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第一章 終

 その身の丈は目測で190を超えていた。甲冑の分を差し引いたとて、その中に潜む何者かは、身長180後半の恵まれた体格の持ち主なのだということは、疑いの余地のないことだ。

 その声から察するに、年齢は20代後半から三十代前後。性別は男。どこか優男を連想させるような、透明度の高い声だった。だが、それは生来故であり、その実態がただの優男であるわけがないというのは、隙のない立ち姿と、声に含まれる威圧感から容易に理解できること。

 加えて、ラクトは他の何よりも早くに、一つ悟っていたことがあった。それは普段から、何事においても劣るということを感じていたラクト故のことだった。エリナもまた、考えでは理解していたのだが、その本質には、程遠い。

 劣る。その事実。身体能力ばかりの話ではない。踏み越えてきた場数、状況判断能力。この状況下で有意義性を放つような、そんな能力の全てが、圧倒的に劣っている。ラクトでは、この男には叶わない。その覆らぬ差を、ラクトは何よりも理解してしまっていた。

「……逃げるぞ」

 口からそんな言葉が出たのは、ほとんど意識の外であった。言い終わり、ラクト本人がその言葉に驚く。しかし実際、逃げる以外に方策がないことが事実で、それを否定することを、喉の奥に飲み込んだ。

「でも……」

 エリナが、咄嗟に反論の弁を口にしようとする。驚愕し、平静とは程遠い心境ながら、流石の頭の回転の速さである。ただ、こういった状況に関しては、ラクトの方が早かった。なにも優れていたからではない。ただ単に、慣れていたのだ。

「大丈夫だ、俺が隙をつくる」

 その言葉は虚栄。

 ただでさえ、ラクトはこの騎士に叶わない。加えて、その背後に待ち構えるのは、人の力では到底及ばぬ龍だ。ただの一介の、大人にも届いていない子供であるラクトに、この二つの注意を逸らす術など、早々に思いつくはずがなかった。

「……ま、なるようになるさ」

 ラクトの言葉を虚栄を見破り、尚も反論しようとするエリナに、ラクトは咄嗟に言葉を被せる。まるで、己に言い聞かせるかのように。本人すらも、エリナのために言葉を紡いだのか、はたまた己を奮い立たせるためなのかは、分からなかった。


「さて」


 二人が小声でそんなやり取りをしていると、騎士が動いた。

 一歩、恐れを知らぬ堂々とした動きで踏み出した。ラクトはぐっと身構える。ほとんど反射的に、エリナを後ろの方へと押しやっていた。

 ラクトはただの少年だ。どこにでもいると言えば、多少の語弊はあるであろうが、それでも特筆するほど異端な人生を歩んではいなかった。そんな少年に、殺気などと咄嗟に出せるはずがない。怒りで震えている時ならばまだしも、逃げ出しそうな己に鞭打ち恐怖に立ち向かっている、そんな状況では。

 ただ、それでもラクトの意志の硬さは本物だった。それが、その光を称えるその瞳が、なにかを相手に伝えたのか。その時、龍がぐるると低く唸った。

 心臓がどくんと跳ね上がる。二人の頬を、汗が伝った。もはや後はない。悟るラクトは、瞬時に飛び出そうかと足に力を込める。

 だが。

「待て」

 身をかがめ、今にも飛び立とうとする龍を、騎士が制した。誰にも従わぬはずの龍は、それに従い唸り声をやめ元の姿勢に戻る。なんのこともないような、自然なその行い。だが、それはこの上なく異常な光景だった。

「必要ない」

 騎士は後ろを振り向くことなく、たったその二言のみ言い放つと、また歩み始めた。

 一足、二足、三足……。

 騎士と、ラクトにエリナ。両者の距離は、次第次第に狭まっていく。張り詰められた緊張感が、ぐつりぐつりと煮詰められていった。

「手荒な真似をするつもりはない。……抵抗しなければ、の話だがな」

 騎士は語る。その一言一言が、ラクトには振り抜かれる刃のような錯覚を覚えていた。この状態で集中力を保つのは、長くは無理だった。

「走れ! 全力で、ひたすら走り抜け!」

 ラクトは飛び出す。拳を握り固め、己が出せる最大の力を込めて振り抜いた。

「ちょっ――」

 エリナが止める暇もなかった。気がついたその時には、ラクトは騎士との攻防を繰り広げていた。エリナに武道の心得はない。だがそれでも、ラクトが押されているのは明白だった。



 ラクトは恐れを押し殺し、ひたすらに拳を打ち出した。確かに恵まれた才能など持ち合わせていなかったが、それでもと磨き続けたその拳は、素人ながらに大人を悶絶させるに足る威力は持ち合わせていた。速力もまた十分。鎧の上からなのだから、決定的なダメージは初めから期待してはいない。だが、衝撃ばかりは消しきれぬだろうと、拳が痛むのも顧みずに打ち付け続けた。

 だが、騎士はそのことごとくを、その場から一歩動くことすらなく、必要最小限の動きのみで、届く直前その瞬間に両腕で弾き返していた。ラクトの必死の攻撃は、防御のもと水泡にきされ、さらには拳は遠目でもはっきり分かるほどに紅く染まっていった。



「っ!」

 ラクトの表情に余裕はない。その行動が決死であるということを、エリナは瞬時に悟る。思巡は刹那に終わった。エリナは、ラクトに背を向けて、走り出した。

 見捨てた訳ではない。ラクトのその叫びに従ったわけでもない。エリナは現実的な判断のもと、この場を離れることを選択していた。

 騎士がエリナを狙っているのは、言葉から明白だ。ならば、最悪はラクトの目の前で捕まってしまうこと。ラクトが決して退かぬことを、エリナは知っている。もしそうなれば、無事ではない怪我を負うまで、ラクトは騎士に歯向かい続けるだろう。だが、もし仮にエリナが逃げ押せることができたなら、どうだろう。もう一度探し出すのも手間。ラクトには、この時エリナの普段の所在を知っているという価値が生まれる。悪い方に転がっても、殺されるようなことはないだろうと、エリナは判断した。

 時間があればなにかできるだろう。己の父に現状を告げ協力を仰ぐだけでも、多少の違いも出てくる。その可能性に賭け、エリナは山を凄まじい速度で下った。


「ほう」

 ラクトの攻撃に大した反応も見せなかった騎士だが、このエリナの行動には、またその速力に初めて感嘆の声を漏らした。ラクトは、それに酷く苛立ちを覚えた。

 ――今見るべきは、俺だろうがよ!

 既に拳に力は篭らなくなっていた。痛みはあまりに刺々しく、理性を穿ってくる。強く噛み締めた奥歯からは血が滴り、未だ一撃の反撃すら受けていないというのに、口の中は鉄の味で埋め尽くされていた。

「っくそ!」

 分かっていたことだった。己がただの凡夫な少年なのだということを、ラクトは随分と前に悟っている。それでも、悔しかった。無力を呪った。

 つい、攻撃が大ぶりになる。今まで意識を向けていたのかも怪しかったというのに、騎士はその一瞬を見極めカウンターをラクトの顔に打ち込んで、その体を軽々と吹き飛ばした。

「っぶぁあ!」

 傾斜ということも相まって、ラクトは見事に転がる。転がり転がり、先に駆け出したエリナすらも追い越して、更に。そうしてようやっと、ラクトの身の丈を優に超える大岩に、鈍い音を立てて激突し、止まった。

「その勇気には敬意を。その心力には賞賛を送ろう。だがな、今は邪魔だ。そこで、眠っていろ」

 ラクトはぴくりとも動かない。転がる途中で切ったのか、はたまた激突の衝撃からなのか。その四肢からは紅い鮮血が滴った。

「リーア!」

 エリナは叫ぶ。ラクトの真名を。叫び、ラクトに駆け寄る。その手のひらを握り込み、何度も、何度も名を呼んだ。だが、それでもラクトは、反応を示しはしなかった。

「ちょっと! ねぇ起きて!」

 エリナの頭に嫌な思いがよぎる。

 死。

 その単語が、べたりと張り付いて離れない。目頭が、じんわりと熱を帯びだした。

「安心しろ。死んではいない」

 そんなエリナの心中を察してか、意外にも騎士がそう告げる。エリナは騎士を睨みつけた。その言葉は真実なのかと、敵意を隠さず向けて。

「なるほど鍛錬は中々に重ねているらしい。ほとんど意識などなかっただろうに、頭ばかりは庇っていた。骨の一つや二つは折れたやもしれぬが、おそらく死にはすまい」

 騎士はゆっくりと下る。エリナがラクトの元へと駆け寄ったのを見て、もう逃げないだろうと確信したのだ。仮に逃げ出そうとしても、それを無視してラクトの方へと歩めば、その足は必ず止まる。そう、思えた。

「さて、もう一度言おう。来てもらうぞ、女」

 そしてその考えは、正しかった。

 エリナには、もう逃げ出すという考えは頭の中から消えていた。動いているならばまだ騙しようはある。だが、こうも傷つき、痛々しいまでの姿を目の当たりにして、ラクトの無事を思うその心を騙すのは、もはやエリナにはできなかった。できようはずがなかった。

「……大人しくついていけば、もう、ラクトには手を出しませんか」

 握りこんだその手に、命の温もりをエリナは感じていた。ラクトは死んでいない。騎士の言葉が、少なからずの事実を含んでいることを認め、エリナは、覚悟を決めるようにぐっと瞳を閉じた。

「――――」

手で目頭を拭ってから、気丈な仮面を無理やり被り、エリナは騎士と向かい合う。

「約束しよう。この言葉を信じるか、信じないかは、お前次第だがな」

 騎士は、エリナの問いに是と答えた。

「……そうですか」

 お前次第。しかし実際のところ、エリナには信用する他できることがない。恐怖を押さえ込み、一歩、騎士のもとへと足を進めた。



「…………」

 待てよ。

そう、口にしたつもりだった。だが、声は口から出ることはなく、代わりに、ひゅーひゅーと細い呼吸の音のみが漏れ出ていた。

 待てよ。

 ラクトは強く念じ、再び声を張り上げんと喉に力を込める。だが、出るのはやはり吐息のみ。走る痛みが意識を闇に沈めようとするのを堪えるのが精一杯で、それ以上は不可能だった。

 待てよ。待てよ。待てよ待ちやがれよ。

 視界は紅く染まっていた。それがなぜなのか、ラクトには分からないし、どうでもよかった。


 ただ、

 己に背を向けて騎士のもとへと歩み寄っていく、

 何よりも大切なその少女を、

止めたかった。


「っ――ぐあぁああぁ!」

 唸り声と共にラクトは立ち上がる。だが、立ち上がっただけ。それだけでも十分に奇跡。動くことはもちろん、声を出すことだって、あと一言が限界だった。

「――――――――」

 エリナがなにかを叫んでいるのは分かった。だが、耳鳴りが酷く、何を言っているのかラクトには聞こえない。

「    」

 今助ける。そう、口にしたかった。けれどそれは不可能だ。もはや自身が使い物にならないことを、ラクトが一番理解できていた。

 だから、代わりに告げる。

「俺を信じろ」

 それだけを。

 己の想い全てを乗せて。

 限界が訪れた。どれだけ想おうと、抗うことができない。

 意識は闇の中へと沈んでいく。


『さようなら』


 去り際。まるで今生の別れを告げるような、エリナがラクトにそっと囁いた、その言葉。

 それを否定できたかどうか。

 最後にラクトの頭にあったのは、そんなことであった。


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