序章 2
動石。それは、不思議な力を秘めた鉱石の総称である。
その不思議な力というのは、人間の体内――というよりも、生物全般に宿る、生命力に反応して、この世に溢れるあらゆる現象を発生、または操ることができるというもの。別名で、大地の恵み、とも。これは、普通の鉱石類と同じく地中から産出されることと、加えてその産出される場所というのが生命力に満ち満ちていることから、こう呼ばれるに至っている。
動石の産出場所は酷く限られている。加えて、質や大きさによって左右されるものの、発揮される力というのは人間単一では手が届かぬ場所にある。
動石は、かなりの高価な値段で取引されていた。それこそ、そう、まさしくそれによる利益に依存してしまうのもおかしくないような、それほどに莫大な益を生んだ。
だが、前述したように、動石とは生命力に満ち満ちた場所にこそ存在する。
山を掘り返せば、選別設備を整えようものなら、そしてなにより、それが延々続くのなら。
生命力は失われる。
元々あったものが消える訳ではないから、しばらくは保つだろう。けれど、一度失われた生命力はそうそう簡単に戻るものではない。なにより、生命力などとはあやふやなもの。もし――あるいは――そんな言葉が残る限り、欲に取り憑かれた人間に足を止めるなどという決断はできようはずもない。結果、取り返しのつかない状態になって、ようやく現状を認めるに至るのが、動石が産出される場所の常であった。
「遅いわよ、ほら、早く!」
ここは、町の南にそびえる山である。
肌は灰色。岩と砂利ばかり。緑はとんと見受けられず、生き物の気配すらもない。上から下までそればかりの、ぺんぺん草一本も見受けられない殺風景で荒廃とした姿を晒していた。
山の名前は《オー・ルゥエ》。名の由来は、神話の時代の豊穣の神。なんとも皮肉な名前だが、しかしその昔こそは、まさしくと得心のいく姿だったとは古くを知る者のみの言葉。そう、こここそが、まさしく動石が産出された場所であり、町の発展の要であり、そしてその成れの果て、閉塞し廃れていく町の未来を如実に示す場所だった。
「ちょっ……待っ…………」
全盛期、つまりは動石の産出が盛んだった頃。効率を高めるために山にはいくつもの道が整備された。三つの山が溶け合ったかのように、この山は成る。道は複数整えられ、山頂へと通じるものだけは、今でも歩くのに苦がない程度には手入れが施されていた。しかし、そんな珍妙な地形となっているものだから、普通では使わなくなったものも中にはあった。
山全体ですら散々なのだ。その道が、もはや他の景色と一体化し知らねば判別も苦しむようになっているのは、別段不思議な話でもない。
「……っくそ」
ラクトに、それにエリナ。二人は、そんな文字通り道なき道を進んでいた。目指すは町から見て山の裏側に当たる部分。ちょうど、山頂に次ぐ、二つ目の山の麓あたりである。
「大丈夫?」
先行するのはエリナだった。それに随分と遅れて、ラクトが続く。エリナの顔色ははつらつとし、疲れている様子はそう見えない。対してラクトの方はといえば、遅れているにも関わらず、その歩みは亀であるというのに、息は絶え絶え表情は暗く、今にも倒れそうなほどに疲弊していた。
「大丈夫だ!」
ラクトは叫ぶ。その言葉は虚栄だ。しかし、そう叫ばなければ、折れそうな心を支えることはできそうになかった。ラクトは、その姿が示す通りに、下手をすればそれ以上に、心の底から疲弊していた。日頃身体を鍛えていて、感覚的に理解していた。これは明日になれば随分と痛むと。今の自分に必要なのは、なによりもまず休息である、と。
「だから……ペースを上げんぞ。ほれ、さっさと前進めい、進めい」
しかし、ラクトはそんなことを口に出すことはないどころか、努めて平静を装い歩みを進める。もっとも、脂汗が頬を伝い、無理やり上げた口角は引きつっている。強がっているとは誰でも分かることだろうし、付き合いの長いエリナならば尚の事。
エリナは、深く深く溜息を吐き、しかし何を言うでもなく、言葉に従ってペースを上げた。呆れた数は果てしない。それこそ、生まれて過ごした日数に匹敵するやも知れぬ。もう随分と慣れたこと。こんな状況で、気遣って足を遅めることにこそラクトが怒りを示すのは、考えるまでもなく思いつく。
ラクトとエリナ。二人は、俗に幼馴染と呼ばれる間柄である。
町は住人の流出に伴い、とりわけ若い世代が随分と減った。同じくらいの年頃はそれだけで貴重な存在で、同年代ともなれば更に。二人が互いのことを意識しだすのは、ほとんど必然のことだった。
悪戯好きで負けず嫌い、いつも騒動の渦中にいるような問題児たるラクト。
品行方正、学舎の講師として幼子たちと優しく笑いあう優等生たるエリナ。
凹凸に見えながら、しかし互い心に秘めた曲がらぬ芯に共感を覚えたからか、それともやはり凹凸故に上手く噛み合ったからなのか。
始めに幾度か衝突すれど、繰り返すうちにそれも減り、いつの間にやら共にいる時間が増えていき、今では互いが互いに、心の深くまで理解し合えるほどの仲となっていた。二人にとって大事な存在と聞かれてまず思いつくのは、両親に並び、互いのこととまでなっていたのだった。
世の一般では、これは恋と、あるいは愛と、そう呼ぶのやも知れぬ。男女の仲だ。町の住人の中には、そのとおりに揶揄する者もいた。だから、ラクトも、エリナも、意識したことはあった。
けれど。
ラクトは今年で16で、エリナもまた同じ。己の心を正確に把握するにはまだまだ足らず、把握できたとてそれがなんなのか理解する知識もない。
親友止まり。
現状は、それのみだ。時が流れれば、あるいはどうなるか。本人たちにも、まだ分からない。ただ、今があまりに居心地良すぎて、深く考えることをお互いにしないのだから、このままなにもないのであれば、進展するのは随分と先の話になるであろう。
「……くっそ」
ラクトは唾を吐き捨てる。腰を下ろしてしまいたい。歩くのをやめてしまいたい。横になって寝っ転がりたい。そんな欲求も、まるごと体外に放出してしまうかのように。
ラクトは理解していた。強がっていることなどバレている。休もうと口に出せば、きっとエリナは肯定することだろう。だが、その言葉は喉の奥で燻るばかりで、口から出ることはない。
それは意地。
笑われるかもしれないが、しかしラクトは、エリナにだけは、弱音を吐くのをよしとはしていなかった。男としての、漢としての、自尊心がそれを拒絶していた。
「あんにゃろ……め」
ラクトは少しばかり前のことを思い返す。この疲労感の原因。あの、クルゥニーとの一連の騒動について。
きっかけは、父親を侮蔑されたからだった。加えて、ある言葉を吐き出したから。
ラクトの父は冒険家である。己の足で各地様々な場所を見て回り、その体験談を本に纏めて出版したり、その経験から旅道具の開発及び改良行ったり、他には珍品の売買などで、その生計を立てていた。
閉塞し、残るは現状のままを維持しようという連中ばかりのこの町で、ラクトの父はまさしく異端の存在だった。だが、ラクトばかりは、そんな父を尊敬していた。いつか己も、そんなことを夢見ていた。
ラクトにとって、父は憧れだったのだ。
そんな父は、しかし今はいない。
もう三年も前になる。目的地を特に告げることもなく、ふらりとどこかへ行ったきり、帰ってこなかったのだ。始めの方こそ、別に珍しいことでもないと誰も気に留めることはなかったのだが、一年経ち、便りの一つもなければ、とうとう嫌な現実がにじりよってくる。
旅先で死んだのではないか。
疑いは次第に確信へ。今でも生存を信じているのは、ラクトと、それとエリナくらいのもの。とはいえ、それはほとんど強がりで、心の内の奥底では、悟ってしまっている部分もあるのだが。
だからこそ、ラクトは嫌った。
死んだ。
言葉にすると、それが現実になりそうで。
クルゥニーは、その言葉を放ってしまったのだ。ラクトの血液は一気に湧き上がり、そうして、殴るに至った。
ラクトは少し変わっている。それは思想がどうのこうのというよりも、本質的な部分を指す。
ラクトは理性と感情が、生まれながらに離別していた。怒りで燃え上がろうと、悲しみに暮れようと、頭は冷静に考えを巡らせることが、先天的にできた。
この時。クルゥニーを殴ったその瞬間も、いやその直前。怒りの感情が沸騰したその瞬間も、ラクトの脳裏は冷静に思考を巡らせていた。
ここで殴りかかったとて、果たして勝機はあるのだろうか。なにか、なにか、と。
ラクトはクルゥニーに劣っている。身体能力はもちろんのこと、喧嘩の場数だって、その場の流れを掴むセンスだって、届くものは何一つない。このまま殴りかかり、そして喧嘩するとなれば、敗北は必至だ。
それは嫌だった。
父を馬鹿にされた。父の生きている可能性を否定された。この怒りを晴らさないでいることは、絶対に無理だった。そのためには、勝利しかない。
そしてこの時、ラクトの脳裏にはある光景が思い浮かんだ。
それは朝に町を歩いていた時のこと。ラクトは偶然目にしていた。細い路地に並ぶ窓の一つ。そこに木箱が置かれていることを。なによりも、その時に『聞いて』いた。それが、今日の昼頃に落ちてくるのだろうということを。
それはラクトの持つ才能だった。『万物の声を聞く』という、大地の民に稀に備わる才能。
『万物の声を聞く』。これについては、この才能については、不明な点は多い。なにせこれは能力ではない。
例えば足が早いなら他と比べればその差は一目瞭然だ。視力が良いというのなら遥か遠くのものを見せてそれを判別させればいい。
能力であれば測る方法は様々ある。だが、これはあくまで才能なのである。結果たる『万物の声を聞く』ことは同じでも、個人個人によって、その感覚というのが違ってくるのだ。
他の者がどういったようにして『万物の声を聞く』というのか。研究はされたようで、この才能を持ち得た者の証言を集めた本もあるらしい。とはいえ、ラクト自身はそこまで関心を示しておらず、一度も目にしたことはないのだが。
ラクトの場合は、文字通りに『聞こえた』。万物――風や炎といった現象や、岩や水などの無生物、虫や鳥といった生物に至るまで。言葉ではない、だがそれらがこれからどうなるのか、なんとなく耳に入ってくるのである。
利用すれば勝てるかもしれない。タイミングはおおよそ分かる。ならば、木箱の下に誘導すれば。
勝利の図案が頭の中で完成した。その瞬間のことである。ラクトの肉体が動き出したのは。真実、怒りを覚えたのは。
そうして事は進み出す。クルゥニーを殴り飛ばし、加えて挑発することで後を追うよう仕向けた。もっとも、クルゥニーは殴られてそのままでいられる性格ではないから、挑発の必要があったか微妙だが。とにもかくにも、ラクトの考え通りに事は進みだしたのだった。
しかし全てが計画通りとはいかない。クルゥニーの体力が予想以上にあったこと、沸騰のしかたが尋常ではなかったこと。その二つの誤算が、ラクトを追い詰めることになる。
ある程度の余裕をもって木箱の元へと辿り着けるものとばかり考えていたが、逃走劇は余裕皆無の全力疾走。追いかけるクルゥニーのあまりの剣幕に必要以上の力を足に込めてしまい、疲労感は普段のそれとは比べ物にならず。挙句、最後の最後には捕まってしまい、地面に叩きつけられる始末であった。
幸運だったのは、投げ込まれたその先が目的の路地だったこと。加えて、この時に壁に激突しなかったこと。
もし万が一にも他の場所で捕まっていれば。もう一度逃げ出せたかはかなり微妙なところ。いや、現実を見れば不可能と考えるしかない。
もし万が一にも壁に激突していれば。すぐさま起き上がるのは不可能だ。ラクトが回復するまで、クルゥニーが待ってくれるとも思えない。追撃を加えられ、そしてそのまま。
どちらにしても、クルゥニーの気が済むまで一方的に殴られ続けることになっただろう。
「……なぁんであの野郎、いつも暇そうにしてるくせ、足が前より早くなってんだよ」
結果として、ラクトはクルゥニーを打ち倒し、今こうして山を上っている。だが、もらったダメージは深刻で、身体の軋みは鳴り止むことがない。結果普段なら横に並べるというのに、エリナに大きく遅れをとり、ふらりふらりと情けない姿を晒すはめとなっていた。
加えて、怒りがふつふつと湧き上がる事実が一つ。勝利が、完全なる偶然の元にあるということ。それが、嫌でも認めてしまうほど明白であることだった。
「なんか言った?」
「なんに、もっ!」
腰ほどの高さの岩を乗り越えつつ誤魔化すのは、それが八つ当たりにほかならないから。ラクトにも分かっているのだ。喧嘩を初めて、それで痛めつけられて、それを怒るのはあまりに愚かしいと。ただ、どうしても湧いてくる怒りに、愚痴を止めるのは難しかった。
「てか、そろそろきつくなってきたと思わないか」
「……なにが?」
「誤魔化すなよ」
自分のことは棚に上げる。言ってから気がついて、ラクトはちょっと頬をかいた。
「あいつのこと、だよ」
ラクトとエリナ。二人には秘密があった。誰にも言えない、父にも伝えていない秘密が。
「今だって、まぁ俺が馬鹿だから、動石があるかもしれないから探してる、なんてアホらしい説明でなんとかなってっけど、あの熊親父、妙に勘が良いから不審に思われるのもそう遠くない話だろうぜ。つか、不審に思ってるけど行動に移すまでじゃない、から、知る必要性を感じる、に変わる、が正確なんだろうけど。今の言い訳だって、きっと信じちゃいねぇ。ただ、それでも重要性を、まだ感じてはいないんだろうな」
一度動石が採れなくなった場所で、再び動石が採れるなど、滅多にあることではない。あったとして、相当に質の悪い、二束三文にもならぬ紛い物程度であろう。そんなもの集めたところで、なにができる訳でもない。要はそんな行いは、子供の遊びと同じ。一度や二度、成果がでないからとムキになったとして一年。それほどでも続ければ、既に相当に頭がおかしい。
ラクトにエリナ。二人は、そんな苦しい言い訳で、既に二年近く、この山に出入りしていた。はみだし者なラクトはどこ吹く風とやっているが、流石にエリナの方はそう簡単にはいかない。父の疑いは日毎に増して、最近にもなると怪訝的な目を向けられるまでになっていた。実の所を言えば、ラクトはエリナの父――ラクトの呼称で熊親父に、釘を刺されていた。「ガキの遊びなら構わない。だが、もし万が一にでも危険なことをしてるんなら、その時は分かっているな」と。
「分かってる」
エリナは馬鹿ではない。現状の理解は、ラクトよりも出来ていた。だが、だからこそ、何もできない。何をするべきか考えて、思いついて、結果どうなるか想像すれば、いつも悪い方に流れてしまう。なんとか適当な言い訳を取り繕って、今を続ける以外に、良いと思える可能性を見つけられずにいた。
「けど、どうにもできないでしょ」
「ま、それもそなんだけど」
山を随分と登った。二人は既に山の裏側にまで来ていた。ここまで来ると、本当に人の手入れとは無縁となる。これまで以上に歩きにくそうな行程に、ラクトは深々と溜息を吐く。そして、頭の後ろをかいた。エリナは、そんな何の変哲もないラクトの行動に、ぴくりと反応する。
「けど、このままじゃいられないってのも、どうにもできねぇことじゃねぇのよ」
ラクトは、なにか秘め事をすると、それについてふと思うところがあると、頭の後ろをかく癖がある。普段から馬鹿正直で通っているし、そもそも町の大人たちにたいしてそこまで真摯に話すことなど希だから、この癖を知るのはエリナくらいのものではあるが。
「…………」
エリナは、しかし問おうとする言葉を飲み込んだ。言って、どうなることでもない。ラクトの頑固さは、エリナも認めるところ。己もまた頑固者だと自覚しているからこそ、それはよく分かる。一度秘めると決めたのならば、簡単には口を割ることはないだろう。
「……すまん悪かった」
ラクトは視線をどこか遠くに向けていた。その瞳に映るのは、決意。山を随分と登ったものだから、背景はまばらに雲の散った青い空。その姿は、エリナの目に少し大人びて見えていた。
「いいわよ、別に」
首が動くのを感じとり、目線が合うよりも先に前へと向き直す。そっぽを向いているかのように歩むエリナに、ラクトは少しばかり怪訝に思いつつも、己の口癖を口にする。
「ま、なるようになる、か」
ただ、いつもと違う点が一つ。
「……なるように、するしかないわな」
小さく、決してエリナに聞かれないように、ラクトの決意そのものの言葉が、最後にそっと付け加えられた。