第二章 2
深夜の町。闇がそこかしこに散らばって絢爛なその姿を霞ませる。不気味さともの悲しさを感じさせる町中を、数人の男たちが見回っていた。姿を消したラクトを、捜索しているのである。
「……っくそ」
当の本人。痛む体を無視して逃走を図ったラクトは、とある建物の一室その窓から、気配を殺しそれを覗き見ていた。無理をして、部屋を抜け出すまではよかったのだが、思っているよりも早くに搜索が開始され、町を抜けきることができなかったのだ。
現状ラクトにできるのは、この搜索が終わるのを待つことだけだった。もし万が一にも誰かに見つかれば、今のラクトは逃げ切ることなど到底できないのだ。見つからなければ大丈夫だろう。万が一を恐れるより、可能性に賭けるのもいいように思う。だが、己はエリナの行方を知る唯一の存在であり、また一度逃走している。見つかり、捕まれば、ベルガが二度と逃走などを許すわけがないのは明白だった。
「…………俺は」
ぽつり、呟く。ラクトはあの部屋での出来事を思い出す。嫌悪感を抱かずにはいられない、己の異常性を。
あの時。
ラクトは、ベルガに確かに真実を伝えていた。そしてそのまま、協力してくれと、そう締めくくるはずだった。ラクトには、エリナの後を追う方策が、一つだけあった。
だが、話を続ける途中に気がつくのだ。信じてもらえていないと。ベルガは、話に疑心を持っていると。
それは当然のことだ。龍が現れたなどと、それの背に乗る人間がいたなどとは、それほどに荒唐無稽なことなのだ。
けれど、ラクトは憤った。信じてもらいたかったのだ。ラクトの心には、期待があった。
話しながらも、思考は巡る。果たして、このまま話し終えて、協力してもらえるだろうか、と。答えは、否だった。
瞬間、決まる。なら、一人で行こうと。協力など不要だと。ベルガは、邪魔であると。
冷める。
冷める。
冷める。
心が全てを捨て去った。早く動きたいという衝動も、ベルガへの憤りも、全て。真っ白になった心のまま、ラクトは思い描いた通りに言葉を紡いだ。
ベルガを憤らせ、早々に部屋を去るようにするために。
ラクトは己が嫌いだった。時々、夢に見るのである。
己が、人のふりをしているだけの、ただの人形であるという夢を。
その度必死に否定するのだが、しかし未だラクトには、それを思い違いとすることは、できないでいた。
「行くか」
しばらく待って、人の行き来はなくなった。既に町の外に出てしまったと、そう判断したのだろう。ラクトはのそりと動き出す。感傷に浸るのは、いつでもできること。今は、動き時だった。
町を歩く。その出で立ちは、部屋を抜け出したその時とは変わっていた。上に羽織るのは同じく深い緑のもの。ただ、その中に着込むのは丈夫な旅衣で、腰には鞄が巻かれていた。ばかりか、帯びるは刃渡り40ほどの剣。脇に抱え込むのは毛布に厚着。肩にかける大きめの袋の中に入っているのは、適当な量の食べ物だった。
ラクトは、しばらく、どれほどの期間になるか分からないが、この町に戻るつもりはなかった。戻るその時は、エリナを救い出して、そののち。そう、決めていた。
「……なるようになってくれよ」
ラクトは歩きつつ唱える。それは懇願に近い。エリナの後を追う、その可能性。それには、多大な危険があった。あるいは失敗し、エリナの後を追えぬやもしれない。動くことに恐れはない。だが、もし万が一の失敗は、流石に恐れざるおえなかった。
やはり話すべきだったか。思い浮かぶその顔は、ベルガのもの。しかしラクトはすぐさま首を横に振った。
「エリナの親父を、死なせちまうわけにゃ、いかねぇよな」
町を出るその頃。誰に答えを求めることなく呟いた、その言葉。返事などあるはずもないそれに、しかし応える声が上がる。
「誰が、死ぬって?」
驚き振り向くラクトの瞳に映る姿。目の下に隈をこさえ、表情に力はなく、しかしそれでも強靭な意思を感じさせる、ベルガだった。
◇◆◇◆◇◆◇
部屋を出て、下に降りた時。妻に説教を受けるその直前に、ベルガは一人の男と話していた。
「頭は冷えたかよ」
そいつは出会い頭に、汲みたてでキンキンに冷えた井戸水をベルガにぶっかけ、嘲るような声でそんなことを宣った。
「そう怖い顔するなよ。まぁ正直なところどうでもいいんだが、あんたに一つ、伝えておこうかと思ってな。わざわざ、待っててやったんだからよ」
その男――クルゥニーは、そこまで言い切ると、途端雰囲気を変える。普段のそれとは程遠い、彼には似つかわしくない、誠実で真面目な雰囲気に。
「俺はあいつが嫌いだ」
あいつとは誰か。説明を求めるまでもない。クルゥニーは、それを理解した上で、そのまま話を続ける。
「けど、色々あってな、言っておく」
「あいつは、何かを企んでやがる」
クルゥニーは語った。ベルガの態度からラクトが有意義な話をしなかったのは理解していると。その上で、言うのだ。それはきっと偽りだと。その行動には、何かしらの意図があると。
「何故、そんなことが分かる?」
ベルガは問う。ベルガが知る限り、ラクトとクルゥニーの仲は良いとは程遠い。
クルゥニーは、途端に嫌そうな顔になった。
「まぁあれだ。喧嘩ってぇのは気持ちのぶつけ合いなのよ。相手が嫌ぇだとか、うぜぇだとか、気に食わねぇだとか、とかとかとかよぉ。そういう生々しい感情のぶつけ合いなんだよ。だからだろうなぁ、なんっとなくだが、分かんのさ。そいつの目ぇ見りゃ分かんのさ。そいつが何を思っているのか。なんとなぁくなんだけっどよぉ」
クルゥニーは、そこで言葉を切る。そして、既に歪んでいるその顔を、更に歪ませた。
「あれの心は折れちゃいねぇ。つか、折れるわけがねぇんだよ。例え敵わないと思えても、例えこれ以上ないほど惨めに負けても、あれの心が折れることなんて、絶対にねぇ。それが、テメェの大切なもののことなら、尚更、な」
クルゥニーは一息で言い切り、そこで大きく深呼吸。強く舌打ちをして呟くのは、ラクトを褒めるようなことを宣ったことへの嫌悪の感情である。やはりクルゥニーはラクトのことを心底嫌っていて、今こうして話をすることすらも、中々に堪えているようだった。
「っち、まぁそういうことだ。あぁそれと、俺ァは別にあいつの話を信じちゃいないし、あれの行いの邪魔ができればなんて思いも、まぁないとは言えねんだが、だから動いてるってわけでもねぇ」
「なら、どうして」
「…………」
ベルガの問いに、クルゥニーは押し黙る。言えない、というよりも、言いたくない、という風だった。だが、黙ったままでは埒があかぬと、クルゥニーは口を開いた。
「あ~そのなんだぁ、これはあんたの胸ん中にしまいこんどいて欲しいィんだがよぉ、俺はこの町が好きなのさ。この町が、ずっとこのまま在り続けてくれりゃ、なんて思ってる。っま、だからだろうなぁ。あの野郎と、その親父がどうしても気に入らねぇのは。あいつらは、この町の外にばかり目ぇ向けてやがる。俺があんたを尊敬してんのはよ、外に目ぇ向けながら、その目で町を見て支えようとし続けているからなのさ」
クルゥニーの語りは饒舌だ。一度堰を切ってしまえば、彼自身にも止められないようだった。
「けっどなぁ、俺の言う町は、んな野郎も含めちまってんのさ。あんたの娘救い出すためにあの野郎が死にやがんなら、ざまぁねぇなとは思うんだけどよぉ、それでも死なせたかねぇのさ。あれは無茶ができちまう。だから、ま支えの一つでもあった方がいんじゃねぇかと、そんな風に思ってよ」
「…………」
「まそういうことだ。あぁ、なら俺が、なんてのはなしだぜ? あれに協力するなんぞ、反吐が出る。流石に、俺はそこまで人間できちゃいねぇ」
かかか、とクルゥニーは笑った。既に、纏う雰囲気は普段のそれと同じとなっていた。
「あぁ~はっず。なぁに語っちまってんだろな俺は」
クルゥニーは去る。見ればその頬は朱色に染まっていた。普段強気で我を通すことばかりだが、心の吐露には慣れてはいないようだった。
「あぁ最後に一つ」
去り際。クルゥニーは言葉を残していった。
「どうなるかなんぞ分からねぇ。が、まこの町の外に出ることになるかもしれねぇ。あんたのことだ、気ィが引ける部分もあんだろう。だが、そうなったら任せときな。この町は俺が守ってやっからよ」
それから。
ベルガは妻から説教を受け、もどかしい時間を過ごす。もしかすれば、既に動いているのではないか。そんな予感がした。
説教を終え、妻がラクトの様子を見に行き、焦った声を上げた。ベルガは、すぐに悟る。やはり動いていたのだと。
もし仮に、クルゥニーの言葉がなければ。きっとベルガは頭に血が登ったままで、考えなしに駆け回っただろう。
だが、頭は冷え、思考を司る歯車は緩やかに動く。ラクトが何を望んでいるのか。何を最も恐るか。どういった状態か。
ベルガは声をかけて町の出入り口に人を立たせた。そしてその後に、町の中の捜索を始めた。
それで見つかるとは思っていなかった。だが、町の外へと出るのは阻止できたはずだった。
人があるうちは動かない。なら、いつ動く。
ベルガは時が流れるのを待った。皆が諦め、町に人がいなくなるその時を。
確信があったわけではなかった。だが、ベルガは山へと向かう方角の出口で待った。そして、見つける。
ふらりふらりと頼りないながら、着実に前へと踏み出すその姿を。
◇◆◇◆◇◆◇
「今更、隠し事はなしだ」
ラクトは観念するより他になかった。逃げ出せるわけもなく、そもそも仮に逃げられたとて、この場所で待たれていた時点で行先の検討はついているのだろう。なら、追いつかれるのもすぐのことだ。
ただ――。
「説明は、難しい。見たほうが、早い」
ラクトには、信じてもらえるように話せる自信がなかった。加えて、説明したくもなかった。
行先には危険があった。死の危険が。どうなるか、正直なところ五分と五分。できるならば、胸のうちに秘めておきたいというのが心情だった。
「けど、できれば連れて行きたくない」
「どうしてだ? 死ぬから、か」
「あぁ」
「…………」
ベルガは訝しむ。言葉の真偽を測っているようだった。だが、それも当然。ラクトは一度逃げ出した身。説明せず、自分勝手に動いた身の上だ。信頼は築くには難しく、崩すには易い。疑うのは、至極当然のことだ。
「だが、そこに行くことで、エリナを救うことが――いや、救うために動くことが、できるんだな?」
「多分、な。確証はないが、けどできるって思える」
「そうか……」
ラクトにはもはや待つしかない。ベルガがどう決断を下すのか。とはいえ、できるならばしたくないが、ベルガから逃げ出す術もあるにはある。事に備えて、ラクトはその手を腰の鞄に添わせた。
「なら……」
ラクトの言葉。クルゥニーの言葉。己が駆け回って得た少ない情報。なにより、己の心。一度瞳を閉じて、全てに思いを向ける。思慮は一瞬で終わった。もとより、必要などなかった。
「なら、構わない。連れて行け。それで全てが分かり、エリナを救うために動けるってんならな」
「いいのか?」
「っは」
ラクトの問いに、ベルガは笑った。ふざけると。その笑い声は、失笑によるものだった。
「良いも悪いもあるかよ。俺は死ぬ。エリナを助けるために動けないようじゃ、小さかろうとその可能性にすがりつけないようじゃ、俺は死ぬんだ。ここでお前の言葉を信じようと、信じまいと。行かないって選択肢は俺にない。ないんだよ」
ラクトには分からない。己と同じようにも感じたが、しかし違うと確信してしまう。なにが違うか分からない。
だが、それは尊いものだ。そう、思えた。
「……っち、分かったよ。言うよ、言うさ」
理解した。この男から逃げ出すのは不可能だと。秘めていた手段を用いても、追いつかれるとしか考えられなかった。
「あの山」
示す先は一つだけ。この町を繁栄に導き、現在はその行き着く先を明示するその場所。そして、ラクトとエリナ。二人にとって、特別な場所。
「三つある頂辺の、その一つ。真ん中のそこに、洞穴がある。見た感じ人の手によるものだったし、あんたなら知ってるんじゃないのか?」
ベルガは答えない。だが、その答えは是であった。ベルガは知っていた。その洞穴のことを。
「まぁ、いいか。とにかく、そこに行けば全部分かる。俺は、今からそこに行く。ただ、あんたも来るっていうのなら、一つ用意してきてくれ」
「? なにをだ」
「厚着。毛布。なんでもいいから、とにかく暖かくできるもの」
「意図が分からないな」
「だから、行けば分かるって。とにかく、俺は先に行ってるから――って、道が分からないか。いやでも、俺は早く動けないし……」
「いや」
山の道は入り組んでいる。その上、そのほとんどが荒れ果てて、加えて今は深夜。世界は暗く、熟知でもしていなければ辿るのは困難だ。ベルガの知識は数十年も前のもの。断言するには頼りない。けれどその場所になら行ける。そこだけには。
「先に言っていろ。すぐに追いつく」
もうラクトの言葉を疑うことを止めていた。クルゥニーほど自信を持てはしないが、ベルガも人の心を見抜くのは、目の奥に灯る炎を感じ取ることはできた。
ベルガは駆け、去っていく。ラクトはその後ろ姿に背を向けて、山に向かって歩みを進めた。
ベルガは駆けながら思う。
これは偶然か、必然か。
運命とは真実存在するのだろうかと、そんなことを思うのだった。