第二章 1
ベルガ・フィールド。
彼はこの町で生まれ、そして育った。その年齢は44。まだ幼き頃、仕事も満足にこなせぬほどの頃ではあるが、動石採掘の最後を見届けた世代の、最後の一人。他の者がこの町に見切りをつける中、足掻き、必死にこの町を支え続けていた。
身長は2mを軽く超え。四肢は大木のように太い。顔つきは厳しく。向き合えば並大抵の胆力では縮こまってしまうだろう。
彼の表情は、常に力に満ちていた。失敗しようとも後悔はせず。歩みは確実に前へと進み、また進められるだけの力と心を彼は持っていたのだ。
そんな彼の表情は、しかしこの日は疲労によって曇っていた。それは心と体、両方を意味する。
ここは町の南に進んだ先にある山。この地には普段、誰も立ち入らない。それはベルガもまた同じで、この場所の土を踏むのは、三日前のその時が、実に二十年以上もの間を開けてのことだった。
「…………っくそ!」
三日前。その日、娘であるエリナが家へと戻ることはなかった。日が暮れるよりも遅くに帰ることは、最近になって増えていた。だから妻は、大丈夫だと、ベルガを諌めた。だが、ベルガはその日に限り、嫌な予感が胸の内を刺さるのを、勘違いと思うことができなかった。
ベルガは町の顔役である。その上、本気で町を良くしようとして動いていることは誰もが知るところ。娘であるエリナも、普段の行いから町の皆から好感を抱かれていた。
その賜物か。妙に必死な表情で町を駆け巡るベルガから事情を聞いた町の皆は、総出でエリナを捜索することになった。
ベルガは、エリナがラクトと共に、日常的に廃れた山へと登っていたことを知っていた。町の内部、及びその周辺を町の皆に任せると、ベルガは山へと向かった。
《オー・ルゥエ》に登るのは実に二十年以上も間をあけてのこと。だが、他の誰が忘れても、ベルガは道の一つ一つを未だに覚えていた。記憶ではなく、心に。無数に、網目のように広がる道を、重複させることなく、考えるまでもなくかけることができた。
そうして。
ベルガは見つける。知らねば道だと分からぬだろう、そんな使われるわけもないその場所で、血にまみれた地面に横たわる、生気の薄れたラクトの姿を。
その周囲にエリナの姿はなかった。だが、ラクトがこんな姿になり、そしてエリナが帰らない。それが無関係には思えなかった。
人攫い、快楽殺人者、それとも山賊の類いか。分からぬが、何かがあったのだろう。
後を追わなければ。そう思った。だが、生気が薄れていたとはいえ、ラクトには息があった。放っておけば、そのまま生気の全てが抜けきってしまいそうなほど、弱々しい息が。
ぐっと奥歯を噛み締める。目を細め、ぐるりぐるりと辺りを見渡した。
簡単に見つかるような痕跡はなし。音も聞こえず、気配もない。無闇に探したとて、見つかるとは限らない。なにより、もしかしればこれはエリナが帰らぬこととは無関係かも知れない。下に降りれば町の皆が見つけてくれているかもしれぬ。
ベルガは決断した。ラクトを背負い、山を駆け下りたのだった。
だが、結果として町を下りたベルガを待っていたのは、エリナは見つからないという現実だった。
ラクトは酷い怪我だった。隣町から呼んだ医者が言うには、幸いにして命に別状はないとのこと。動けるようになるのは相当に先だろうが、熱が冷めれば目を覚ますだろう。そんな言葉を残し、去っていった。ただ、これはベルガしか聞かされていないことであるが、拳に関しては医者の腕ではどうしようもなく、二度と使い物にならないかもしれない可能性もあるらしい。
そのままラクトは眠り続けた。世話はベルガの妻が。もう三日目にもなるというのに、目を覚ます気配は依然として感じられないとのことだった。
医療の知識はベルガにない。弱った者の看病も、妻に優れるはずもない。ベルガはその間、己にできることを続けていた。
まずはラクトを見つけたその場所を。次に周辺の町へ出向いて情報を求め、戻ってくるや町の周辺で痕跡を捜す。一睡とてせずに動き続け、だが、成果は何一つとしてなかった。途方に暮れたベルガは、気が付けばこの場所へと戻ってきていた。
「…………」
既に入念に調べてある。今更、何かが見つかるわけもない。それでも、ベルガは止まることができなかった。
闇雲に、闇雲に。その先に何かがあることを願い、ひたすらに手を伸ばす。
「ベルガさ~ん!」
空が茜色に染まる。とうとうまた一日が終わってしまう、そんな頃。名を呼ぶ声に、ベルガは我に返った。
見れば、下の方から宿屋の元主人、クルゥニーの父が手を振って登ってきていた。限界に近づく体に鞭打って、ベルガは降った。
宿屋の元主人は息も絶え絶えといった様子だった。何をそんなに慌ててなのか。ベルガは、淡い希望を抱く。
だが、元主人の言葉はそれを裏切るもの。同時に、希望を生むものでもあった。
「ラクトの坊主が、目ぇ覚ましましたよ!」
ベルガは目を見開いた。生気が全身に行き渡る。体力が湧き上がり、鉛と錯覚するほどだった足が軽やかに前に出る。
ベルガは山を降る。
残る希望。事情を知るであろうラクトに、話を聞くために。
「くたばれや!」
ごっ、と鈍い音。同時に地響き。ベルガがラクトの眠る、いや眠っていたその部屋に辿りつたその時、怒声と共に音が響く。ベルガはその声の主を知っていた。どうなっているか容易に想像でき、ドアノブに手をかける。
だが、ベルガが握るよりも早く、ドアノブは回った。荒々しく開け放たれたそこに立っていたのは、苛立ちで頬の血管を浮かび上がらせたクルゥニーだった。
「あぁ? って、ベルガの旦那かよ」
用は済んだ。クルゥニーは、ベルガを一瞥だけして、そのまま無言で去った。何が、と問おうかとも思ったが、必要ないかとベルガはその後ろ姿を見送る。
「まだ意識はあるか?」
入るよりも早く。見るまでもなくその姿を想像し、ベルガは声をかける。その相手など決まっている。
「……………」
返事はない。いや、できないのか。そこにはラクトがいた。ベッドの上、体のほとんどを包帯に巻いて、弱々しい姿を晒していた。だが、その中で一箇所。頬の部分の包帯だけが破れている。何を示すかは明白だ。
「なら、十分だ」
ベルガは激情に突き動かされていた。それは己でも理解していた。だが、寝不足によってか、今のベルガにそれを止めることはできないでいた。足が前に出る。ずん、ずんと。そうしてラクトの目の前に、横たわるベッドのすぐそばまで迫り、ベルガは、ゆっくりと口を開いた。
「なにがあった。事実だけを話せ。起こったことをそのまま話せ。それ以外では、口を開くな」
ベルガは問う。教えろと。高圧的に、威圧的に。拒否権などないとは、嘘偽りは許さぬとは、言葉と共にベルガが纏うその雰囲気が物語っていた。
ラクトは押し黙る。クルゥニーとの間になにがあったのかをベルガは知らない。もしかすれば、そこで事実を話し辛くする何かがあったのかもしれない。だが、今のベルガには、そんな些細な間でさえも、酷く気に障った。どうでもよかった。他の何よりも、話を聞くことそれこそが大事だった。そう思えた。
重く、苦しい静寂。耐え切れなくなったのか、諦めたのか、覚悟を決めたのか。しばらくして、ラクトは語る。
馬鹿馬鹿しく、荒唐無稽。
嘘偽りとしか思えず、思うのが正常な、そんな話を。
ベルガはそれでも、話を黙って聴き続けた。だが、最後の一言。
もうどうしようもない。
その言葉に、もはや感情の抑えは効かなくなっていた。
「……ふざけているのか?」
ベルガは唸る。その言葉は、必死に絞り出しているようだった。内に押し込んでいた感情が、扉を壊して吹き出すのを、止めることなどできようはずもなかった。
「ふざけてんのかテメェはァ!」
右の拳が壁に叩きつけられた。部屋が揺れる。上質で頑丈な造りなはずの壁には、大きな窪みが出来上がっていた。
「……ふざけてなんか、いねぇよ」
ラクトの視線は下を向き、言葉に力も思いも感じることはできなかった。ベルガの憤りは更に増す。
「テメェのそのふざけた話を真実だとしよう。嘘だとしか思えねぇが、真実だとしてやるよ。あぁムカつくぜ、テメェはエリナを、あいつをみすみす行かしちまったんだからな! だが、それ以上に俺は今の言葉に怒りを覚える! どうしようもないだと!? お前は、あいつがどうなったっていいってのか!?」
再び部屋が揺れた。窪みは深さを増し、ぽとりぽとりと欠片が零れ落ちる。
「……だからって、どうしようもないだろ! 相手は、空を飛ぶ馬鹿でかい化け物に、そいつを従えちまうような野郎だぞ。…………冷静になって考えてみりゃ、できることなんてあるわけがない。俺は、あんたとは違うんだ」
「――っ!」
三度。前二つとは比べ物にならないほどの轟音が響く。
「……どうやら、話す気はないようだな。なら、もういい」
ぱたぱたぱた。下の方から音がする。ラクトの世話は、ベルガの妻が行っていた。立て続けに鳴る音に、流石にまずいと思い止めに来たようだ。ベルガの妻も、エリナのことは酷く心配していた。だが、喧嘩ごとはそれでも好まず、決して譲らない心を持っていた。
そのこともあり、もうこれ以上ここにいても無意味だろうと、ベルガは部屋を去った。
三度もベルガの怒りをぶつけられたその壁は、とうとう貫通し穴があいていた。
「……すまねぇな」
去りゆくベルガの背中に、そんな言葉がかけられる。しかし、その声はとても小さく、まして怒り心頭のベルガには、聞き取ることなどできようはずもなかった。
時が流れる。
ベルガの説教を終えた、その妻ローリアがラクトの眠るはずの部屋に足を踏み入れる。
ローリアは、そこで息を飲んで己が夫を呼びに駆け出した。
そこはただの部屋と化していた。眠るはずの怪我人の姿はなく、開け放たれた窓には、いつの間にこさえたのか、布団を破き繋ぎ合わせたロープが下へと伸びていた。壁に掛けてあった深い緑の上着も、また同じく。