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第一章 2

 昼を少し過ぎてからのこと。

 空を雲が覆った。それは薄く、しかし隙間なく広がり、太陽の光を大地に素直に届かせることはない。

 時に反して世界は薄暗い。山の麓、山道の入口でエリナを待つラクトは、一雨来るかと心配して、耳を澄ました。

「……そう上手くはいかない、か」

 しかし聞こえてくるのは風の音ばかり。どちらの方に、どのくらいの強さで吹き抜けているのか。それは理解できるのだが、どれくらいすれば雨が降るのかは、分からなかった。

 こうなればラクトにできることなどなにもない。せいぜいが、降るなら少し、可能ならば降らないでくれと祈ることくらいだ。

 望み通りに世界が動かぬとは、年月経れば誰でも知ること。もしも降り出すことでもあろうなら、今日は山に登るのを中止するべきだろうか。しかしそれをエリナはよしとしないだろう。さてはて、その場合にはどうやって説得しよう。

 待つばかり。やることなどなにもないラクトは、そんなことに考えを巡らし、時間を刻々過ごしていく。

 ラクトにエリナ。二人は、今日も山に登ることを決めていた。ただ、登るのなら色々と準備が要る。ラクトは現在町に近づけない。そのため、エリナが必要物を取りに町へと戻り、こうなるに至っていた。

「…………覚悟を固めておけ、か。覚悟なら、もう固まってるよ」

 しばらくして、同じことばかり考えているのに飽きてくると、朝のエリナの言葉が頭をよぎった。それが嘘だとはまだ伝えられておらず、ラクトの頭の中には、怒り心頭、厳しい顔つきを更に歪め、鬼の形相となったエリナの父の顔があった。

 エリナの父は、エリナのことを深く愛している。その性格から、事細かに干渉することなどはしないものの、もし万が一にでもエリナが危険な目にあったら、きっと相手がどんな存在でさえ、完膚なきまでに叩きのめすのは目に見えていた。

今回のことであれば、実際危険なことがあったとは、まだ知らないはずだ。だが、それでも日がどっぷりと暮れるまで連れ歩いたということになっているのだから、その怒りの具合は相当なものだろう。

 正直なところ、怖い。エリナに頼みなんとかなだめてもらおうかとも、何度か考えてしまった。

 しかし、同時に思うのだ。

 これは良い機会なのかもしれないと。エリナはきっと気をきかせてどこかへと行く。つまりはエリナの父と、誰に疑われることもなく、怒声が鳴り響こうと不審に思われることもない、理想的な状況で二人きりになれるのだ。元々、抱える秘密を伝えるつもりでいた。確かに恐ろしいが、この町の中で一番正しい判断ができ、信頼できる人間など、他にはいなかった。

「なるようにするんだ。俺の力で」

 ただ、少し懸念もある。秘密を告白することは大丈夫だとして、その先。その秘密に関わることなのだが、それだけは、エリナの父にさえ、伝えるのは慎重にならなければならない。可能ならば、胸の内に秘めたまま墓場まで持って行ってしまいたいとさえ、ラクトは思っていた。

 上手く誤魔化せるかどうか。結局は、己の話術にかかってくる。怒られるのとはまた別の重圧に、ラクトは深く、深く溜息を吐いた。

「おーい!」

 と、そんな時。

 遠くの方から声が聞こえた。ふと見れば、町の入口から影が歩み寄ってくる。その姿は小さく、また声も小さく、とてもではないが誰なのかなど判別するのは辛い。しかしラクトには断言できた。

 あれはエリナで間違いない、と。

 例え声が風にかき消されたとしても。その姿が雨によって滲んでも。きっと間違うことはないだろう。エリナはもはや覚えていないかもしれないが、それでも確かに守ると、護ると、今より幼き頃に約束した大切な、大切な存在なのだから。

「ごめんなさい、待った?」

「いや、全然。ってか、遅いなんぞ言える身分じゃねぇだろ、俺は。全然としか答えられねぇんだから、わざわざ聞くなよ」

 エリナは大きめのリュックを背負っていた。中身が何かはおおよそ検討が付く。だから、それが中々の重量なのだろうとは、簡単に想像がついた。

 正直なところ頬が引きつる。

 昨日の疲労は抜けきっていない。筋肉痛もまたしかりで、身体の節々も痛むままだ。体調は万全には程遠い。これでは昨日の二の舞も、またありえる話である。

 だが、だがである。

 それでも、口にせずにはいられなかった。

「そら、荷物貸せい。俺が持つ」

 奪い取るように強引に荷物を引き受けて、そうしてラクトは山を登り出す。こうでもしなければ、エリナはラクトの身を案じて荷物など任せてくれるはずがないことを、誰よりも理解できていたからだった。

 先頭をラクトが、続いてエリナ。二人は、何を知ることもなく山を登りだした。



「雨、降りそうね」

 中腹まで登った頃。空模様が、いよいよもって怪しくなってきた。この季節、豪雨はありえぬだろうが、しかし足元がぬかるむのはよろしくない。

「急ぐ、か」

 ラクトは踏み込む力を強める。骨が軋む音がしたような気がしたが、遅くなって降られるよりはマシと、気のせいなのだと思い込む。

「そうね」

 エリナはラクトの後をついていた。自身が先をゆけば、それに合わせるべくラクトは無理をする。そのことを、理解していたからだ。だが、ラクトが早く進む気があり、なおかつ弱音を吐かぬのというのなら、その配慮もいらぬだろう。そう判断して、緩めていた歩を、一気に正常に戻した。

 岩の上を、軽やかにエリナは跳ねていく。ラクトは、その姿に苦虫を噛み潰したかのような表情を取る。

 普段のこと。ラクトの体調が万全で、エリナもまた同じというコンディションの元での話だ。二人は山を登るのだが、先頭を行くのはいつもエリナだった。元々、ラクトとは別方向で活発的な部分を持っていたから、体力があるのは頷ける話。始めこそそうだったが、ラクトも鍛えている身の上で、いつまで経っても追いつけぬことには、首を傾げると共に、嫉妬のような感情も抱いていた。

 だから、先を行かれるのはあまり気分のいい話ではなかった。

「ほら、はやく!」

「あぁ、待ってろすぐ追いついてやんよ!」

 初動が遅れた分、エリナとラクトの差はだいぶ開いた。追いつくのは中々に至難の業であるが、初めから諦めるラクトでもない。

ラクトのペースは現在でも疲労を考えれば十二分に速い。普段と比べても、遜色ないほどだ。だが、そこから更にペースを速める。帰りのことなどは頭にない。ただこの一時、負けているという現実に、ラクトは耐えることができなかった。

 エリナは笑い、ラクトは苦々しくしかし明るい表情で山を登っていく。いつもとなんの変哲がないわけでもないが、それでも異常と呼べることなど無し。


 そいつが、空から舞い降りてくるまでは。


「――っな!」

 初めに気がついたのはラクトだった。それはまさしく、才能の賜物であろう。空から、考えられぬほどに巨大ななにかが迫ってくるのを、目視するまでもなく感じ取った。

 すぐさま振り向く。そして、絶句する。

「コイツァ……っ」

 それのことをラクトは知っていた。目で捉えたその瞬間、それが何であるのか理解した。

 それは巨大な翼を持っていた。その体躯は人の背丈など遠く及ばず。表皮は重厚な雰囲気を放つ朱色の鱗で覆われていた。牙はあらゆるものを貫きそうなほど鋭く。爪は薙ぎ払ってきた有象無象で汚れていた。

 放つ雰囲気は絶対的な死。それが圧倒的捕食者であることを、本能が嫌が応でも理解していた。


 それの名は龍。古来より伝承にてその姿は伝えられ、恐れ、畏れられきた存在。

 それを狩る者は英雄で。

 故にそれ以外の何者であろうとそれの歩みは止められず。

 絶対的で圧倒的。抗うことなどできようはずもない、天災にまで例えられる人類の、大地の民の天敵であった。


「――――っ」

 ラクトは声を発することができない。どころか、足の指の一本でさえ、己の意思では動いてくれはしなかった。

 思考は停止した。蛇に睨まれると、蛙は動くことができなくなるという。ラクトの現状は正しくそれだった。

 龍が迫る。牙、爪が、その瞳が。無情に死を告げている。

 瞼を閉じることさえ許されなかった。ラクトは、迫り来るその姿を瞳に焼き付け続けた。

 普通なら、このままがその瞬間まで、思考が蘇ることなどないだろう。それはどんな屈強な兵士であろうと同じであろうし、なにも特別情けないことではない。

 それが必定。

 だが。

 ――エリナ。

 ラクトの思考は、龍が面前、視界をその体躯で埋め尽くすまでになって、軋みながらも動き出した。絶対的な絶望の中に浮かんだ一筋の光を頼りに、思考はこれまでにないほどに加速する。

 ――エリナ!

 ラクトの後方にエリナはいた。気配を感じ取り後ろを振り向いて。最後に瞳に映したその姿には、気づいている素振りなどなかった。

 逃げ出しているなど現実逃避の希望的観測だ。未だ気づいていない可能性も高い。

 なにができるとも思わなかった。ラクトは己をよく知っている。まともに殴り合えば少し年上の男にすら勝てぬ程に無力だとは、何度だって痛感してきたことだ。

 だが、なにもせぬままではいられなかった。

 恐怖による肉体の支配は強固だ。簡単に抜け出せるとはラクトも思わない。

 しかしだ。

 ――己は生来から得意ではなかったか。いいや、得意などという陳腐な言葉で済ませれる話ではない。そう、まさしく特異であったではないか。

 朱色の龍は、ラクトを襲いはしなかった。ラクトの上空すれすれを、力強い羽ばたきで持って通過した。

 烈風が吹き荒れる。それはまさしく嵐のそれ。ただ棒のように立つことしかできなかった身体は倒れゆく。

 ――それにだ。己は知っていただろう。確かに知っていただろう。その存在を、龍のことを。なら大丈夫だ。動け、動け、動け、動け…………。

 風が最後と強く吹き抜けた。踏ん張りがきかず、とうとう決定的にラクトの身体は傾いた。

 地面が迫る。

 刹那。

「――ぁああぁあああ!」

 足が前に出た。体重の全てが襲い掛かり、骨が悲鳴を上げる。

 だが、関係ない。

 今すべきは、振り向くこと。それ以外にあるはずがない。

 痛みは狂いそうな程に鋭く。恐怖は泣きそうな程に濃い。

 ラクトは生来から感情をどこか遠くに感じていた。だが、この時ばかりは別だった。それらはラクトの全てを簡単に染め上げ、ラクトは初めて心の底から怯えていた。


 だが、やはり関係がないのだ。


「エリナ!」

 ラクトは跳ねるように己の身体の向きを変え、跳ぶ。振り向いたその先には、怯えた表情のエリナがいた。無事だと確認したその瞬間、全身の力の全てが抜けそうになるが、気合でそれを堪える。そして勢いを殺すことなく、エリナに迫り、その腕を引き、抱きとめた。

「え、な、えぇ!」

 エリナはパニックに陥っているようだった。現状のなにも理解できず、ただラクトの拘束から逃れようともがく。

 ラクトはそれに気がつかない。気が付く余裕がない。その目は瞬きすらもせずに、ただ眼前の光景を捉え続けた。

 龍はラクトの予想の全てと異なる行動を取っていた。龍はラクトばかりかエリナにすらも見向きせず、その上空を飛び抜けて、少しばかり上の方に、悠々と降り立ったのだ。


 龍は荘厳な雰囲気を放ち、なんの意思も読み取れぬ真紅の瞳で二人の少年少女を見下ろす。

 方や少女は少年の腕に抱かれ、方や少年は鋼の意思で龍に相対す。


 それは神話にでも出てきそうな一場面であった。だが、唯一違いがあるとすれば、その結末が確定していることか。どんな奇跡が起ころうと、二人の小さな命には、抗う術はなに一つとして存在してはいなかった。

 だが。

 ――ガシャリ。

 そこで一つの異常が生じる。ありえぬ出来事。少なくとも、少年少女――ラクトとエリナは、想像すらしなかった。

 いや、それは違った。エリナにラクトは、何度か想像したことがあった。だが、それはありえぬだろうと、その可能性を破棄していた。

 目を見開きその光景を見届けるラクトと、息を飲みそれ以上の驚嘆を示すエリナ。


 腰には剣。その全身は鋼の甲冑で包まれていた。

 二人の視線のその先には、騎士がいた。

 誰にも従わず、誰も屈させることもできず、誰に懐くこともなく。

 絶対の存在たる龍。その騎士は、その背中より出でて大地に降り立った。


「説明したとて無駄だろう。だから端的に伝えさせてもらう。来てもらうぞ、そこの女」


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