第二章 3 終
「ったく、威勢のいいこと言っておいてこれか」
「仕方ねぇだろ。こっちゃ怪我人なんだ」
登山は終わりに近づいていた。荷物を取りに戻ったベルガだが、ラクトに追いつくのに時間は有さなかった。ちんたらと進むラクトにしびれを切らし、担ぎ上げたのは中腹辺りから。それからここまで。自身も荷物を背負っているというのに、それを感じさせぬほどの勢いで、ベルガは山を登った。
「ほら、ここだろう」
「あぁ、そうだ」
辿り着く。ぽっかりと空いた穴を前にして、ラクトはようやっと地面に下ろされた。
「……何もないはず、なんだがな」
「ん? なんだって」
「独り言だ。それより、ここには何がある? どうやって、エリナを捜す?」
ここまで来ておいて、嘘などあるわけがない。隠す気があるのなら、見当違いの場所を告げていたはずだ。だが、ラクトの表情は暗い。それでも黙し続けることもできずに、歯切れ悪く言った。
「……あるってより、いる、だ」
「いる?」
「あぁ、いる」
ある、と、いる。その違いは、考えれば簡単に思いつく。ベルガは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
ラクトは、歩き出す。穴の中へと向かって。
「初めに言っとく。俺は、危険だってことは知っていた。や、違うな。知った、だ」
穴の中は妙な臭いで満ちていた。
「始めは、知らなかった。けど、知った時には、もう遅かったんだ。放っとくなんて、できなくなってた」
ベルガの返事など聞いていない。ラクトは、一人で勝手に言葉を紡ぐ。ベルガは思う。まるで子供のそれだと。怒られる前に、言い訳を並べてしまう。そんな子供じみた行いに見えていた。ただ、一つ違うとすれば、それがただの言い訳ではないこと。ベルガは、気が済むまで語らせるように決めた。
「謝っても、許してくれるなんて思わねぇ。けど、今は、今だけは文句を言わねぇでくれ。この幸運に、動けることの幸福を、喜んでくれ」
「まぁ、無茶なんだけどよぉ」
その光景は、ベルガの脳裏から生涯消えることはなかった。消せなかった。刻まれてしまった。
そこにいたのはなんなのか。
理解こそできなかったが、しかし理解する。圧倒的恐怖が、それは絶対の強者であるのだということを、悟らせた。
鋭い眼光。闇の中でも鈍く煌く鱗。踏みしだく岩を切り裂く爪。どのような防具すら貫きそうな牙。それは伝説に現れる怪物の姿に似通っていた。
「おいおいおいおいっ!」
圧倒されるベルガを他所に、ラクトはそれに近づく。そして叫ぶ。
「テメェが俺を嫌ってんのは知ってる。テメェが俺に従わねぇってのも知ってる。けど、今だけは力を貸してくれ! エリナを助けてぇんだ! 守れなかった不甲斐ない俺だけどよぉ、次こそは絶対に負けねぇ! だから頼む。エリナを助けるそのために、いやエリナを助けるチャンスを、俺にも与えてくれ!」
それは低く唸り声を上げ、その顔をラクトに近づける。改めて大きさを実感する。顔は、ラクトの身の丈とほとんど同じだった。しばらく互いを睨みつけあっていたかと思えば、龍は小さく唸り、洞穴の外へと歩き出した。
「お、おいっ!」
ベルガは咄嗟に止めようとする。あれが、外に出ていいものでないことだけは、確かだった。
だが、それをラクトが諌めた。
「大丈夫だ。背中に乗せてくれるってよ」
「お前、言葉が分かるのか?」
「ん? ん~まぁそのあれだぁ、俺はこれでも、『万物の声を聞く』才能を持ってるからなぁ」
聞きたいことは山ほどあった。いったいいつから。この山へと来ていたのはこれを育てるためだったのか。そもそもこれはなんだ。だが、あまりに多すぎて、何を聞けばいいのか分からない。言葉を失うベルガに、ラクトは苦い笑みを浮かべた。
「全部答えるよ。だから、とにかく今は俺を信じてくれ」
外に進む。ベルガは納得できなかったが、しかし同時に納得した。なるほど、町の皆を説得してここへと連れてこぬわけだ。どうなるか、想像できぬがよくないことだけは確実だった。
「嘘はなしだぞ!」
ここまでくれば、もう腹をくくるほかない。理解はまったく追いついていない。ただ、あれがエリナを追うための、つまりはここへと来た目的なのだとは察することができた。半ばやけくそに、ベルガはラクトの後ろを追った。
月明かりの下に、伝説が姿を現す。白銀の鱗が煌き、悠々と立つその姿には神々しさすらも感じられた。ラクトはその背をよじ登る。ベルガは警戒しながらも、それに続いた。
翼が力強く空気を押す。ぶわり、と砂煙が巻き上がり、それは飛び立つ。
「うおっ」
ベルガは思わずしがみついた。すると、するりと上の方からロープが降りてくる。
「捕まってろよ。そんなんじゃ、そのうち絶対に振り落とされる。あ、それと今のうちに着込んどいた方がいい。寒い、なんて感じ出してからじゃ遅いから」
いつの間にやら。ラクトは首に当たる部分にロープを通し、輪としていた。垂らされたのは、そこに繋がれていた。苦しくないのかと、自分でも少しおかしいと思いつつもベルガは問うが、ラクト曰く、この程度じゃ何も感じない、とのこと。
「頼むぜぇ」
山の頂から影が跳ぶ。それは北に進路をとり、飛び去った。