパソコンを使ってみようかなと思ったのは、パソコンに熟達した若者を「おたく」などと呼んで白い目で見がちだった、来年は五九歳になるという年末だった。

もしこのままパソコンを使うこともなく六十歳をむかえたとしたら、僕は生涯パソコンというものを知らないまま人生を終えることになるだろう。

あのおたくなどと言われている若者たちが、それほど熱中する、面白そうなパソコンを知らないまま人生を終えるのは、生涯女の味を知らずに死んでしまう哀れな男のようなものではないだろうかと思ったからである。

パソコンがどういうものかまったく知らないでいたので、そう思った日にさっそく書店にいって、やさしいパソコンの使い方を書いた漫画の本を立ち読みしてみたのである。

その漫画本が取り上げていたのはアップルのマッキントッシュパフォーマーの使い方であった。それを眺めながら、「なんだやさしいじゃないか、これならわけはない」と思って翌日には日本橋へ出かけて、パフォーマー575というのをプリンターと一緒にセットで買ってきた。

僕の人生は熟慮よりも常に直感が優先する。 即断力と軽率さは僕の人生遍歴そのものだといえるだろう。

指物師が新劇をやりながら額縁屋に転向したことも、額縁から天然酵母パンに転じたことも、足で体を踏みあう二人ヨーガ楽健法の普及にのめりこんでいったのも、密教の僧侶を志したのも、この即断力と軽率さがあったればこそだ。

 パフォーマー575はハードディスクが150MB、メモリが12MBという、今思うとよくあんな小型で動かしていたものだと思うパソコンである。1000MBが1ギガという単位になるので、現在使っている7300/180のパソコンのハードディスクが30ギガだから、いま使っているマシンに比べるとパフォーマー575は200分の1の大きさでしかない。

150MBというハードディスク容量は、いまのマシンに比べると、超大型トレーラーとバイクみたいな違いがある。

メモリというのは、システムとソフトを動かして作業をするスペースのようなもので、メモリが大きくなるほど、作業場が広がって多くの仕事ができる。

12MBでは、当時のソフトでかろうじてインターネットの画像を見ることができるというぎりぎりのサイズである。ひとつなにかのソフトを立ち上げたら作業場はいっぱいになってしまって、もう一つ別のソフトを同時にたちあげる仕事を追加したりすると、==メモリ不足です==というアラート(警告)がでてきて、先の仕事を片づけなければ別のソフトが立ちあがらない。

当時はメモリを増設するといっても高価だったので、ハードディスクの隙間を仮想のメモリとして代用できる、ラムダブラーなどというソフトが数千円で買えたので、これをインストールして12MBのメモリを24MBとして機械をだまして使っていた。

しかし絶えずメモリが足りませんというアラートが出てきて、たびたび作業を中断したものである。

マックは一つの作業を終えないうちに、次の命令を早く出したりすると、システムが命令に追いつけなくて機械がパニックを起してフリーズ(凍りつく)したり、爆弾の絵が現れて止まってしまう。

ワープロで入力した文章をまだ保存しない内にフリーズや爆弾が現れると、何時間もの作業がみんな消えてしまう。作業しながら間断なくハードデスク記憶させておかないと泣くにも泣けない再起動(スイッチを切って入れ直すこと)を余儀なくさせられる。

何時間もの労力をふいにする苦い経験をなんどもさせられたものである。

いまでは多くのソフトが、時間を指定して何分かごとに自動で保存ができるようになっているが、自分で作業中にキーボードのキーを叩いて頻繁に保存する癖をつけておくのがベストである。

爆弾はパソコンにかなり手慣れたいまでも時々出現する。 僕のパソコンの練習は、パソコンの内部散策からはじまった。

ハードディスクを開いて、パソコンのエンジンにあたるシステムフォルダの中をいろいろ開いてみては、コントロールパネルだの、機能拡張だのというものがどんな役割をになっているのかなどとクリックしては確かめたりして、この好奇心はおおいに上達に役立ったが、これを読んだひとはあまりそんなことはしないほうが安全である。

当時はパソコン通信がさかんで、パソコンを購入すると、大方のひとはニフティサーブに加入して、電話料金のほかにニフティサーブに一分十円の課金を取られて接続していた。ここに加入するためには、クレジットカードが必要で、僕はそれまでカードなどもったこともなかったので、郵便貯金からマスターカードというのが作れることがわかり、郵便局で生まれてはじめて貯金通帳をこしらえ、それを入手してからやっとニフティサーブとビッグローブに加入した。

パソコンがはじめてニフティサーブにつながって通信ソフトの文字が画面を走り始めたときの感激はいまでも忘れられない。

ニフティサーブに接続をしていると、電話料金と課金とで数万円ぐらいの経費はすぐかかるのである。毎月十万円を越える通信費がかかるなんてひとも、結構たくさんいたようだ。

僕も五万円を越えたことが二三度あったが、間もなくインターネットが爆発的にはじまって、ニフティサーブのあくどいような課金も通用しなくなってきたのである。

当時はベッコアメというサーバーが安いというので人気があったので一時加入したが、加入の人数に比べて設備が追いつかず、なんどアクセスしても電話がビジー(使用中)になっていたりしてうんざりしてきたので、やがてasahi-netというのに切り替えた。

パソコンを使い始めてから半年ほど経ってインターネットにホームページを開いた。

僕はパソコンやソフトのマニュアルはほとんど読まないで画面のメニューを見ながら操作にとりかかる。

人間の作ったものは、触っているうちにほとんどわかってくるものである。 パソコンが苦手だという人はたいていマニュアルを頼りにするひとである。

マニュアルを読んでからやってみようというやり方ではなかなか進歩しない。 僕はマニュアルを読むということが苦痛である。

マニュアルは、どんな頭の構造をしたやつが書いているんだと、腹立たしくなるほど出来がわるくてわけがわからないのが多い。

パソコンの操作もわからない人間が読んでわかるような代物ではないのがマニュアルというものだ。まず触って操作に慣れてきてから、どうしてもわからないところだけマニュアルを読むのがいい。かなり使えるようになってくると、必要なところが探せるようになるのがマニュアルというものである。

 先日楽健法の受講生の一人が庫裏を掃除に来て、パソコン部屋を覗いて、

「先生はすごいマニアですね。パソコンにかけるお金は惜しくないんでしょうね。掃除機はこんなに古くてぼろなのに」などという。

「吸い込めばいいんだそいつは。捨てたらかわいそうじゃないか、役に立ってるのに」

といいながら掃除機を見てみるとなるほど十五年のキャリアをもつ年代物だ。 しかしこいつはまだ五年ぐらいはタフにはたらくかも知れないなどと思う。

女房と畳は新しいのがいいというのが日本人のむかしからの言い習わしだが、女房は古くてもいいからパソコンは新しいのに限るというべきだ。

さて月曜日。三時半にメインのマシンを起動してメールをチェック。

アーユルヴェーダ関連のメーリングリストを二つ開設しているし、チベット問題をあつかうメーリングリストなど、いくつかのところから、毎日三十通以上はメールが入ってくる。スパムメールもかなり入ってくる。

スパムメールというのはエロ画像やインチキ投資勧誘メールだ。

何十万人ものメールアドレスのリストを一枚のCDに集めて、これをインターネットで販売している奴が沢山いて、ホームページを開設したり、メーリングリストに投稿したりすると、必ずリストに入れられてしまう。このリストをもとに無差別に送りつけてくるのをスパムメールというのである。

なかには個人的な返答を要するメールがいくつかあって、これらに返事を書く。

天然酵母パンの注文や、パン作り、アーユルヴェーダに関する質問も結構多い。 四時四十五分。家内に電話を入れてモーニングコールをかける。

家内はさっそく起きだして、僕が東大阪の楽健寺パン工房へ到着するまでに第一回目の生地を捏ねてドウをつくってしまうのだ。

パン生地を捏ねると、三十五℃前後で二時間余り第一次醗酵をしなくてはならない。

この醗酵の待ち時間にすぐ近くの楽健寺の自宅へいったん帰り、天然酵母パンと珈琲などで軽く朝食を摂る。

ふたたび工房へ入るとまずオーブンのスイッチを入れる。 すでに第一次醗酵の生地が数倍に膨らんでいる。

膨らんだ生地を拳で数ヶ所押し込んでガス抜きをする。これはパンチをするともいう。 パン生地の炭酸ガスを抜いて、酸素を入れてやるのである。

十分ほど経つと、ふたたび元のように膨らんでくる。膨らんだ生地を作業台に取りだして、秤で計りながら仕上げるパンの大きさに切り取る。

これを分割をするという。 分割したものをベンチタイムといってしばらくまた休ませる。 それからパンの成形をして、型にいれたり、天板に並べる。

それを焙炉ホイロにいれてまた二時間十分ほど寝かせて膨らませる。 膨らんできたら、オーブンに入れて焼き上げる。

この一連の作業を二工程繰り返して、夕方までに百キロほどの小麦粉を使って天然酵母パンを作り、夕方には宅配便で各地の注文主に発送する。

夕方の五時過ぎにすべて終ると、家内も僕もかなり疲れきっている。 近所のレストランに出かけて簡単に夕食をすませる。

料理好きの家内も、パンの作業のあとは疲れ切っていて、夕食を手作りなどする体力も気力も失せていて一刻も早く休みたいのである。

自宅に帰って家内が先に入浴し、あとから僕が入浴からあがるとすぐに家内に楽健法を施す。楽健法で僕も足を運動させることになるので互いの疲労がかなりとれる。

終ってから僕はまた奈良へと帰路につく。 近畿道と西名阪を走って約一時間の道のりである。

満月の夜以外は、ガレージの広場は、東光寺山の栗の木林に空を半分覆われていて暗く、ガレージのキーが山勘ではなかなか差し込めない。

やっと差し込んでシャッターをもちあげようとすると、冬などは僕の手が静電気で稲妻を発して光り、ビリッと電流がながれかなり痛くてびっくりする。

ガレージのシャッターを押し上げてから、フォレスターをバックで入れる。 この車に乗り換えてからバックがいくらか下手になった。

一発でまっすぐ入らなくなったように思う。 バックが苦手だというわけじゃないのに、前の車とはどこか勘どころが違ったままいまだに慣れない。

以前の車は日産のヴァイオレット・リベルタという千八百CCの車であった。

この車は左右のサイドミラーが、フェンダーの前のほうについていて、とてもサイドやバックが見やすかったのだが、最近の車はどの車もドアの窓際に取り付けるようになってしまった。

首を大きく動かさないと左右のバックが見えないミラーである。

自家用車のスタイルには、ミラーの位置にまで流行があって、どこかのメーカーがそれを始めるとみんな右に倣えをする。

目玉を動かせば事足りるフェンダーに取り付けるサイドミラーが使いやすいのは間違いなく、ほとんどのタクシーのサイドミラーはいまでもこのタイプを使っている。

車から降りてシャッターを閉めながらフォレスターを見ると、今日も前後で数センチ斜めに入って駐車している。

僕のバックが下手なのではなくてよくないのはサイドミラーであると断定する。

この白い色のフォレスターを購入したのは、二年前の五月、ペテロが神父になって叙階式のミサに呼ばれて行った、ベルギーの旅から帰ってきた翌日だった。

インターネットのGOOで検索して、堺市のスバルのデーラーで新古車を見つけて、ベルギーへ発つ前に契約をすませておいたのであった。

新車なら定価二百三十万円のこのフォレスターが新古車で出ていて、走行距離三キロ、百数十万円とあって、僕の予算の範囲にあった。

検索した翌日に現物を見に行った。

新古車というのは、販売店が自社で購入したことにして登録して販売実績をアップし、在庫として抱え込んでおき、しばらくして販売に出す車で、手続き上は中古車みたいだが、実質は新車なのである。

新古車を購入すると取得税がいらなかったりして、かなり割安でユーザーにはお得な買い物となる。新車購入に比べると全体で五十万円ぐらい安い買い物となった

ベルギーの旅の疲れも残ってけだるいその日、十七年間も乗り慣れた日産のヴァイオレット・リベルタに乗って堺まで出かけた。

この車に乗るのも今日が最後だと思うと、恋人と別れてしまうような感慨無量なるものがあったが、もしももう一度このリベルタの車検を今年受けても、次に起きるだろうトラブルには部品も手に入らないということが確実なので、買い替えの潮時だと意を決したのである。

この車にまつわる、わが人生のドラマを書いても、なかなか書き尽くせるものではないほど思いでがつまっているが、そのことはいつか書こう。

フォレスターを買う前には、スバルのレガシーを買いたいとあこがれていたのだが、レガシーの新車か新古車を購入するには、予算面でとても手が届かなかったので、同じメーカーのフォレスターを購入することで我慢したのであった。

このフォレスターS/20は五段変速のマニュアル車である。

この数年間、この次に車を買うときはオートにしよう、などとなんども思いながら、実際に車を目の前にしてオート車とマニュアル車をくらべてみると、迷わずマニュアル車を選んでしまった。

オートを選んでいれば、あとできっと後悔するような気がするのである。

オート車にたまに乗ってみると、スタート時にいつもエンジンを過回転させているような気がしてならない。速度に比してタコメーターがあがり過ぎなのだ。車を転がしはじめた時に、速度のわりにエンジン回転が早いのが気にくわないし、また自分の望むような出足で加速できないのも気にくわない。

それとマニュアル車に慣れたものには、危険度が極めて高いということもある。

最近、友人のオート車を運転していて、大宇陀から桜井への忍阪のながい下り坂にさしかかり、次第に加速するので危険に思いドライブギアを一段下げて走行していたが、やや下りがゆるやかになってきたので、ギアをドライブモードに戻そうとしたとき、左足がクラッチのつもりで本能的に思いきりブレーキを踏み込んでしまった。

坂道の途中で八十キロ近いスピードが出ていたが、車はキーッと音をたてて急停車し、後続のトラックが車間距離を保っていなければ追突されるのはまぬがれないところだった。

なにが起こったのか一瞬判断が停止してしまい、ハザードランプをすぐに入れて後続車に危険を知らせたが、僕はまったく運転を知らない人間のようになって、車を路肩に寄せることすらすぐにはできなかった。

オートの車のブレーキはどうしてあんなに幅ひろく作ってあるのか。

マニュアル車のブレーキのフットと同じ幅になっていれば、こんな危険なミスは起きないのである。マニュアル車に慣れた人間には、悪魔の考案かと思うのがあのブレーキの幅広フットである。

走行速度が自分の意識の指示に従わないのも、オート車の欠陥である。

二千CCぐらいの小型エンジンでは仕方ないかも知れないが、オート車は追い越しなどで、一気に加速なんかができない。

マニュアル車だと、だいたい自分のイメージに近いエンジン回転とギア比を使ってロスなく気分のいい加速感覚で走ってくれる。

悔しかったら追いついてみろってな加速が出来るのがマニュアル車である。 それだけでなく、ガソリンの消費量にもかなり違いがでてくる。

いまのフォレスターで、市内でリッター平均十二キロ、高速に入ると十五キロぐらいは伸びている。オートだと七~八キロというところだろうか。この燃費はマニュアル車でロスなく、効率よくエンジンを回転させているからにほかならない。

 このフォレスターは軽四貨物もふくめると僕が買った十二台目の車になる。

昭和四十一年、二十九歳のときに、免許をとるなりかなりおんぼろの中古車、ヒルマンミンクスPH10型を十一万円で買った。

終戦直後まで、近所に花嫁を乗せてきたハイヤーのあとを追っかけて走ったりした、乗用車などには触ったことも乗ったこともない子供が、自分の車をもつことになろうとは夢想だにしなかったことである。

インターネットのトヨタ博物館で検索して調べてみると、(エンジンは水冷直列四気筒サイドバルブ、一二六五cc、三七、五馬力を搭載。トランスミッションは、前進四段のコラムシフト、ファイナルドライブはハイポイトギヤ、フロントサスペンションには、ダブルウィッシュボーンを採用している。ボディはモノコック構造。)

とあった。 名神が開通して間もなくの頃だった。

当時の日本の国道の舗装率はまだ四パーセントで、日本の田舎といわず都会でもまだまだ未舗装の道路がほとんどだった。

雨が降るとぬかるんで走れなくなってしまうような道路が一級国道だったりして、当時の道路を走ると、いたるところでタイヤが釘を拾ってパンクした。

そういう道路事情のなかで、道路の凹凸誤差は〇.四ミリなどと自慢する鏡のように磨かれた名神高速道路が出現したのである。

中古車屋が、ポンコツで危険だから、あまり飛ばさないようにといっていたこのヒルマンミンクスに友人数名で乗り込んで、がら空きの名神高速道路を何度か意味もなく名古屋まで走って行って大阪まで引き返してきたりした。

内田百間は「阿房列車」で、東海道線をただ列車に乗ったまま東京、大阪間を往復してくる話を書いているが、われらのドライブも「阿房ドライブ」というところか。

このおんぼろヒルマンは八十キロを越えると、ハンドルにがたがたと振動が起きたが、何度か百キロの速度を体験したりした。

今思えば三十七.五馬力のおんぼろ車でよくぞあんな無茶をやったものだ。

ヒルマンミンクスが何度か故障して、買ったところに修理に持ち込んでも、こんな車は修理してもかえって高くつくばかりだと分かって、数ヶ月後、売り出して間もなくの新車、空冷エンジン八百CCのトヨタパブリカUP十型に乗り換えた。

安く購入できる国民車などといって売っていた車で、車についての知識もとぼしい当時の僕には贅沢で高価な買い物であった。

同じくトヨタ博物館で調べると、

(強制空冷水平対向2気筒OHV、六百九十七cc、二十八馬力のエンジンを搭載。前輪にトーションバースプリングを使用したウィッシュボーン式独立懸架を採用したFR駆動車。トランスミッションは前進四段のコラムシフト、ボディ構造はモノコックを採用。ゴルフバックが三つも入る大きなトランクを持つ四人乗車の"ホームカー"であった。)

とある。 パブリカは当時三十六万円ぐらいだったか。 二気筒のエンジンで最高速度は百十キロとカタログにあった。

当時の車のカタログには最高速度というのが必ず記載されていたが、いまは書かれていない。

最高速度の性能を誇るよりは、速度を出せない車にしたほうが安全だという考えのほうがもちろん正しいと思うので、最高速度は書かなくなったのだろう。

最近発表されたが、そのうち大型トラックに九十キロ以上速度が出せないリミッターという、燃料を制限カットする部品の取り付けを義務づける法律ができるそうだが大賛成である。

リミッターをつけると、自家用車の背後に百二十キロを越える速度で数メートルも車間を空けずに追尾してくる、大型馬鹿運転手が減るだろうと思うからだ。

ざまあみろ、と早めにいっておく。

生まれてはじめて買ったおんぼろヒルマンミンクスでも大層嬉しかったが、新車のパブリカは何時壊れるかも知れない不安を持たずに安心して乗れるので、いっそう嬉しくて、暇があるといつもぴかぴか光らしておいた。

パブリカはセルをまわすと、車体が左右に胴震いしながらエンジンがかかったものだ。

平坦な高速道で百十キロは出たが、すこし登りにかかると八十キロくらいにがたんと落ち、長い下り坂にさしかかると百十五キロがやっとでた。

底力のまったく感じられない紙飛行機みたいな車だな、とそのとき思った。 追い越されるばかりで、こちらが追い越せる車などほとんどなかった。

いつだったか神戸の病院へ結核で入院した友人を見舞いに訪ねたとき、海の見える病院へのすこしきつい坂道が登れなかった。

途中で止まってしまって、他の車はパブリカを横目にすいすい坂道を登るのに、僕のパブリカは坂道発進しようとしてもできなかった。

車を押しあげてまで坂道を登ることはできないので、あきらめて平坦なところに止めて舌打ちし、タイヤを蹴っ飛ばしてから歩いて登った。いまから思うと、二十八馬力のちいさなエンジンでは、とても無理なことなんだろうが、自分の所有するメカが非力であるという自覚を強いられることほど、情けないことはないように思ったものだ。

たまに友人の持つ千六百クラスのコロナなどを運転すると、アクセルを踏み込めばいくらでも走りそうな底力のありそうな余裕がエンジンに感じられて、いつかは力のある車を僕ももちたいと思いながら、紙飛行機クラスで我慢するしかなかった。

 しかし、長い期間ではなかったが、この車には母を乗せてなんどか走った。 あるとき、母と妹とを乗せて走っていると、妹が

「兄ちゃん左側がこすりそうよ」 というので、あわててサイドミラーを見ようとしたら、

「バックミラーをちゃんと見て運転してるんだから心配はいらないよ」 と母が自信たっぷりにいったので余計びっくりした。

バックミラーやサイドミラーを確認しながら運転する余裕など当時の僕にはまったくなかったからだ。

そうなんだ、母は信頼と安心をして僕の運転する車に乗っているのだと思った。 母をパブリカに乗せてなんどか病院へ行った。

大阪の成人病センターというところに母は入院することになった。 左の首の後ろに、直径数センチのこぶができたのが、受診のきっかけだった。

悪性かも知れないと母は心配していたようだったが、入院してそこの手術を受けるとまもなく元気になって、本来明るい人なっこい性格だった母は、病院などというところにはじめて入ったということもあって、たちまち入院患者の何人かと親しくなり、自分は外科に入院しているのに、別の科に入院している患者と懇意になったりして、見舞いがてら他の階の病室へ話し込みにいったりしていた。

「お母さん、そんなに動き回って大丈夫なの」 と娘にいわれると、 「すっかり、なんともないわよ」

と首に包帯したまま、踵でターンしたりしておどけてみせた。

病院にいると、家にくすぶっている酒好きの亭主関白の父の、うるさい干渉から逃れられて、気持ちが解放されているようだった。

母は車に乗って走るのが好きなようだったが、どこかへドライブなどにつれていってあげて楽しむこともなく、まもなく母は亡くなった。

この病院での経過は良さそうで、元気になり、間もなく退院できるだろうと思っていた矢先、ある日家族が見舞いに行くと、ベッドにいないので一時間も病院内を探しまわったところ、トイレで倒れていたのを孫が発見した。

発見して二日ほどで意識が回復しないまま息をひきとったが、死の前日、僕がベッドの横で母をみつめていると、意識のない母が、鼻に差しこまれているチューブを右手の親指と人さし指でつまみながら、胸のあたりから鼻まで辿っていき、そこで納得したように手を離したの見て、母は外界とのつながりは断たれていても、意識はまったくなくなってはいないことに気付いた。僕は手をにぎって呼んでみたが応えはなかった。

脳卒中だった。  楽健寺天然酵母パン工房を作ったのは昭和四十九年(一九七四)四月だった。

当時は石油ショックがあった直後で、あれが日本の体質をなにもかもいやなほうへ大きくねじ曲げていった引き金となった。

僕の観察では、この石油ショックを境として、日本人はもっていた良い資質を意識的にそぎ落としていった。

当時の僕は、まだ世間では一般化していなかった、ポリエステル樹脂とかシリコンゴムを使って額縁作りを試みていて、樹脂は三井東圧から直接買い、シリコンラバーなど他の材料は信越化学など大手の材料を接着剤で有名な会社の窓口から購入していた。

当時はどこの大手の会社も、営業マンも技術指導の担当者も仕事にひどく熱心で、利益を無視してまでごく零細な僕の様な仕事場まで技術者が足を運んできて、アドバイスをじつによくやってくれていた。

その材料よりこちらがいいのではないか、などどいうことを担当者が思いつくと、試供品として、高価な材料をしかも商取引単位の量を無償で提供してくれたりした。

大手のどの材料メーカーも、なにかを電話で問い合わせると、懇切丁寧に双方が納得するまで対応してくれていた。

しかし石油ショックの翌月から各メーカーはがらりと態度を変えてしまったのである。

どのメーカーも一律に変化したから、これは財界ぐるみで決めてやっているとしか思えなかった。

値段が一気に倍ちかくにもなり、担当が変わり、それまで信用取引していてなんら支払いに問題があったわけではないのに、現金払いでないと取引しないといいだした。

接着剤のメーカーなんかは、顔なじみの気さくにものをいっていた担当重役がやってきて、上で決めたことですから悪く思わないでくれといいながら、いままで一缶づつ購入していたシリコンラバーは五本以上まとめて現金で買ってくれといってきたり、三井東圧なんかにいたっては、それまで二十キロ入りの缶入りポリエステルを購入していたが、ドラム缶単位でないと売れない、などといいだす始末だった。

それでも仕方がないので買おうとすると、残念ですがそれも品切れですなどとそっけなく突っ放し、お宅は個人の経営ですから、会社でないと売れないのですがなどというようになった。

もはや商業道徳とか誠意などというものはかけらも無くなってしまったのである。

何年にもわたって、いろいろ付き合ってきたあの誠意ある態度はどこへ消えてしまったのか。僕ははらわたが煮えくり返った。

いまにお前たちは、とんでもないに目にあってひっくり返るだろう。呪ってやる、と思ったが、メシが食えなくなってひっくり返ったのはこちらのほうで、大手企業は金になりさえすればなんにでも手を出すという、バブルの競争のなかに突っ込んでいったのである。

天然酵母パン作りに本格的に取り組むようになったのはこういう時期で、あんな企業なんかにつきあってやるものかと思ったからでもあった。

自宅で時々焼いては研究していた世にも類いまれなる天然酵母パンをこしらえて、きざないい方をすれば、ひとはパンのみにて生くるにあらず、ということを実証するためである。

だがパンの研究にいたるまでの、もっとさかのぼった頃の話から書かねばならない。

日々の糧を得るために、困難ばかりが多い仕事に四苦八苦していたそれまでの僕は、心身ともに疲労困憊していて、あげくの果てに喘息を病むようになっていた。

喘息とは心の氷壁が作るものだ、とある医師が書いているのを読んだことがあるが、いろいろなストレスに直面すると、ひとの心のなかに毒がうまれ、毒が体に作用して、病気という衣をまとう。

人間は環境に順応して病気を作るので、環境に順応できないから病気になるというのは考え方が逆である。

病気は人生を防衛してくれるという側面ももっている。

うまく行けば、病気は自分に合わない、好ましくない環境から脱出する手段となるし、家族からやさしく扱ってくれるようになったり、あるいは療養を余儀なくされて、体と心を癒す時間をたっぷり恵まれるかもしれない。

連れ合いと性格が合わなくてストレスとなっている場合などは、相手が死の淵に立たされているような病気になることで、相手の存在のかけがえのなさに気付いてやさしく看病するようになるとか、いままでの相手の良くない性格が変化するかも知れない。

もしそうなれば、病気が環境を変えたということができる。

ストレスの原因となる要素を、ストレッサー(有害因子)というが、環境にはストレッサーはいくつもあってのしかかり、それらが負担になってその環境から逃れたいという思いが強くなって病気をこしらえる。

僕のストレスは、貧乏な大家族の長男として生まれたために、余儀なく所帯を背負うことになり、生活の困難と早くから向き合って生きなければならなかったことにある。

物思う多感な青春のただなかを、いつになったら脱けられるという見通しもなく、中年の世帯もちの男のように銭金の心配をしながら長年過ごしてきたのである。

仏教に不楽本居という言葉があって、自分の生きるべき場所でありながら、そこを楽しめないで苦痛に思うことをいうが、自分に与えられた環境を単純に素直に喜べるような気持ちであればことは簡単だが、多くの人は不満を抱かざるを得ないような環境を与えられて、人生をのたうちまわるものである。

二十代の終わりに「雨季」という詩集を出して、友人に贈呈するとき、   はたちにして僕はすでに中年であった。

僕の人生は、雨季のように、いつも、うっとうしかった。  などと、見返しによく書いて渡したものだった。

結核にでもなって、白樺の林なんかが見える信州のどこかのサナトリウムにでも入院して、美人のナースと恋愛でもできないだろうか。

などと、健康に恵まれていながら、堀辰雄の小説なんかを愛読していた僕は罰当たりな脱出願望の夢想をしていたが、現実はアンチロマンの喘息なんかになって苦しむことになったのである。

あんなことを願望したから罰があたったように思いながら肩で息をしていた。

与えられた環境を不当だと思いながらも、僕は人生をあきらめてしまうわけにはいかなかった。一介の職人として生涯を送って満足できるほど、僕は無欲にはなれない性格なのだ。青春とは可能性の感情であると、福田恆存がどこかに書いていたが、人生は可能性に満ちていると僕は確信していた。

僕は指物師として、良い家具を作りたいという意欲を強くもっていたが、時代は大きく変っていき、僕が作りたいと思うような、良い材料を使った本物の家具などは駆逐されつつある時代だった。

北海道産の素直なナラガシやシオジなどの良材を使った、ほれぼれするような家具などを必要とする顧客がその時代にはいなくなっていたのである。

当時の僕は自分が作りたいと思うものを作れない哀れな指物師であった。

十歳の時から指物師として木工の技を身に付け、いかような家具でも自在に作りだせる腕を持ちながら、その技を発揮できないで片々たる家具ばかり作っているのでは、生きているという意欲を満たすことなんか出来ないのである。

僕が自分の作りたい家具ばかり作って、それを求めてくれる顧客がいたとしたら、どんなにか幸福な職人でいられたことだろう。

加えて、僕の家庭環境は最悪であった。

姉は、終戦直後に大連から引き上げてきて徳島の親戚に寄留していた青年に見初められ、熱心に求婚されて福岡へはやばやと嫁いでしまった。

小学校も六年生のときはほとんど学校へ通えずに父の弟子として働いていた僕は、義務教育になっていた中学へは進学しなかったが、やはり勉強したくて十八歳になってから夜間高校を受験して入学した。

長男の僕は、酒におぼれるようになった父と、我慢強い母、五人の弟妹の下三人は学校へ通っているという環境のなかで、夜学に通いながら中年の男のように生活苦と闘って呻吟していた。

昔の職人の家庭はともすると親方から一月に何度も給金の前借りをしては、月末になると貰う給金はなくて、また前借りを繰り返すという悪循環にはまってしまう。

わが家はその悪循環のなかにいて、給料日から給料日までの生活のつなぎなどはできないでいた。

母は呉服屋から受けた和裁の仕立てを、毎日一枚づつ仕上げて家計の足しにしていたが、必要はいつだって実入りを上回っているのである。

母に前借りしてくるよう頼まれると、職場に出かけて思い悩んでは経営者に前借りを申し出る。駄目とはいわないが、親方は必ずなにかしら皮肉っぽく、

「またかね、一昨日行ったんじゃないかな」などというのである。 さなきだにプライドの高い僕の心は前借りを頼むたびにずたずたにぶった切れる。

ついに言い出せないで家に帰ってっしまうことも度重なるようになってくると、母はつらそうに

「今日はなんとか頼んでくれないと、もう限界なんだから。お前だけが頼りだから…」と合掌して懇願するのである。

わかるということとできるということとは、行動をうながすモチベーションがまったく異なる。いわなくてはならないという気持ちと、死んだって言うものかというような気持ちが交錯して分裂し爆発しそうだった。

いうべきかいわざるべきか、と機械を操作しながらハムレットのように悶え悩んでいたあの日、かたわらの廃材の山に足をかけて機械を覗き込み調整していたら、廃材の山が崩れて、不覚にも手をかけていた小さな送風機の穴に指が入って、右手の親指の第一関節の骨を機械の送風機の羽で飛ばしてしまうという怪我を負った。

べろんとむしり取られて半分の厚みになった親指からどくどくと血が吹き出すのを、他人事のように妙に冷静な気持ちで眺めながら、目の前が暗くかすんできて深い虚脱感が襲ってきた。わが精神の放浪がはじまったのはその頃からである。

十歳にもならぬ年から働きはじめて、もう十年も見通しのたたない暮らしを続けてきていて、まだまだこれが続いていくのだろうか。

病院で治療を受け、三角巾で腕をつるしながら職場にもどり、親方に前借を申し入れたら、僕から目をそむけるような痛ましい表情をしながらだまって貸してくれた。

この怪我のあとまもなく僕は夜間高校を退学して前衛劇団・大阪円形劇場月光会の研究生になって、昼間は指物師として働きながら夜には演劇をやるようになっていた。

劇団での僕は指物師の腕を買われて、裏方としては重宝される存在だった。

劇団の仕事を通じて、知己となった画家の河野芳夫さんが、僕の仕事ぶりを見ながら、あるとき額縁を作ってみないかと声をかけて業者を紹介してくれて、僕はデコラなどを使って作る家具などはやめてしまい、独立して額縁の工房を作ることにした。

額縁も木工の仕事であるが、熟練の指物師である立場からいえば、かるい余技のようなもので、指物師の意欲を満たしてくれるようなやりがいのある仕事とはいえなかったが、独立して生計をたてる立場になったことで、経営は苦しかったが、前借りの屈辱から解放されるようになったことがなにより嬉しかった。

二年ほど経ってから、月光会を退団して児童劇団に入り九州と四国を回ったりしたが、終ってから東大阪へ額縁工房を移し、母の死後、名前を一字とって光木工所とした。

アメリカの大統領JFKが暗殺されたのはその頃である。 宇宙中継のテレビ放送がはじまった第一報が、JFKの暗殺を報じたものだった。

僕はあの事件のあったころ、アメリカから輸入された木材を入手して自分で製材して小割りにし額縁に使っていた。

インセンスシーダーという、製材するといい匂いのするアメリカ杉だ。

日本では鉛筆に使われているなじみ深い木で、削ったときにはインセンスシーダーの良い香りがぷんとする。

この材木を機械で小割りして、インセンスシーダーの匂いのきつい微粉を何日も吸ったことが引き金になって、僕は喘息の発作が起きるようになったのである。

この喘息はほぼ10年ほど続いたが、喘息を克服するまで、食養

などさまざまな試行錯誤があって、世に楽健法を広め、天然酵母パンを広めるという意想外のところへと発展していったのである。喘息は前向きに人生を生きる母胎となったのである。

いままで僕は、天然酵母パン作りについていろいろ書いてきたが、病気を直すための食養生の一環だからなどとは思ったことはない。

なぜこのパンを作っているかと問われれば、パン作りは優雅で繊細な魂の遊びだからだと答えるだろう。

それ以外には醸しだしようのない本物のパンの、花ももたないような甘い香りに魅せられて始めた贅沢な遊びである。

醗酵が進んで究極の形に成った姿を醍醐というが、グルメの名に価する最高の贅沢な醍醐味をもっているパンはこの作り方しかないのだ。

それ以前は、もともとパンというものはパンの店とかスーパーで買ってくるもので、自分が作るなどということは考えたこともなかったのである。

それまでの僕は、市販のパンを食べるとひどい胸焼けが起きるので、決して口にしなかった。サツマイモとパンは、僕にとって胸焼けを起す元凶だった。

僕はそういうものを平気で食べるひとを見ると内心軽侮して眺めたものである。

しかし、天然酵母パンを自分で作るようになって、本物と偽物との歴然たる差に愕然とした。パンは本来このようなものであったという発見だった。

僕は食品微生物学の本をひもとき、十数万円もする顕微鏡を手に入れて、自分の作るパン酵母を実験培養もして研究し、生イーストやドライイーストなども顕微鏡で覗いて比較してみたが、化学的に培養されたイーストが、顕微鏡で覗くといかに粒ぞろいで美しく、天然酵母パンのイーストが、いかに不ぞろいの泡のようなものであるかということも知った。

しかしこの不ぞろいの酵母こそ自然の姿であり、それで作った天然酵母パンは食品の王者だと言える多くの長所をもっているのである。

僕は夢中になって研究に没頭し、やがてパン工房まで作ってしまったのであるが、間もなく三十年に手が届こうかという長い年月にわたる仕事になった。

人生には起伏が多い。他郷を流浪するようになって、生きることの困難から、父の血はいつも騒いでいて怒りっぽく、団欒のある家庭に恵まれなかったので、僕は映画のなかでも穏やかな両親に守られながら子供たちが食事している場面をみると、いまでも我知らず目頭が熱くなる。

空想のなかでさえも、窓ごしにいつもそんな家庭を眺めているのだ。 父がいて、母がいて、きょうだいたちがそこにいて。

子供のときに大人を見ながらかくあれかしと願ったような、花開いた人間に僕はなれたろうか。

満月の光を浴びて、疲れた足取りで東光寺への百段あまりの参道を登りながら、僕はそんなことを自問しつつ、マニス・ノアールの待つ庫裏へと向かう。


あとがき

この作品は鞠に寄稿した作品で、その後東光寺のホームページにアップしています。


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