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バーゲン会場は新宿にあるビルの三階だった。開場と同時になだれ込んだ琴美と瑛穂は、四時間後には両脇に大きな袋をぶら下げて満足していた。
「意外と春物もあったし、なかなか良かったね」
「最近は季節限定って服も少なくなったしね。あ、そうか、スーツになると違うのかな」
ブラウスやスカートなどはスーツやジャケットにも合わせられるようなものを選んだつもりだが、実際のところは着てみないとわからない。どうしても着慣れたカジュアルな服ばかりに目が行ってしまうので、仕事が始まったら着ていくものがないと言うことにもなりそうだ。
「雑誌の広告で一ヶ月着回しとかあったし、帰りに見ていこうかな……それにしても疲れたね」
外に出て一休みしようと、玄関フロアに降りたとき、琴美は意外な人物を見つけた。
「あれ?」
「どしたの、琴美」
「あそこに」
琴美の視線の先の人物も、琴美に気づいた。驚いたように目を瞠り、少し悩んでからこちらに向かって歩いてくる。
「こんなところで買い物か?」
怪訝そうに声を掛けてきたのは、紛れもなく立原技研代表取締役の白崎暁その人だった。今日もフレーム無しの細い眼鏡をかけて、コートと鞄を持っている。本日のスーツの色はチャコールグレーだ。
「こんにちは。白崎さんもバーゲンですか?」
「バーゲン?」
白崎は二人の荷物を見てから、周囲を見回した。
「やけに女の人が多いなとは思っていたが……こんなところで、バーゲンなんかやってるのか?」
「はあ。結構やってますけど」
ねえ、と瑛穂とうなずきあってみせると、白崎はますます腑に落ちない表情になった。
「普通、そういうのはデパートとか、店でやらないのか?」
「招待者を限定する様な場合は、こういう場所でやるんですよ」
琴美は瑛穂から招待の葉書を借りると、白崎に見せた。なるほど、と呟く白崎の視線がちらりと瑛穂に向けられる。
「あ、こっちは同じ大学の前原瑛穂です。経済学部なんです」
琴美が慌てて紹介すると、瑛穂は「初めまして」とお辞儀をした。
「こちらは白崎さん。前に話したよね。ウチのOBで――」
その先をなんと言ったらいいのか、琴美は迷った。まだ就職しているわけでもないので上司とも呼べない。
白崎と瑛穂がじっと見守る中、琴美は実に一分は考え込んでようやく言った。
「……そのうち雇い主になる人?」
「どうして疑問系なんだ?」
「なんで疑問系なのよ」
待ち構えていたような二人の突っ込みに、琴美は少なからずショックを受けていた。
「何も二人して同じ事言わなくても……」
「予想通りのこと言うからよ」
瑛穂があきれたように言う。白崎を見ると、無言のまま頷かれた。
「白崎さんは、今日はお仕事ですか?」
琴美がいじけてしまったので、瑛穂が尋ねた。
「代表取締役とは名ばかりの使い走りなんでね」
「四月からは琴美を思いきり使えますからがんばってください」
自虐的な回答に、瑛穂は必死で笑顔と場の空気を保った。正直に「いつになく自虐的ですね」と言いかけた琴美は、友人の機転に尊敬のまなざしを送る。
「そうだ、二人とも、もう買い物は済んだ、よな?」
大荷物を眺めて、白崎は確認する。
「はい、ちょうど帰るところでした」
「さすがにもう持てませんし」
ついでにいうと財布の中身も限界だ。
白崎は少し悩んでから言った。
「それじゃ済まないんだが、これからちょっとだけつきあってくれないか? 遠くじゃないから安心してくれ。ここの四階なんだ」
「あたしも一緒でいいんでしょうか? お仕事なんですよね?」
立原技研に就職予定の琴美と違って、瑛穂は完全に部外者だ。しかし白崎は構わないと首を振った。
「手、というか、目が多い方がいいんだ。バイト代って訳じゃないが、終わったらコーヒーくらいおごるよ」
「こんな目でよければいくらでもお貸ししますけど」
「荷物を置くところがあるなら手もお貸しできます」
もとより琴美に異存はないので、二人は白崎に続いてエレベータに逆戻りした。バーゲン終了までまだまだ時間があるので、エレベータ前は女性客でいっぱいだ。人混みから一歩下がった位置で、白崎はげっそりした様子で呟いた。
「何時までやってるんだ、バーゲン……」
「確か、十八時までだったような」
「今日は平日だから、人も少ない方だと思いますよ」
瑛穂が補足すると、白崎はさらに驚いていた。
「これで? というか、何日までやってるんだ?」
「日曜日までです」
「週末もやるのか……」
「むしろ稼ぎ時じゃないでしょうか?」
「……それもそうか」
未知の世界を垣間見た――白崎の全身がそう物語っていた。
「……男の人ってバーゲンとか行かないのかな」
「同じゼミの人に聞いたことあるけど、女性と同じに考えちゃいけないみたい」
こそこそ話していると、エレベータが降りてきた。乗り込んでからよく見ると、男性は白崎一人きりで、とても居心地が悪そうだ。琴美と瑛穂も、ブランドロゴの入った大きな袋を持っているので、第二回戦に行くと思われたようだ。
大型のエレベータはゆるゆると上昇して、三階に到着した。一斉に人が減って、三人だけになった。白崎がほっとしたように息を吐いた。
「あんなに人が入れるほど広かったか、ここは……」
「四階と五階もイベントスペースなんですね」
エレベータ内の表示によると、ビルは七階建てで、一階がエントランス、二階から五階までがイベントスペース、六階と七階はオフィスになっているようだ。
「ああ。四階と五階は今週は何もやってないそうだ」
エレベータを降りると、しんとした空気に出迎えられた。エレベータホールには照明が付いているが、イベントフロアの方は薄暗い。覗いてみると窓はあるが、すべてブラインドが降りている。が、開いていたとしても、あまり明るくはならないようだ。次のイベントの準備なのか、フロアいっぱいに簡易間仕切りが並んでいた。一枚の間仕切りの高さは、琴美の背丈と同じくらいだ。
白崎は左右を見て、フロアの照明スイッチを見つけた。すべてオンにすると、眩しいほどの明かりの下に、立体迷路のような光景が広がる。
「暖房のスイッチはなかったから、諦めてくれ」
「この後で温かいコーヒーとケーキが待っていると思えば耐えられます」
「……さりげなく増えてないか?」
「白崎さん、ここの机に荷物を置いておいてもいいでしょうか?」
入ってすぐのところに折りたたみテーブルがあるのを瑛穂が見つけた。白崎はうなずき、自分も鞄とコートを置いた。
「それにしてもすごい荷物だな」
テーブルにのせられた二人分の戦利品の山に、改めて圧倒されたようだ。
「今日は一ブランドだし、そんなに多くないですよ?」
「琴美はいつもより多いと思うけど……」
二人の会話に白崎は肩をすくめて、鞄の中から書類を取り出した。四つ折りの書類を広げると、そこでまた考え込む。横から覗き込むと、何かの配線図のようだった。電気や機械は専門外なので、全く分からない。
「机二つ分くらいかなあ。何のイベントやるんだろう」
一方、瑛穂は明るくなったフロアを見回していた。間仕切りは雑然と置かれているわけではなく、きちんとして列になっている。仕切りと仕切りの間は、先ほどの折りたたみテーブルなら、二つくらい並べられそうな幅が空けられていた。
「どっちかっていうと、企業面接を思い出さない?」
「こんな感じだったね。もうちょっと仕切りが低かったかも」
ようやく思い出の一つとなってくれた就活を振り返っていると、白崎が歩き出した。琴美と瑛穂は後ろからついて行く。
「白崎さん、私たちは何をすれば良いんでしょうか?」
「ん、ちょっと待ってくれ」
白崎は天井と手元の図面を見比べて、すり足で進んでいる。間仕切りにつま先が突き当たったところで図面をたたむと、今度は普通にフロアの奥へと進んでいく。琴美と瑛穂はアヒルの子のようにその後ろからついて行く。ちょうど入り口と対角線上の角まで来て、白崎は足を止めて真上を見上げた。
「……監視カメラ、ですか?」
見上げた先には天井と、ライトと、小さな監視カメラが見えた。
「少し前から不調が続いていて、点検を依頼されたんだ」
「白崎さんの会社は監視カメラの製造業ですか?」
瑛穂が尋ねると、白崎は首を横に振った。
「いや、カメラは作ってない。というか、監視カメラそのものにはあまり関係ないんだ」
「あ、もしかしてアレですか? 先月ストーブを回収したときの」
閃くままに尋ねると、白崎は困ったように微笑んだ。
「まあ、そんなところだ。あれと違って、今回は試験運用だけどな」
「あのシステムって、こんなカメラにも必要なんですか?」
詳しい話を聞いているわけでもないが、不良品が事故につながらないように自主回収しやすくするためのシステムだったと記憶している。監視カメラなら電子部品も内蔵しているだろうが、居場所のわかる機械には不要では、と琴美は疑問を投げた。
「ここのカメラ自体には特に必要じゃないな。ネットワークのテストに使わせてもらってるんだ」
詳しく聞くなよと、白崎は念を押すことを忘れない。
「すみません、あたしにはさっぱりわかりませんけど」
了解する琴美の横で、瑛穂は苛立っていた。口調は押さえたつもりだが、言葉の端々にトゲが生えてしまう。
「なんとなく社外秘の様な気もするので深くは聞きませんから、何をしたらいいのかだけ早く教えてください」
「ああ、悪かった。二人にはカメラに写る範囲を見て欲しいんだ」
「カメラに写る範囲って、フロア全部じゃないんですか?」
「いや、システムが組み込まれているカメラは五カ所だけなんだ。一階から五階まで同じ位置についているから、そのカメラが写す範囲だけを見てくれればいい」
白崎は書類を捲って二人の前に広げる。こちらの図面は、それぞれのカメラを中心に扇形が描かれている。エレベータホールも含めて全部で九台のカメラが設置されているようだ。そのうちに五つに、ペンでマークが付いていた。これが問題のカメラの位置だと言う。
「不調って、どんなふうに不調なんですか?」
「ノイズが入るらしい。画面が揺れるとか途切れるとかだな。取り外して点検しても本体には問題はなかったそうだから、他の外部要因がないかどうかを見て欲しい」
「具体的にどんな原因が考えられるんでしょうか?」
周りを見ろと言われても、何か目標になるものがないと無駄に歩き回ることになる。特に間仕切りだらけのこのフロアでは、まっすぐ歩くことも難しい。
「一番初歩的なのは、揺らしたり、衝撃を与えたりすることだな。あとは電波、とか。たぶん俺たちにわかるのはそのくらいだと思う」
「その……こんなこと言ったら失礼ですけど、その言い方だと原因を解明するつもりがあるようには聞こえないんですけど」
瑛穂が遠慮がちに言うと、白崎は肩をすくめた。
「実を言うと今日はただの下見だったんだ。俺にも全く見当が付かないから、最後は写真でも撮って帰ればいいかってね」
瑛穂が一緒にいることは、だから都合が良かったようだ。手分けして探すなら人数は多い方が良い。
「あ、じゃ、あたしたちも写メしておきましょうか。訳の分からない写真になりそうですけど」
間仕切りだらけのフロアを見回して、白崎は思案顔になる。
「そうだな……それっぽい何かがあったら、の方がいいか」
「何かって言われても……」
「カメラに何かできる何か、ですよねえ……」
監視カメラは、当然頭をぶつける心配もない位置に着いている。脚立でもない限り、手も届かない。
「全部同じ位置にあるなら、上下で何か影響しあっているって言うのはどうですか?」
共鳴や共振で異音がするのは良くある現象だ。白崎は少し考えて、瑛穂の意見を採用することにした。
「上の階も開けてもらってるから、前原さんだっけ。五階を見てきてくれないか? 鎮森さんはここを頼む。俺は三階の――」
「無理だと思います」
「やめた方がいいです」
異口同音に止められて、白崎は三階の異世界を思い出した。
「……一階と二階を見てくるよ。ついでに監視室にも寄ってくるから、二人とも見終わったらここに戻ってきてくれ」
「わかりました」
すぐそこに階段があったので、瑛穂は足音を響かせて上っていった。同じく階段で降りた白崎は、二階の踊り場で足を止めた。
「ほんとに偶然だよな……?」
二つ上のフロアにいる琴美には、その呟きは届かなかった。