第一章 1
太陽が空に上る。差し込む朝日で目を覚まし、ラクトは大きく伸びをした。目の前に見える景色に一瞬驚くが、すぐさま昨夜のことを思い出し、落ち着きを取り戻す。しばらくぼけっと寝起きの余韻に浸り、何をすることもなく時間を浪費するが、意識の覚醒を感じ取るや立ち上がって、そして、飛んだ。
ラクトは昔から色々と悪さをしてきた。どれもこれも、子供が行う些細な事ではあるのだが、エリナの父たる熊親父は、厳としてそれらを叱り続けていた。
エリナの父は、ラクトの呼称が示すとおりに巨躯を誇る。ばかりか、仕事柄肉付きもよく、その上で顔も厳しい。性格も悪しきを嫌い善を良しとし、悪しきには率先して立ち向かう豪胆なもの。説教の程は中々のもので、次第次第に耐えられなくなったラクトは逃亡することが多くなった。
とはいえ、顔役の一人たるエリナの父から、問題児たるラクトを匿ってくれる者など誰もいるはずがない。町中に隠れ続けるなど不可能で、回数を重ねていくうちに、外に、外にと逃げ出すようになっていった。
ラクトの父は冒険家。ラクトはそれに憧れていて、いつしか己もと夢見ている。
そんな彼が、ただ隠れ続けることに飽きたのは、そう遅い話ではない。どうせならより快適に、と、最初は寝床を整えるところから始まった。次は、ならばより快適な場所とは、と場所探し。そして最後に行き着いたのが、己だけの快適な場所の制作。
つまるところの、秘密基地の制作である。
繰り返すうちに技量はどんどんと高まっていく。洞穴の入口を木の板で塞いだだけの、なんともかななものを原点として、次は岩と岩の隙間に屋根と壁を設けてやり、お次は窪地に簡単なテントを。そして最後に行き着いたのは、木の上だった。
数ある秘密基地の中、もっとも完成度の高い場所。それがここだった。
そこは木の上。太く逞しい木の枝に板を通して床として、同じ要領で屋根を。丈夫な布切れを張り巡らせて壁とした、雨風を防げ、そうそうに見つかることもないであろう自信作である。床や屋根と同じ要領で棚なんかも作り上げ、実際に小屋と名乗るに足りない部分は多いのだが、それでも十三の少年が作り上げたにしては、立派すぎるつくりであった。
これといって、決まった出入りの方法はない。元々ラクトは木登りが得意であったから、幹をよじ登れば済む話。だからこそ、ラクトは飛んだのだ。
「っ――っや!」
落下の途中、木の幹をしっかりと掴み込む。ずしりと走る衝撃に、奥の歯を噛み締めて耐えた。勢いが前方に傾いた頃合でその力を緩め、また落下する。
顔の横を、小さな枝が引っ掻いた。普通はありえぬことに、落下の最中、ラクトの体にはほとんどなにも当たることがなかった。まるでラクトを通すため、木が邪魔の全てを取り除いているかのように。
しかし、実際のところそれは当然だ。なんせ、こんなふうに飛び出すのも、今日ばかりの話ではない。始めは細かな枝の中に突っ込んで、勢いが止まってしまうこともあった。だが、何度も何度も繰り返すうちに、それらの数は減っていき、そしてとうとう、道が出来上がるまでになっていたのだ。
両の足で枝に着地する。太い枝は、みしりと軋む音を上げどその衝撃の全てを吸収してラクトを支える。これで最後と両の足に力を込め、ラクトは幹の方めがけて跳んだ。
青々とした視界が晴れたその瞬間、己から見て真横に伸びる一本の枝が現れる。それは一点のみ皮が剥がれていた。両の手に力を込め、そこを掴む。生まれた遠心力と、落下の力と。枝はぐぐぐとたわんだが、見事にそれに耐え切った。
宙ぶらり。あとは幹の方に渡り降りるだけとなったラクトは、ふうと息を吐く。
と。
「まだ、そんなことしてたわけ?」
ラクトがにやりと頬を緩めたその瞬間、真下の方から声がした。その声は、紛れもなくエリナのもの。普段なら、澄んだその声は気持ちを落ち着かせてくれるのだが、しかしこの瞬間のみはそうもいなかない。あわや落下と、すんでのところで手に力を入れ直し、咄嗟のことで跳ね上がった心臓を宥めつつ、ラクトは下の方を睨みつけた。
「……うっせ、いいだろ別に」
ラクト本人は隠したつもりだが、しかしその顔は赤い。見ることはできなかったが、多分上手くいったことにほくそ笑んでいたのだろうな、とエリナは悟り、つい笑う。それが気に入らなかったからか、木の幹を伝い地に足を下ろしたラクトの顔は、苦々しいものとなっていた。
「……なんだよ」
「別に?」
言及したとて、機嫌を悪くすれど、認めることはないだろう。エリナは、訳知り顔で、黙すことにした。
「なんだよっ!」
「だから、なんにもないって。朝も早いのに、そう怒鳴らないでよ」
森の中に音はない。今日は無風で木の葉が揺られることもなく、生き物たちはまだ潜み、しんとした静けさがそこにはあった。
大きな声は、その静けさを貫く。静寂という秩序は揺れ動き、ざわり、と森の奥でなにかが蠢いたような気がした。
それは鳥か、獣か、虫なのか。ラクトに分かろうはずもない。ただ、なにかが潜んでいるやも知れぬという圧迫感に、つと口とつぐんだ。
「……で、どうしたんだよ?」
しばらく気配を探り、それからラクトは口を開いた。その声は、先程までとは比べ物にならぬほどに小さい。聞き取るに十分ではあるのだが、しかし先程までの威勢は何処へやら。
ラクトは町の中では、恐れ知らずとして名が通っている。しかしその心は確かに子供のそれであり、怖いものなど無論として存在していた。
ラクトの場合は、見えないもの。エリナは昔、その口からそれを聞いていた。曰く、「見えれば対応の仕方は幾らでもある。けど、見えないんじゃどうにでもきない。だから怖い」とのこと。
しかしエリナが怖いと思うのは、目に見える方だった。例えばの話、どこからか弓で狙われているのと、目の前に刃を突き立てられているの。二つを比べれば、後者の方が圧倒的に怖いと、エリナはそう思うのだが、ラクトの場合は前者を選ぶ。ふと思い、真剣な目つきでラクトを見た。
「お父さんからの伝言。『覚悟は固めておけ』だって」
果たしてどう反応するのやら。しかし言葉にしてから、エリナははたと気が付く。
これは、どちらになるのだろうか。
父の脅威をラクトは今までに何度も体感している。この言葉だけで父がどういった心境なのか想像はつくだろうし、どういう結末を辿るのか、思いを馳せるのはそう難しい話ではない。
しかしかといって、父の驚異は目に見える訳でもない。これは、目に見えぬ恐怖とも言えるのではなかろうか。
言葉にした事実は変わらない。今更思い悩んだとて、時は既に遅しというもの。
「なるように……なってくれるのを願うしかない、な」
覚悟はしていたのか。ラクトの表情はそれほど崩れることはなかった。ただ、包む雰囲気は先ほどとは比べ物にならないほどに重く、意気消沈の程はよく分かる。
さてはて、これはどちらになるのやら。
頭の隅でそんなことを考えながら、エリナは歩いた。その言葉が嘘であると、そう告げるのをつい忘れて。
ラクトはそのあとを、どうしたものかとぶつくさ呟きつつ、歩くのだった。
これはありふれた朝の一場面。
いつまでも続くと思われた、しかし無情にも続かぬ最後の平穏。
世界を動かす歯車は、既に軋み、回り始めていた。
歯車は大きく、勝手に回る。
世界に住まう小さき歯車は、その力に抗う術を、持ち得てはいない。