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第六章

「園長!」

 俺が動物園に到着したのは、電話をもらってから二十分ほど経過した後だった。あそこから二十分と言うのは、奇跡的な時間だった。もちろん、この足で走った訳ではない。たまたま途中で鉢合わせたクラスの男子に、必ず返すという適当な約束を無理やり押し付けて、その自転車を飛ばしてきたのだから、当然と言えば当然だろう。俺はその自転車を入り口付近に乗り捨て、控室に飛び込んだという訳だ。

「鮫島君!」

 この前とは比べ物にならない動揺をしている園長が、控室をうろうろしていた。

 確かに、今回は前回の比にならないヤバさだ。もう警察の頼りになるしかないだろう。

「園長。どういう事なんですか!」

 俺も動揺を隠しきれていない。仕方ないだろ。動物たちが逃げ出したなんて前代未聞だ。ここに来るまでにも、色々な動物たちを見かけたが、一斉に逃げ出すと言うよりは、各自好きな方向に逃げているとしか思えなかった。

「閉園作業をしている時、動物たちがぞろぞろと外に出て行くのに気づいてね。その時私は倉庫整理をしていたから、気付いた時にはほとんどの動物が逃げ出した後だったんだ」

 なんて事だ。ここの動物園は、色々な種類の動物たちが飼育されている。中には凶暴な奴やいたずら好きな奴もいるんだぞ。それが町に逃げ出したとなると、この町は大パニックになりかねん。

「警察には?」

「もう言ったよ。今回はそうせざるを得なかったからね。今は、警察の力を借りて、市民に避難勧告が出されている頃だよ」

「分かりました。動物たちは、俺が連れ戻しに行きます」

「何を! そんなの今さら無理だ!」

「分かんないじゃないですか。警察だったら、動物たちを射殺しかねないんですよ? 警察が避難勧告を出している今しかチャンスは無いんですよ!」

「いや、だけど……」

「任せてください。この町も、動物園も、動物たちも、俺が何とかします」

 自分でも、大それた事を言ったと思う。だが、逃げる事は男の恥だろ? なぁ、虎さん。

「じゃぁちょっと、園内に残ってるやつらの応援をもらいに行きます」

「え? それはどういう――」

 園長の疑問に満ちた声が聞こえたが、俺はそれを聞こえないふりをして、控室を出た。

 園内に入ると、一番広い中央広場に動物たちが集結していた。もちろん、この動物園の動物たちの他にも、野生の奴ら。つまり、ライナの時に手伝ってくれた虎さんの知り合いも数多く集結していた。しかも、今回は前回より数が多い。

「湊。またですか? 今回はデートじゃ済まされないですよ?」

『私は、修羅場を見せてもらえれば、それでいいのですがね』

 中央広場には、俺が呼んだ人間の仲間たちもいた。

「湊。これは一体どういう事だ?」

 心と共にいるのは、ミネと彼方。それに、

「右に同じ」

 鷲津もいた。

「彼方。鷲津。説明は終わったらする。だから、力を貸してくれないか?」

 顔を見合わせる二人。最初は曇った顔をしていたが、すぐに俺に向き直って、

「やっと悩みの種を打ち明けてくれる気になったか! だけど、今は何も聞かないよ。その代わり、今度喫茶店でケーキでも食べながらゆっくり聞かせろよな! もちろん、湊の奢りで」

「あぁ。望むところだ!」

 ありがとう。彼方。

「良く分かんねぇけど、相棒のピンチに動かない訳には行かないっしょ!」

「お前と相棒になったつもりはないが、ありがとよ」

「いや、そこはもう相棒でいいじゃん!」

 うるさいけど、頼りになるのが鷲津だ。

 見渡すと、いつもの面々が俺を迎えてくれていた。皆、覚悟は決めたといういい顔をしている。そんなこいつらに、俺は目頭が熱くなってしまった。

「……みんな、ありがと」

 俺は目元を袖で拭い、動物たちに向き直った。

『鮫島さん。久々のシャバでさ。大暴れさせてくださいよ!』

 ウキ丸含め、猿軍団は逃げ出さなかったようだ。正直、不幸中の幸いと言えよう。捕まえるのは、猿が一番大変だろうからな。だが逆に、機動力のある猿軍団がこちらにいるのは、心強い。

「てめぇは、この前のうんこ猿!」

『んだと! 鮫島さん。こいつやってもいいですかい? いい加減ムカつくんでさ』

 犬猿の仲とは言うが、犬のミネが事を起こしていないのに、何故鷲津が猿といがみ合うのだろう。

「今はやめといてくれ。無駄なタイムロスは避けたいんだ」

『……分かりやした』

 渋々ではあるが、ウキ丸は一歩下がってくれた。

「え? 今湊……」

「あぁ。猿と話してたように見えたぜ」

 まだ何も知らないこいつらにとっては、驚きの光景だったかもな。

『情報収集は任せてください、アニキ!』

 肩に乗ってきたのは、雀の次郎だ。

「あぁ、今回も働いてもらうぞ」

『ガッテン!』

 もう一度動物たちを見渡す。見知った顔もいるな。

『自分も今回は手伝わせてもらいます。姉ちゃんと兄ちゃんに、恩を返す時が来ましたぜ!』

 さっきから、俺に付いて来てくれていたミケが、俺の足元でやる気を出していた。

「あれ? あなたこの前の」

『姉ちゃん。その節は、お世話になりました』

 心に向き合って、ミケは丁寧に首だけを下に折った。それだけで、大体何を言いたいのかが分かったのだろう、心はミケの頭を優しく撫でた。

『ねぇ。私の事忘れてない?』

 はいはい。もちろん忘れてませんよ。俺は足元に近づいてきたライナの頭を撫でた。

『今回はね、この前迷惑かけた分まで、湊の力になるって決めたの!』

「そうか。それは助かるぞ」

『だって、この女には負けてられないもの!』

 ライナは視線を俺から後ろにいる心に移した。

「なんです? ライナが何か?」

「いや……」

『覚えてなさいよ! あんたとはいずれ決着をつけてやるんだから!』

「なんか言っているようにしか思えないのですけど」

 喧嘩はやめてほしいな。今はそういう場面じゃないんだけど。

『あら? 百獣の王たる私とやる気? いい度胸じゃない』

「なんですか?」

 ライナと心に触発されてか、他の動物たちもざわめき始めた。もう収集つかなくなってきた。どうするよ? これじゃ、動物たちを引き戻す所じゃない。

『静まれ! 小童どもが!』

 まるで名刀の一太刀の如く、虎の怒号がざわつきを切り裂く。動物たちは勿論、言葉の分からない彼方たちも、その声に口を閉じた。

『鮫島。こっちは準備完了じゃけぇの。あとはお前の指示に従う』

 虎さんはやはり凄かった。単調な感想だが、そうとしか表現できないのだ。

「虎さん。あなたはここに残ってくれたんですね」

『あたりまえじゃ。自分の居場所くらい、弁えてるけぇの』

「どうもっす。では、ここからは、俺に仕切らせてもらいます!」

『ハナからそのつもりじゃ』

 俺は、大きく深呼吸をした。これでもかというくらい、肺に酸素を送り込み、それを言葉の動力源に変換した。

「集まってもらった事、まず礼を言う。ありがとう」

 出だしはこんなもんか。前回といい、こういう演説はどうも苦手だ。

「これから、みんなには動物園の動物たちを、ここに戻してもらうため、尽力してもらう! みんなの鼻なら、野生かそうじゃないかを嗅ぎ分ける事は容易なはずだ。その嗅覚を、俺たちに貸してくれ!」

 ここでもう一度深呼吸。そして、間髪入れずに続けた。

「できれば、警察が動き出す前に回収してほしい。もし警察が捕獲に入り始めたら、みんなはその場で逃げてもらって構わない。何より大事なのは、みんなの命であることを忘れないでくれ」

 口を開くものは誰一人いない。この動物たちを、俺は傷つける訳にはいかないのだ。だが、みんなを連れ戻したい。そんな事無理だと笑う奴もいよう。でも、やってみなけりゃ分かんねぇだろうが!

「山はウキ丸率いる猿軍団、その他は町でローラー作戦だ。ある程度集まったと思ったら、各自ここに集合。君たちが最後の望みだ。頼んだぞ! では、散開!」

 一斉に四方八方に散る動物たち。さて、ここからは時間との勝負だな。

「じゃぁ、俺たちも行くぞ。心はミネと、鷲津はライナと行ってくれ」

「分かりましたわ」

『了解です』

「任せろ相棒!」

『湊と二人じゃないのが不服だけど分かったわ!』

 人間一人に動物を一匹のチームを作り上げる。これで、お互い足りない部分を補えるはずだ。

「彼方は虎さんとだ」

「オーケー」

『久々に腕がなるけぇの』

「じゃぁ、頼んだぞ! 終わったら、ここにもう一度集合だ!」

『了解!』

 あいつらを見送った俺は、次郎に指示をした後、ミケと共に町を目指した。




 町は動物たちで溢れかえり、サファリパーク化していた。日が暮れ、会社帰りのお父さんたちでごった返すはずの駅前も、今は人っ子一人いない。たまに見かける人間と言えば、青い制服を身に纏った警察官だけだが、その警察官でさえ、あまり見かけなくなっていった。俺は、そんな中を、さっきの自転車で駆け抜けた。

「いや、中村君には今度ジュースくらい奢らないとな」

 中村君とは、この自転車を貸してくれた善良なクラスメイトの名前だ。

『そんな事を言っている場合じゃないぞ。この辺はまだ動物が居すぎる。ここを離れ、もっと奥から攻めて行かなくては』

 前の籠に乗っているミケは、この状況を冷静に解釈していた。

『それに、凶暴な奴は、できるだけ自分らの手で説得しよう』

「分かってるさ。もちろん万が一の事を考えて、皆には護衛を兼ねて頼もしい動物を配置したんだからな!」

 心とターミネーターのコンビは別として、彼方や鷲津には虎とライオンという頼もしい護衛をつけた。無論、それだけの理由だけではない。今まで動物園暮らしだったライナと虎さんが動きやすいよう、町を知っている二人を。説得になったら虎さんとライナに。そういうパワーバランスを考えた結果のチーム編成だ。

「とにかく、俺たちは町はずれから攻めるぞ。逃げた奴らだって、町の勝手が分からない奴らばかり。そう遠くには行ってないはずだ」

『了解です!』

 俺は自転車の漕ぐスピードを上げ、町の中心部を駆け抜けた。途中これが電動付自転車だったらよかったのにとか思ったが、欲は言ってられないよな。

 町を出た俺たちは、自転車を乗り捨て、動物たちの説得を開始した。予想通り、一定のラインからは出ていないようで、俺たちはその最終防衛ラインからじわじわと動物園の方へと追い詰めて行った。

「戻れ! お前たちの居場所は、動物園のはずだぞ!」

 叫び散らしながら、俺は動物たちを威圧していった。不幸中の幸いだが、彼らはやはり町に不慣れで、心が折れかけている動物がほとんどだった。どこに行ったら分からないコンクリートジャングルの中をひたすら歩き、疲弊した動物たちを説得するのは容易だった。

 順調に事が運んでいた。さっき他のチームから電話があったが、あちらも順調に動物たちを説得していっているようだ。

 だが、思い通りにはいかないものだ。ここまでが順調すぎたのかもしれない。

 駅前まで動物たちを追い込んだ時だった。

『その辺にしとけや鮫島!』

 怒号と共に、俺に飛びかかってくる影。それを間一髪で避けるも、肩が少し引っかかれた。

『大丈夫か?』

「あぁ。問題ない」

『貴様! 何者だ!』

 ミケが毛を立たせ威嚇する。だが、相手が悪い。あいつは、鳥谷記念動物園の中でも一位二位を争う凶暴な動物。真っ黒な毛に大きな体。

『何者だと? なめた口聞いてんじゃねぇぞ三下が!』

 クロヒョウのアレックスだ。

「アレックス! お前は逃げ出して何がしたいんだ!」

 外国生まれのアレックスは、元々気性が荒く、係員である俺たちでさえ手を焼かされていた。動物園内では、虎さんという権力者がいたためにおとなしくはしていたが、開放された今、こいつは何を仕出かすか分かったもんじゃない。その証拠に、俺にいきなり飛びかかってきやがったしな。こいつなら、平気で人を襲いそうなんだよな。

『何がしてぇかだと? 鮫島。お前俺より数倍脳みそでかいくせに、そんな事も分かんねぇのかよ?』

「分かんないから聞いてるんだろ!」

 安全な間合いを取ったまま、俺は睨みを利かせた。アレックスに背中を見せたら、おそらく俺はやられる。だからこそ、神経の一本一本に気を巡らせた。

『なら教えてやる。俺はなぁ、俺をあんな牢獄に閉じ込めた人間どもに復讐するんだよ!』

 もしかしなくても、そうだとは思ったよ。

『虎さんがいたからおとなしくはしてたけどよ、もうそれも関係ねぇ! 自由になったからには、好き放題させてもらうぜ!』

『兄ちゃん。あいつをどう説得するつもりだ?』

 今も威嚇し続けるミケ。俺は答える事も出来ず、ただいつでも避けれる用意をしていた。

『だからよ、お前は邪魔なんだ。動物と話せる人間なんて、いねぇ方が動きやすいからな。だから、死んでもらうぜ!』

 一気に間合いを詰めてくるアレックス。俺は足の神経に伝令をだし、筋肉を動かす。だが、計算を見誤っていた。アレックスの凶刃の方が、少し早かったのだ。どうやら、肩口にめり込むようだ。この計算はおそらく外れないだろう。

 そう覚悟した時、目の前のアレックスが横に吹き飛んだ。

 誰だ? ミケか?

「危ないところだった!」

『まったく、無茶をするのぉ』

 世の中も捨てたもんじゃない。そこにはまさしくヒーローの姿があった。オレンジと黒に装飾された毛並みはつややかで、何より強さを物語っていた。

「彼方! 虎さん!」

 まさに間一髪。もう少し遅かったら、俺の左腕が吹き飛んでいるところだった。

『兄ちゃん!』

「あぁ。なんとか助かったみたいだ」

 俺に近寄るミケ。その後ろには、彼方が寄り添っていた。

「大丈夫?」

「あぁ、大丈夫。彼方のおかげだ、ありがと」

 茹蛸のように赤くなっていく彼方は、

「無事なら、いいんだけどさ」

 と、目を逸らしながら言った。

『おのれ――ぐはっ!』

 起き上ろうとするアレックスを、一回り大きい虎さんが、右足で抑えつけた。

『ちーとおいたが過ぎるんじゃぁないか? のぉアレックス』

『と、虎さん! いや、自分は別に……』

『男のくせに、いい訳とは見苦しいのぉ。黙って謝る事もできのか?』

 ここまで鬼気迫る虎さんは初めて見た。そして、我が動物園、というかこの辺の動物たちの頂点に立つ器というものを、垣間見た気がした。

『どうなんじゃ! 謝って動物園に戻るか、わしに喧嘩売ってやられるか。はよ決めぇ!』

『す、すいませんでした!』

 おそらくアレックスを手玉にとれるのは、虎さんだけではないだろうか。

 アレックスが謝ったのと同時に、俺の携帯が震えた。開けると、メールが二件届いていた。送り主は、心と鷲津。二人とも、一通りの連れ戻しを完了したようだ。

「彼方。他の動物たちの説得は?」

「ん? 虎さんが一喝したら、みんな走って動物園に戻ってったよ」

 すげぇな。

「じゃぁ、一通りの連れ戻しは終わったみたいだ。俺たちも、動物園に帰るか」

 捕縛したアレックスは、虎さんが逃げないように見張ってくれていた。その後を、俺と彼方、それにミケが付いて行く。駅前から動物園までの道のりで、動物たちにはほとんど会わなかったが、という事は他の動物たちも上手くやってくれたという事か。

 俺たち二人と三匹は、入り口をくぐって中央広場を目指した。そこには、最初の動物たちと連れ戻された動物たちが集結していた。

『山に逃げた動物たちは、まとめて連れてきやしたぜ』

 ウキ丸は、胸を叩いて言ってきた。

「こちらも終わりです」

『私的には、この前よりは楽でしたよ』

 心とミネも、傷一つないようで何よりだ。

「俺たちも、動物たちを一網打尽にしてやったぜ!」

『もちろん、私の活躍だけどね!』

 鷲津にライナ。お前らも良くやってくれた。

『アニキ! 逃げた動物たちの、全捕獲を確認しました。それと――』

 肩に乗ってきた次郎の報告で、この動物脱走事件は一滴の血も流さず終結した。そして、ここからが、俺の本当の闘いだ。

 俺は携帯を取り出し、園長を呼び出した。

『もしもし?』

 ワンコールで電話にでた園長の、今まで携帯を握りしめている姿が容易に想像できた。

「もしもし、園長ですか?」

『鮫島君かい?』

 いい加減、電話に出るときに相手を確認しましょうよ。

「そうです。えっと、動物たちを全員連れ戻す事に成功しました。それで――」

 一通り要件を伝えたあと、俺は動物たちに向き直った。

「みんなお疲れさん。これからここに園長が来る。ここの動物たちは、その指示に従って動くように! それから、手伝ってくれた野生のみんなは、園長から食べ物をもらってくれ。それが今回の報酬だ。では、ここで一度お開きにする。みんな、ありがと!」

 まるで大学生の新入生歓迎会の終了の挨拶のように、俺はこの場をお開きにした。いや、俺はまだ高校生だから、大学生の新歓というものは体験したことが無いのだが、大体あんなものだろうとい予想だ。

 とにかく、俺は決着をつける為、動物園をあとにした。遠くで動物たちの宴会騒ぎが聞こえてくる。園長は上手くやってくれたようだ。でも流石に、あの数にはビックリしただろうな。みんなも置いてきたけど、これで良かったんだ。ここからは、俺の闘いだ。

「ちょっと待ちなさい」

 丁度入り口を出たところで、後ろから声がかけられた。だが、俺は振り向くことなく歩みを進めた。

「あんた一人でどこに行くわけ?」

 二人目の声。だが、俺は振り向く訳には行かない。

「お前だけいい恰好させねぇからな!」

 三人目。流石に限界か。俺は、ゆっくりと振り返った。そこには、いつもの人間面子に動物面子がいた。

「お前ら。一体何をしてんだ?」

『何をしてんだは、こっちのセリフよ!』

 ライナの叫びが響いた。そんなに怒るなよ。寝てる人が起きちゃうだろ?

『湊さん。勝手にいなくなるのはルール違反です。あなたがいなくなるのは、私に降参した時だけという約束を忘れたのですか?』

おいおい。俺はミネとそんな約束をした覚えはないぞ?

「ミネがどんな事を言ったかは知りませんが、勝手に一人で済まそうというのは、湊の悪い癖だと思います」

「そうだぞ! ここまで来たんだ。最後まで一緒に居させてくれよ」

「相棒。女にここまで言われちゃ、もう後には引き下がれないよな」

 まったく……。

「お前ら馬鹿ばっかだよ。俺だって考えた末の結論だぜ? そう簡単に男の決め事を変えさせるなよな」

 ウキ丸や虎さん。それにミケや次郎も口を開かない。

「男に二言はないけど、今回ばかりはそうも言ってられなさそうだ」

 俺には、いつの間にかにこんな頼もしい仲間ができていたのだろう。

「力を、貸してくれ! 今回ばかりは、俺もつらいんだ」

 頭を下げる。見本のように綺麗なお辞儀ができたと思う。

「まったく……」

「そんなのは」

「言われなくても分かってるっての、相棒!」

 頭をあげると、そこには笑顔の三人が立っていた。俺の肩に手を乗せ、頷いてくる三人。

くそっ! 俺ってこんなに涙腺が弱かったか?

『心さんが行くなら、私も行くしかないですね』

『湊の行くところなら、私はどこでも行くからね!』

『自分も、最後まで見届けさせてもらうぞ、兄ちゃん』

 犬にライオン。さらには猫までもが、俺に近寄ってくる。

『自分は、猿たちの面倒を見るんで一緒にはいけやせんが、頑張ってくだせぇ』

『アニキ。今回ばかりは雀の自分が出る幕じゃないっす。けど、アニキは絶対大丈夫だと信じてますから!』

 ウキ丸、次郎……。

『鮫島。今が気張る時じゃけぇ。男見せてこい!』

「はい! ウキ丸、次郎、虎さん。行ってくる!」

 俺は一人じゃない。

 さあ、決着をつけようぜ。




 次郎が伝えてくれた奴のいる場所は、なんの因果か、あの展望台だった。彼方と出会った場所であり、初めてミネを見つけ心と出会った場所。そして、この前のライナがいた場所。その場所に向け、俺たちは歩みを進めていた。俺たち人間四人を先頭に、後ろを動物たちが付いてくる形で歩いてはいたが、少し傾斜がついてくるにつれ、俺たちのスピードは落ちて行った。

 ようやく、目的の展望台に辿りついた時には、多少息が切れた感じだった。街灯が道しるべのように伸び、その先には人影が一つ。避難勧告がされている今、こんなところにいるのは、彼しかいないだろう。まだまだ相手に気づかれないくらいの距離があるが、俺は一旦足を止めた。

「……心」

「なんです?」

「お前はここにいた方がいい」

 心を、彼に近づかせない為だった。

「ここまで来て、何を言い出すと思えば。私は最後までいると言いました。だから、最後まで湊について行きます」

「駄目だ」

 心は、俺以上に傷つくのは目に見えていた。だからこそ、連れて来たくはなかったんだ。

「何故?」

「俺は、今から前回と今回の事件を引き起こした犯人に会いに行く」

「分かっています」

 道中説明はしたし、そこは理解しているようだ。

「だから、心には犯人に会わせたくない」

「今更無理ですわ。絶対に行きますから」

「……そうか。なぁ、ミネ」

『はい?』

「心を、頼んだぞ」

『分かっています』

 ミネは、犯人に目星がついているのだろう。それとも匂いで察知したのか、静かにうなずいた。

「じゃぁ、行くぞ」

 俺たちは、地を噛みしめるように一歩、また一歩と、その影に向かって歩き始めた。砂利を踏む音で俺たちに気が付いたのか、影がこちらを向いた。俺は、一歩前に出て、影と向かいあった。左には、夜の町が輝き、左には暗い山がそびえ立っている。だからこそ、夜景が引き立つというものだが、今は綺麗だと感じる余裕はなかった。

 俺は、また一歩前に出て、丁度街灯の下の照らし出された部分に進んだ。

「おや。やっぱり君だったか」

 影が口を開いた。光の関係で、こちらからは顔が見えない。だが、今ので誰だかは把握することができた。

「それはこっちのセリフですよ」

「それはどういう意味かな?」

「そのままの意味ですよ」

 犯人。

前回ライナの檻を開け放ち、今回は全動物の檻を開けた。理由は分からない。だが、決して許される事ではない。

「まあいい。君が僕と話したかったように、僕も君とは話さなければと思っていたんだ。動物と話すことができる、鮫島君」

「知っていたんですか。これは驚きです。でも、俺もあなたとは話さなくてはいけないと思っていましたよ。今回、そして前回の犯人である――」

 雲に隠れていた月が顔をだし、その明かりで影が晴れて顔が明るみになっていった。


「蟹沢康介さん」


 顔が明るみになった蟹沢さんの口元は、にやりと歪んでいた。

「お、お兄様!」

 後ろで心の悲痛な叫びが聞こえた。どうやら卒倒は間逃れたようだが、いい状況ではなさそうだ。

「心もいるのか? 鮫島君。君も酷だね」

「そうですかね? いずれ分かる事ですし、なにより蟹沢さんよりは酷ではないと思いますよ」

 後ろから足音が近づいてきた。心だと思ったが、その足音は複数あった。という事は、みんなが俺の後ろに歩み寄ってきたのだろう。

「鮫島君。君はさっきから何を言っているんだい? 僕が酷だって? どうして」

「今更往生際が悪いですね。さっきも言ったように、あなたが犯人だからですよ」

 心は何も言わない。どうやら俺が思っていたより、ずっと強い女だったようだ。

「まったく。根拠は? 証拠は?」

 本当に往生際が悪いな。

「俺は探偵でも警察でもないんですけどね。一通りの根拠くらいはあるんですよ」

「ほう。聞かせてくれないか?」

「いいですよ」

 実は、確信をつけるものは何も持っていない。これは賭けだ。

「まず、この前のライナの逃亡事件。あれは、あなたが檻を開けたんです。違いますか?」

「どうかな」

 流石にこんな安い手には乗ってこないか。

「おそらくライナの檻を開けたのは、今日の予行練習のようなものでしょう。一体どれほどの時間で動物園側が気づき、どれだけ対処に時間がかかるかを知りたかったのでしょう。そこで、ライナが俺を好いている事を利用し、檻を開け、開放した。ライナは一番檻から出たがっていましたから。その後、檻に戻れないように扉を閉めた」

「ふーん」

「そこで、蟹沢さん。あなたはストラップの先に付いている人形を落としました」

 そう言って、俺はポケットから人形を取り出した。実際は用意していた訳ではなく、この前から入れっぱなしだったのだが、おかげで恰好がついた。

「これですが、心も同じものを持っていました。蟹沢さんの手作りだそうですね」

「そうだけど、無くしたと思ったら、そんなとこにあったのか」

 そうだろうな。蟹沢さんは動物園の係員だ。このストラップの人形を落とすタイミングなんていくらでもある。

「それだけでは、決め手にならないのは分かっています。では、今日の件ですが、あれだけの騒ぎがありながら、あなたはずっとここにいたんですか?」

「うん。久しぶりに夜景が見たくなってね」

「園長から電話は?」

「あったみたいだけど気づかなかったよ」

 なかなかボロは出さない。後ろのみんなも、もう確定しているのは分かってるはずだが、完璧な証拠がない限り、そうだとは断言できないのだろう。しかも、その可能性に賭けている心の事を考えると、少し胸が痛んだ。

「今日は勤務日だったのに、それは苦しい言い訳だとは思いません?」

「そうかな? まさかあんな事になるなんて分かんなかったし、早退しても疑われる事には繋がらないんじゃないかな?」

 あれ? 今なんか?

「帰り際、檻はしっかりと見たんですか?」

「もちろんだよ。あの時は動物たちが逃げ出すなんて思いもしなかったけどね」

 ここだ!

「ちょっと待ってください。なんで蟹沢さんは動物たちが逃げた事を知っているんですか?」

「え? それは、警察の人達が言ってたんだよ」

 やはり、人というのは嘘がつけない。ついたとしても、それは必ず矛盾点が見つかり、暴かれる。誰かがそんな事を言っていたような気がする。

「それはおかしいですね。俺は、次郎という雀にあなたを見張らせていたのですが、警察の人と接触したという情報は入ってきてないですね」

「それは、多分その雀が間違っているんだ!」

 声がどんどん荒々しくなっていく。焦り始めているな。叩くなら今だ!

「確かに、それはあるかもしれません」

 さて、こんな茶番は終わりにしよう。

「でも、目撃者がいるんですよ」

「何?」

「出てきて良いぞ!」

 俺の声を聞いて、木陰から現れたのは、一羽のカラスだった。

『お前は!』

 ライナが声を上げた。無理もない。この前ライナと喧嘩していた、あのカラスだからな。

「雀の次郎に言って、連れてきてもらっていました。さて、お前は何を見たんだ?」

『はい。俺がいつものように動物園の上を飛んでいた時の話です。この兄ちゃんが、この前ライオンの檻を開けているところと、今日色々な檻を開けて回っているのを、空や木の上から見てました』

「通訳すると、はい。俺がいつものように動物園の上を飛んでいた時の話です。この兄ちゃんが、この前ライオンの檻を開けているところと、今日檻を開けて回っているのを、空や木の上から見てました。です」

 さて、ここからが賭けの時間だ。

「そんなの、口から出まかせに決まっている!」

 って言うと思ったよ。

『なんですって! 湊は本当の事を言っているわよ!』

 熱くなるライナを、俺は片手で制止して言葉を続けた。

「忘れたんですか? 蟹沢さんがさっき言ってたじゃないですか。動物と喋れる鮫島君って。なにより、今にも飛びかかりそうなライナとミネを見れば、一目瞭然じゃないですか」

「…………」

 どうだ?

「鮫島君。僕の誤算はね、君が動物と話せる事だよ」

「そうでしょうね」

「……君の言う通り。僕が檻を開けて、動物たちを解放したんだ」

 賭けに勝った。

俺の算段は、蟹沢さんの頭に血を昇らせ、冷静な判断を失ったところで目撃者という決定的証拠を叩きつけ、自白に追い込むというものだった。だが、ここには大きな落とし穴がある。目撃者はカラスだ。そんなの出まかせだと言い張られたら、俺に打つ手はなかった。例え真実を述べているにせよ、証言とは認められないからな。

 だが、とうとう自白に追い込んだ。心には悪い事をしたと思っている。だが、罪は償わなくてはいけないんだ。

「……お兄様」

 心が一歩前に出て、蟹沢さんを呼んだ。

「なんだい、心」

「何故、何故こんなことをしたのですか?」

 悲痛な叫び。それと同調するように、心の目から光る物が落ちた。

「それはね、動物たちを解放してやりたかったんだよ」

「え?」

「鮫島君。少し、昔の話をしてもいいかな」

「俺は別に……」

「では……」




僕は昔、と言ってもそんな昔の話じゃないんだけどね。大体十五年くらい前の話かな。東北のある田舎に住んでいたんだ。その頃は、別に貧しい訳でもなくて、比較的裕福な家庭で育っていたんだよ。でも僕には、どうしても欲しいものがあった。お金で買えない物。なんだか分かるかい?

「いえ」

 それはね、友達だよ。

 田舎だという事もあって、近くに同い年くらいの子があまりいなくてね、大体僕は一人で遊んでいた。来る日も来る日も、絵を描いたり、庭で昆虫採集したり、それはそれで楽しかった。両親も優しくて、いつも僕と遊んでくれていた。

 でも、僕は親不孝者だった。それだけの物を持っていながら、やっぱり何か物足りないと感じていたんだ。

 ある日、庭に猫が迷い込んできた。僕は、まるで友達のように遊んだ。そのうち、家の庭には野良猫が集まりだしてね。僕が餌付けしていたというのが大きな原因なんだろうけど、野良猫と遊ぶ時間が一番楽しかった。

でもやっぱり言葉が通じないのは、どこか楽しみを半減させていた。

 僕は毎日、寝る前に猫と喋れるようになりたいと願った。でもね、そう簡単にかなう訳が

ない。それは、みんなも分かるでしょ?

 でね、ある日声がしたんだ。『今日も餌をください』って。

 耳を疑ったよ。庭にいる猫が喋ったんだから。でもそれは、猫が喋ったんじゃなくて、僕が猫の言葉を理解できるようになったという事だったんだ。原因は分からないけど、あの頃の僕は、神様がくれたプレゼントだと思ったよ。でも実際は違ったんだけどね。

 そのうち、僕の家の庭は、猫たちの集まる集会所みたいになっていた。たまに他の動物が来たりもしたけど、喋ることはできなかった。僕の力は、鮫島君と違って猫限定だったからね。

 でも、僕にとっては猫だけで十分だった。

野良猫の旅の話や、どこかの飼い猫の主人の悪口。いろいろあった。でもね、みんなが共通していうのは、囚われている動物たちは可愛そうだ。という事だった。それが、動物園の事だと知ったのは、ずっと後の話。でも、その頃は訳も分からずその動物たちを救うと、僕はいきがっていた。

 楽園。

そう呼べる時間は長くは続かなかった。

僕が猫と話している変な子だという噂が立ち始めたんだ。人の噂を嫌がる両親は、僕が取り憑かれたものだと思い込み、お祓いに行った。僕は、神様のプレゼントだと思ってたから、こんなこと意味がないと心の中で両親を罵っていた。

 でもそれ以来。猫の声は聞こえなくなった。

祓い屋の話によれば、僕には動物の霊がいくつも憑いていて、それが猫と話せた原因だという。

 もちろん、最初は信じなかったさ。でもね、現実というのは残酷でね。一度聞こえなくなると、もう二度と聞こえなくなっていったんだよ。

 そのまま、僕は成長してった訳だけど、頭にはずっとあの言葉が残っていた。小さい頃にした猫との約束。

『僕が、その囚われの動物たちを救うよ!』

 それだけが、ずっと響いていたんだ。




「結局、それを実行に移したという事だよ。馬鹿な話でしょ?」

「えぇ」

 この話は、聞いたことがあった。

『兄ちゃん。東北の事例って……』

「あぁ、おそらく蟹沢さんの事だろうな」

『やっぱり』

 ミケの耳打ちに、俺は耳打ちで返した。まさか、昔猫と喋れたのが蟹沢さんだとは、思いもしなかった。これも何かの因果なのだろうか。

「お兄様。自首してください」

 涙を必死にこらえ、従兄を説得する様は、まるでサスペンスのようだった。ここで、一つ嫌な予感がした。こういう時は、大体当たるんだが。

「そうだね……」

 これだけは当たってほしくないな。

「でも、その前に……」

 蟹沢さんが、ポケットから何かを取り出した。おいおい。冗談だろ?

「鮫島君。君は少し目障りだ」

 鈍く光るそれは、まさに俺の嫌な予感にでてきたそれと同じものだった。サバイバルナイフというよりはもっと長い感じがする。あれは何という種類のナイフだろう。なんて、考えている場合じゃない。その金属に身体が触れれば、たちまちそこから血が噴き出すだろう。実際に体験したことがある訳じゃないし、どんな痛みかは分からないが、かなり痛いのは間違いない。

「鮫島君。君は一つ勘違いをしている」

「なんだと?」

「さっき君は僕が警察とコンタクトを取っていないと言っていたね?」

 ああ。次郎の報告通りならそのはずだ。

「残念だったね。冷静に考えてもみなよ。何故あれだけの動物たちが騒いで警察があまり動かなかったのかをね」

 そういえばそうだ。すみやかに事は進んだが、それなりに時間はかかった。なのに機動隊の一つも出動していないのは明らかにおかしい。

「知り合いに上の人がいてね。動物が警察に捕まったら間違いなく殺される。だから、逃げられるだけの時間をくれと頼んだんだよ。まさかそれが裏目に出るとは思わなかったけどね」

 権力ってやつは、本当にいけすかねぇよな。

「さてと」

 そう言って、蟹沢さんはナイフを持ち直した。

「落ち着けよ蟹沢さん。なんで今の話の展開で、俺を殺す事になるんだ?」

 そうだ。なんで俺を殺すんだ? 俺は一歩ずつ後ずさりながら、その理由を考えた。

「それはね、僕が逃げるのに、君は障害になりそうだからだよ。動物と話せるなんて、そんな完璧な追跡されたら逃げれないじゃないか」

 そういう事か。俺を始末すれば、動物の追手はなくなる。そりゃさぞかし逃げやすいだろうよ。

「だからって、俺を殺したら、罪が重くなりますよ?」

 これ以上は下がれない。後ろには彼方や心がいる。こいつらを巻き込むわけには……。

「そうなんだよ。でもさ、もう関係ないかな。僕はどうしても、あの約束を果たさなくてはいけないんだよ。今の僕があるのは、あの時の経験のおかげだからね」

 おいおい。嘘だろ?

「だから、死んでくれ」

 次の瞬間。鈍い金属の光が俺に迫ってきた。まさに閃光の如きそれは、避けることのかなわない一撃だった。後ろでは、女子共の悲鳴が聞こえる。あぁ、俺、死ぬのかな? 

 ナイフが届くまで、俺は今までの事を思いだしていた。これが走馬灯ってやつか。まさか本当に見えるとはな。

 まさに、スーパースローカメラのようにナイフが迫ってくる。一瞬この速さなら避けれるかもという幻想を抱いたりもしたが、俺の動きもスーパースローになっているために、まったく意味がなかった。

 アニメのかっこいい男は、死に際に名言を残すものだが、よくこんな状況で恰好いい事が言えるもんだと、初めてその立場に立って思った。

 とまぁ、俺もアニメのように色々と死ぬ前に考えてみたが、今度こそ本当にさようならだ。もうナイフ届きそうだもん。心臓一突きにされそうだもん。

 あぁ。みんな、元気でな……。

――と、俺は最後を飾るはずだった。

 だが、俺の体はみるみるうちに、ナイフから遠ざかっていった。一瞬感じた衝撃。突風を浴びたようなあれは、ナイフが刺さったものだと思っていたがそうじゃなかった。

あれは、横からの衝撃。一体誰が?

 その時、俺の目に入ったのは、月明かりで光沢を浴びた漆黒の毛並みをする猫だった。

「なっ!」

 そして、その猫にナイフが突き刺さるその瞬間まで、鮮明に見てしまったのだ。

「ぐっ!」

 体が地面に叩きつけられた。その反動で一瞬息が止まったが、すぐに立ち直り、その猫へと駆け寄った。

「行きなさい! ミネ!」

 ――刹那。心の叫びが響き渡る。

『行くよ! ライナ!』

『うん!』

 一斉にミネとライナが蟹沢さんに飛びかかった。ナイフがあるとはいえ、まるで得体のしれないものを刺したかのように立ち尽くす蟹沢さんは、いとも簡単に押さえつけられた。その一部始終を見ていたとはいえ、お構いなしに俺は猫にしがみついた。

「ミミ! おいミミ! しっかりしろ!」

 俺を助けた猫は、他でもない。うちの飼い猫、ミミだった。

『……湊。怪我は、ないかい?』

「当たり前だろ! お前が助けてくれたんじゃねぇか!」

『そうかい。それはよかったよ』

 どんどんミミの顔から生気がなくなっていくような気がした。

「待ってろ! 今傷を塞いでやるから!」

 そう言って、俺は刺されたであろう腹部の傷を探した。だが、どこを探しても傷口は見つからない。

「あれ? よかったな! お前、刺されてねぇぞ! 大丈夫なんだよ!」

 そうはしゃいではいるものの、どんどん弱っていくミミを見ていると、それが原因ではない気がした。

『兄ちゃん。その猫が、兄ちゃんの喋れる原因だ』

 後ろでミケの声がした。原因? それはどういう意味だ?

『その猫は、幽霊だ』

 なんだと? そんなわけあるか! 

「いい加減な事言うな! 俺は今まで一緒に暮らしてきたんだぞ! ちゃんと実体だってある。今だって現に……」

 ミミに目を向ける。だが、その体の奥に、俺の腕がうっすらと見えた。

「……おい。嘘だろ?」

『そのミケ猫が言ってる事は、本当だよ』

 ミミは小さな声でそうつぶやく。

 嘘だ! 嘘だって言ってくれ!

「あれ? あたし達にも声が」

 彼方がふとそんな事を言いだす。

「俺にも聞こえたぜ。あれ、湊が今抱きかかえてるのは、黒猫か?」

「私にも見えます。おそらく前に湊が言っていた飼い猫でしょう」

 一体どういう事だ? いままで、ミミは誰にも見えてなかったってのか?

『最後の霊力が分散された事によって、どうやら人間たちにも声や姿が分かるようになったようだな』

 ミケ。お前は何を言っているんだ。

『兄ちゃん。考えても見てくれ。今までその猫が、他人と話しているところを見た事があるか?』

 ちょっと待て。

「あるぞ。この前ライナが来た時、こいつら仲良く話してたぞ」

『夕方に言っただろ? 自分ら動物は、人間より霊感が強いんだ』

 という事は……。

「ライナ。お前気づいてたのか?」

『うん。実は最初の時点で。でも、ミミさんに口止めされたから』

 なんてこった。じゃぁ、今まで家族が飯を与えていたと言うのも嘘だったのか。幽霊は、飯いらないからな。そうだ。よくよく考えると、不審な点があった。半年前、誰が拾ってきたかもわからず、俺の家に住み着き、鈴葉や親がミミを可愛がっているところなど見た事が無い。挙句、あの時の俺を蔑んだ目は、そういう事か。

『自分がさっき気づかなかったのはおそらく……』

『そうさ。私が取り憑いたのは、湊の家そのものだからね』

「でも、なんで俺ん家に取り憑いたんだ?」

 最大の疑問だ。

『湊にもう一度、会いたかったからさ』

「え?」

 俺は記憶の欠片を探った。いつ俺は、ミミに会ったのだろう。

『覚えてないかい? あんたがここに引っ越す直前、遊んでいた黒猫がいたでしょ?』

 まるでフェードインしてくるように、記憶がどんどん蘇る。

「あの時の……黒猫?」

『思い出したかい? そうさ。あれは私。正確には、生前の私さ』

「どういう事だ?」

『湊がいなくなってから数年。私は病にかかってね。そのままぽっくり逝っちまったのさ。でも、あの日々が忘れられなくて、死んだ後も湊を探して彷徨った』

 俺は大した事はしていないはずだ。なのに……。

『……あんたがね、初めてだったのさ。私に優しくしてくれた人間は』

 知らなかった。しかも忘れていた。そんな俺に……。

 俺は、涙を抑えきれなくなっていた。

『……やっと見つけた時は嬉しかった。でも、あんたに取り憑くわけにはいかなかったんだよ。私の力が強すぎた。だから、もっと器の大きい家にしたのさ』

 どんどん薄くなっていくミミの体を、俺は抱きしめたまま、涙を流した。

『……でもね、まさかあんたが、動物と話せるようになるとは思わなかったよ。でも、嬉しい誤算だった。おかげで、あんなに楽しい日々を過ごせたんだから……』

「ミミ!」

 俺は涙を拭うことなく、俺をずっと思ってくれた猫の名前呼んだ。他のみんなのすすり泣きも聞こえる。ミミの声が聞こえているのだ。感情移入してしまったのだろう。

『そろそろ、限界かもしれないな』

 ミケが、冷徹にもそう言った。

「おいミケ! なんで傷もおってねぇのに、ミミは消えかけてんだ!」

 もう幽霊だろうがなんだろうが関係ない! 俺のそばに、もっと一緒にいてほしいんだ。

『それは、取り憑いたのが家だからだろう。そこからこれだけ離れれば、相当な霊力を使っているはず。だから、霊力が底を尽きかけていて消えそうなんだ』

「それじゃ、俺を助けたから、ミミは消えるってのか?」

『そうなる』

「馬鹿野郎! なんでお前、俺を助けに来たんだ! 自分が消えたら意味ないだろうが!」

 もう抱いている感覚すら無くなってきた。そんなミミは、薄く目を開いて、

『……何を……言ってるんだい。あんたを見守るために……私はいたんだよ。だから、それを全うした……だけじゃないか』

 ミミとの半年が、頭の中に蘇る。まるでお母さんのような奴だった。朝は目覚ましより早く俺の事を起こし、俺が帰ってきた時は、いつも部屋で出迎えてくれた。そのくせ、体が小さいから、片付けは苦手で、綺麗なのはいつも床だけだったよな。でもあれは、霊力を削ってまでやっていてくれたってことなんだろ? 本当にありがとう。

そう言えば、たまに一緒に風呂に入ったりもした。お前はいつもどこからか風呂場に入ってきてたけど、今思えば幽霊だったからすり抜けてたのか。

 今思えば、楽しかった事ばかりだ。時には相談をしたり、時には喧嘩もしたっけ。でも、お前はいつも笑顔で、俺に寄り添ってきてた。

「そんなお前だけど、俺にとっては、大事な家族だったんだぜ?」

 涙はもうどうでもいい。後悔だけは残したくない。

『……知ってたさ。だから、少しでも……湊の家族になれたのが、嬉しかった』

「でも、ミミ。ずっと前に俺のプリンを黙って食べたろ?」

『……そう言えば……そんな事もあったね。あれは食べたんじゃなくて……間違えてひっくり返しただけ……なんだけどね』

「俺の私服に、ひっかき傷つけた事もあったよな」

『……あれは、片付けようとして……』

「ジュースこぼした事も……」

『……あれは……』

「……恋愛について語ったよな」

『…………』

「……落ち込んでる俺の背中を……風呂で流してくれた事もあったよな」

『…………』

「……昨日……悩んでる俺の背中を……押してくれたよな」

『…………』

「……それから……それから」

 もうほとんど消えてしまっているミミに、俺はひたすら話しかけた。ネタが尽きても、それでも何かを話そうと必死に。

でも、ミミは返してくれなくなっていった。途中からは完全に俺の独り言と化していた。だけど、俺は話すのを止めなかった。俺も嗚咽で言葉が途切れ途切れになる。他のみんなも声を抑えながらも泣いてくれていた。

 そして……。

『……湊』

「ん? なんだ?」

『……あの時の肉まん。本当においしかった』

「そんなの、また買ってやるよ」

『……もういいわ。私は……湊にたくさん、大切な物を……貰ったから……』

「俺もだ。ミミには色々貰った。これでもか、ってくらいいっぱいな」

『…………』

「ミミ?」

『……湊』

「ん?」


『……私に……素敵な夢を見させてくれて……ありがとう……』



 その言葉と共に、ミミの体は無数の光となった。

「ミミ? ミミィィィィィ!」

 まるでダイヤモンドダストのように輝くミミの生きた証を見送りながら、展望台には俺の叫びがいつまでも木霊した。

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