第五章
燦々と照りつける日差しは、冬だと感じさせない熱気を発生させていた。だが、それに勝る冷たい風は、体の芯まで冷やしきるほどの冷気を帯びていた。俺は、コートにマフラーという装備を身に着け、昼前の駅前に立っていた。駅前の古びた大時計は、午前十時四十分を指している。待ち合わせの時間まであと二十分。少し早く着きすぎたかもしれないな。だけど、人を待たせるよりは数倍気が楽だ。
昨日の昼休みから、丸一日と言ったところか。心が打診したデートは、何故か俺が女二人を連れるというハーレムに変わっていた。嬉しいはずなのに、どうも嫌な予感がするのは何故だろう。朝の占いが最下位だったからだろうか。
いや、それにしても今日の運勢はひどかったな。
『今日のあなたは、傍から見たらウハウハですが、女運には恵まれないでしょう』
なんだこのピンポイントな占いはと、思わず持っていたタオルをテレビに投げつけてしまった。
『日頃の行いが悪いからだよ』
ミミはそう言っていたが、俺が何をしたって言うんだ。嫌だな。今日どこに行くんだろ。全部おごりとか勘弁してくれよ……。
「おーい!」
財布の中身とにらめっこしていると、不意に声がかかった。顔を上げる。だが、俺はすぐに顔を逸らした。
「おーい! 無視すんなよ!」
十時の方向から手を振りながら接近してくる生物に、俺は見覚えがあった。
「おいってば! 無視はひどくね?」
「一ついいですか?」
「何?」
「なんでお前がいる訳?」
そう。俺の目の前に立つのは、おしゃれな服に身を包んだ鷲津だった。
「なんでって、お前が呼んだんじゃん」
「いや、俺の記憶には無いのだが……」
昨日の記憶を探るも、該当する単語は見当たらなかった。
「おいおい。別に誰でも来ていいって言ったのはお前と心様じゃないか。だから来たんだぞ」
俺は彼方に言ったんだ。お前には言ってない。
いや、待てよ?
こいつを使えば、俺のおごり説は消滅するんじゃないか?
「なぁ鷲津」
「なんだよ?」
「お前、いくら持ってきた?」
「は? 諭吉を二人くらいだけど?」
神よ。感謝します。
「そうかそうか。よく来たな鷲津海斗君」
そう言って、俺は鷲津の肩に手を回した。
「なんだよ。やっと俺の重要さに気づいたってのか? ったく、遅いっての」
何とでも言え。俺はお前を今ほど重要だと思った事はないのだから。
「おーい! 待たせた?」
彼方の登場だ。いつもの男っぽい感じとは裏腹に、随分と女の子っぽい恰好をしてるじゃないか。だが、そのスカートといい寒くないのか?
「あれ? なんで鷲津がいるんだ?」
「ふっ。お前はまだ、俺の重要さに気づいていないようだな」
「何言ってんだ、こいつ?」
俺に向かって首をかしげる彼方。横では、一人恰好つけて万札をチラつかせる鷲津がいた。
「全員揃っているようですね」
最後に悠々登場した心は、スタイルといい服装といい、ファッション雑誌の表紙を飾れるほどの美しさを持っていた。よく見れば、昨日買った耳当てをしてくれている。そんなに気に入ったのだろうか。
「おぉ! 心様、今日もお美しい」
「誰です? こんなのを呼んだのは?」
こんなの呼ばわりとは……。
俺は手をあげるのを止めた。
「なぁ心。一体どこに行くんだ?」
「それは、着いてからのお楽しみですよ」
まぁ、大体予想はついているのだが……。
「では、行きましょうか」
俺たち三人は、目的地を知らされないまま、心の後を付いていった。
駅前を集合場所にしたからには、さすがに電車には乗るのではないかという発想は、誰にでもあった事だろう。目的地を予想していた俺でさえ、少しは期待したものだ。例えば、隣町に新しくできた大型ショッピングモールだとか、ちょっと遠出して、冬でも入れる温水プールだとか。いや、水着を持ってこいという指令は下っていないので、それはないか。
とにもかくにも、俺たちが歩いたのは、何度も通った見飽きた道だった。俺に至っては、さっき通った道だ。しかも目的地は予想通り。
「到着です」
鳥谷記念動物園だった。
「心? もしかしてここ?」
「そうよ?」
いや、彼方がそう言うのも無理ないよな。この町の住人なら何度も訪れた事があるだろうこの場所は、別に改まって遊ぶような場所ではないのだから。
「彼方は不服ですか?」
「いや、そういう意味ではないんだけどね」
微妙な笑みを浮かべる彼方を横目に、鷲津は一人興奮していた。こいつの場合、心と一緒にいれればどこでも桃源郷になるのだろう。
「動物園の前で立ち話もなんですし、とにかく中に入りましょう」
心を先頭に、俺たちはチケット売り場でチケットを買った後、ぞろぞろと人の群れに混ざって中に入った。もちろん女子陣の支払いは俺たちが払った。いや、正確に言うと鷲津が――だな。
よくよく考えると、俺はお金を払って入る必要はなかったのだが、俺のおごりではない事を知った嬉しさが、そんな俺の思考回路を破壊していた。そして、ここが俺にとっては良い場所でない事もだ。
「うわぁ、猿だ!」
いつもは男勝りで通っている彼方が、いきなり女の子らしくなったのは、ニホンザルの檻にたどり着いた時だった。
「あたし猿大好きなんだよな! 特にこのプリティーなお尻がいいよね」
そうか? 俺にはただの赤い尻にしか見えないけどな。でも、猿が可愛いのは否定しないよ。
『奴さん。良く分かってるじゃねぇですかい』
そう。何故今まで気づかなかったのか不思議なくらい、俺は無意識だった。ここは動物園。もちろんいつものように動物たちは俺に話しかけてくる。だが、彼方や鷲津の前で喋ることはできない。俺はひたすら無視をし続けなければならない地獄に飛び込んでいたのだ。体験したことのない人には分からないかもしれないが、結構きついんだよ。
『鮫島さん。今日はプライベートですかい? 可愛いお嬢さん方なんて連れて、いいですねぇ』
無視だ! 無視をし続けろ!
「見て見て湊! このお猿さん、あたし達に何か話しかけてるみたい」
正確には、俺に話しかけているんだけどな。
『あれ? あっ、そうでした。鮫島さんが動物と話せるのは、みなさん知らないんでしたっけ。すいやせん』
ここがウキ丸の檻で良かったと、つくづく思った。こいつは少なからず俺の事を知っているからな。理解が早くて助かるよ。
「なんて言っているんですか? このお猿さんは」
心が俺に耳打ちしてくる。こいつ分かってて動物園をチョイスしたな。信じられない奴だ。
「別に、何も言ってねぇよ」
少し言葉が強くなった。流石に頭に来ることだってあるんだよ。
「そうですか。でもごめんなさい。本当に動物園には来たかったの。湊が動物と喋れる事を忘れるくらい」
あまり人を疑う事はしたくないが、今回ばかりは無理だ。何を聞いても嘘にしか思えん。
「何やってんの? 湊もこっちに来なって!」
檻にしがみつく勢いで猿に興味津々な彼方の横に、俺はそそくさと歩み寄った。
「このお猿さん。名前なんて言うの?」
「ん? ウキ丸だ」
「ウキ丸! こっち向いて!」
携帯を構えながら、彼方はウキ丸に声をかけた。
『ん? 写真ですかい? いいですよ。今日は鮫島さんに免じて出血大サービスでさ』
何をするのかと思いきや、熟した果実のようなケツをこっちに向けてきた。
「あまり、見れたものじゃありませんね」
「ああ。アニメや漫画で描かれているほど綺麗じゃないからな」
後ろの方で心が呟く。確かにおっしゃる通りで。
「きゃぁ! 最高よウキ丸!」
逆に横では、彼方が大興奮していた。よくもまぁ、そんなものを写真に残せるよな。
「汚いケツだな。こんな猿のどこがいいんだか」
今までずっと沈黙を保っていた鷲津は、開口一番そんな事を言った。
「なんですって?」
もちろん彼方の反感はかったのだが、それ以上にニホンザルどもを怒らせたのは言うまでもないだろう。
『鮫島さん。いくらあなたの連れとはいえ、言っていい事と悪い事ってのがありますぁ』
その通りだとも。俺はうんうんと頷く。
『いいですかい? やっちまいまっても』
俺は、ウキ丸にだけ見えるように、親指を立てた。
『かかれぇ!』
ウキ丸の怒号と共に、ニホンザルの一斉放射が放たれた。武器は糞。狙いは鷲津。まさにその正確さは、最新鋭の追跡ミサイルほどのものだった。檻の外からは標的まで五メートルはあるのだが、ほとんどが鷲津に命中。その場に奴は倒れ込んだ。
「あんたが悪い」
「そうだな」
「臭いので近寄らないでください」
俺たちにまで見放された鷲津は、うんこまみれになりながら、天を仰ぐように、
「天気予報って、当たらないんだな」
とだけ言って、水道に走り去った。
『ちょっとやりすぎましたか?』
「問題ない」
他の誰にも聞こえないように、俺はウキ丸に耳打ちした後、
「関係者の控室にシャワールームがあるから、とりあえず体洗ってこいよ。俺から園長に話しといてやるから」
と、水道で顔を洗う鷲津を促した。
「友よぉ!」
「近寄んな!」
その体で近寄られるのは本気で嫌だ。しかも、他の人にも迷惑だし。
携帯を取り出し、園長に電話する。二回ほど呼び出し音が鳴った後、園長の声が耳に響いた。俺は一通り説明をした後、のけ者にするかのように鷲津を控室に行かせた。
「では、私たちは他のところを周りましょうか」
心も彼方も、動物好きなのは前々かたら知っていたが、多種多様な動物たちを目の前にしてはしゃぐ姿は、まるで子供のようで愛らしかった。俺はと言うと、その二人の後を付いて行っては動物たちに冷やかされていた。それでも、楽しいと思える時間があったのは嘘ではない。
『湊! あっ! あんたはこの前の!』
ライオンの檻に着くまでは……。
「湊。私、今日は本当に楽しいです」
ライナのいる檻に着いた途端、俺の腕にしがみついてくる心。
『あんた、湊から離れなさいよ!』
もとよりこれが目的だったのかもしれない。この前の一件で、ライナと心の中の悪さは明白だ。心の算段では、檻の中で身動きの取れないライナに、俺と仲良くしているところを見せ付けたかったのだろう。
「湊。動物園って、本当に楽しいですね」
さらに寄り添ってくる心。胸! 胸が当たってる!
『いい加減にしなさいよ! とっとと湊から離れろ!』
ライナ……。お前がいくら叫んだところで、その声は俺にしか届かないぞ。
「何やってんだよ心。そんなにくっつくなよ!」
ここで、本日最大の修羅場を迎えた。心の算段通りに行けば、嫉妬の炎に燃えるのはライナだけのはずだった。だが、ここで思わぬ伏兵が入った。もちろん、俺にとっては悪い方にしか傾かないのだが。
「彼方? いきなりなんですか」
「心だけなんで抜け駆けしてんだって言ったんだよ。あたしだって、楽しいんだよ」
俺の空いていた左腕。そちらにも柔らかい感触が伝わってきた。心も彼方も、ベクトルが違うだけで美少女という同じ枠組みの中にいるのは周知の事実であり、その二人に取り合われている俺は、とても幸せ者なのだろう。
『なによ! もしかして、この前湊が手玉に取ってた女ってこいつ?』
手玉には取ってないけど、間違ってはいないよ。
「って! やめろこら! 恥ずかしいだろうが!」
そこで初めて、俺が注目の的になっている事に気づいた。平日とはいえ、それなりに人はいるし、ライオンが雄叫びをあげている前でそんな事をしていたら、俺じゃなくても注目される。
「彼方? 離しなさいよ」
「心こそ。湊に気がある訳でもなかろうに」
「そういうあなたはどうなのです?」
「あたしは……まぁまぁよ」
まぁまぁなら、こんなことすんなや!
「私だって、まぁまぁですよ」
あれ? なんかおかしくね?
『湊! 私は好きよ! だがらそこのクソアマ! とっとと湊から離れろ!』
ごめん。今は何を言われても嬉しくないや。
「心! 離せって!」
「彼方もいい加減になさい!」
『湊! こっちに来て!』
その時、俺の中で何かが切れた。ような気がする。
「やめろ!」
柄にもなく大声で怒鳴ってしまった。
「お前らいい加減にしろよ。なんなんだよ、楽しくやってたのに。これじゃちっとも楽しくねんだよ!」
そう言い捨て、俺は出口の方に歩き出した。あれだけ声を上げていた二人と一匹も黙ったまま立ちすくんでいたし、野次馬も解散していった。俺は、人をかき分ける事もなく、ただ漠然と足を動かしていた。
『お前は、本当にガキじゃのぉ』
睨みつけるように声の主を見ると、そこには威圧感をひしひしと出す虎さんの姿があった。ライオンの檻からは、ほとんど離れていない。振り返ると、まだあの二人は立ちすくんでいた。ライナは檻の奥に行ってしまったようだ。
『女ってもんは、独占欲が強くてわがままな生き物じゃけぇ。でもな、男よりも寂しがり屋なだけなんじゃ。だからこそ、男はその女の一人や二人取り込むくらい大きな心を持たないかん』
一部始終を見ていたのであろう。虎さんは、少し怒っているように感じた。
『それを、怒鳴って女を怯えさせ、そんなんガキでもできることじゃけぇ。いい加減にするのはお前なんじゃないのか?』
その通りだ。まったく、さっきの俺が恥ずかしい。
「……俺、謝ってきます」
『皆そうやって、大人になっていくんじゃ』
二人の元に走って行く俺の背中に、虎さんは語りかけるように言った。本当に、虎さんだけは尊敬するよ。
「湊?」
「あのさ、湊」
少し走っただけなのに、息が切れて膝に手をついてしまった。
「はぁはぁはぁ――あのさ、俺が悪かった!」
息を整え、俺は頭を下げた。
「いや。私こそ、ごめんなさい」
「あたしも、情けない事した。ごめん」
滅多に聞けない心の謝罪シーンだが、そんなものをムービー取っている暇はなかったので、俺の脳というメモリーディスクに保存しておいた。
「それでさ――」
「おーい!」
ちょうどいいところに、うんこマンが帰ってきた。これはチャンスでもある。俺は、今言おうとしたことを、頭の中で素早く改ざんし、言葉として表現することに成功した。
「これから、あいつのおごりで、遅いランチでも行こうか」
提案したのは俺だが、その場所を決めたのは心と彼方だった。一方、おごる事に強制的に決まってしまった鷲津だが、今日は諭吉を持っているという事もあり、どこか自信満々の顔をしていた。だが、それは目的地に近づくにつれ、蒼白なものへと変貌を遂げて行った。
俺たちが足を踏み入れたのは、政治家や各界の著名人が行きそうな料亭だった。小僧がそう易々と来てはいけない雰囲気が流れながらも、平然と前を歩く心は流石だと思った。それに引き替え、鷲津は小刻みに震えていた。別にトイレを我慢している訳ではないだろう。俺と彼方は多少緊張しているものの、初めて来た訳でもないので、訳の分かっていない鷲津よりは平然を保っていた。
女将に案内されたのは、国宝のような庭園を一望できる広い和室だった。
「座って」
という心の一言で、俺たちは元々置かれていたテーブルを囲んだ。鷲津は青ざめた顔で下を向いているが、何を考えているかは一目瞭然だった。
これほどの料亭だ。例え一人一品ずつを頼んだとしても、諭吉単体でどうにかなるようなレベルではないことを、鷲津も薄々感じているのだろう。
そんな俺たちに、ここまで案内してくれた女将が、綺麗な正座をしたまま口を開いた。
「今日は良く来てくれました。心がお友達を連れてくる事は滅多にないので、今日はおもてなしさせていただきます」
ご丁寧に頭を下げてくる女将に対して、俺たちも深々と頭を下げる。未だに状況を把握できていない鷲津は、ふざけた顔をすることなく上の空になっていた。
「料理が来るまで、普通にくつろいでください。どうです? 人生ゲームでも」
「俺はいいけど」
「あたしもやるよ」
「…………」
「では、少し待っていてください」
そう言って、一度部屋を後にした心。俺はそこで、初めてくつろぐ事が出来た。
「彼方。お前も初めてじゃないんだろ?」
「うん。でも、何回来ても緊張する」
同感だ。俺だってこんな所あまり来たくない。なんというか、空気に押しつぶされるような錯覚に陥る。
「……お前ら。ここにはよく来るのか?」
今まで黙っていた鷲津が、ようやく口を開いた。だが、その顔はいまだに死人のようだ。
「良くって訳じゃないが、どちらかと言うと来た事があるって感じだな」
わざと核心に触れない言い方をする。
「そうか。じゃあ、ここってどれくらいの値段なんだ?」
やっぱり気にしてるか。そりゃそうだよな。俺が鷲津の立場だったら逃げ出してる。
「そうだな。俺は払った事ないから分かんないけど、諭吉数枚じゃ到底無理な値段だな」
「だよな……」
そろそろ可愛そうになってきたな。今日は糞まみれになった上に、高級料亭の会計まで任されたとなると、さすがの鷲津でも発狂しかねん。
俺は、彼方に目配りをして、ネタばらしをすることにした。
「安心しろ。あの女将はママだ」
「飲み屋のママとは訳がちげーだろ!」
おっと。勘違いを生んでしまったようだ。
「違うよ。あれは心のお母さんなんだよ」
「何がお母さん……え? お母さん?」
「うん」
「誰の?」
「心の」
「そんな馬鹿なぁ」
まぁそう簡単には信じられないよな。
「本当よ」
「――心様?」
人生ゲームを取りに行ったはずなのだが、何故かおまけでミネまでついて来ていた。果たして、ここは犬が我が物顔で歩いていても良い場所なのだろうか。
「ここは私の自宅です。だから、あなたがお金を払う必要はありませんし、緊張する必要もありません」
とは言っても、こういう雰囲気は慣れてないんだよ。初めてのお誕生日会とか、そういう感じの緊張感があるんだよ。
横を見ると、死人のような顔をしていた鷲津の顔に、みるみる生気が戻って行った。
『湊さん。今日もハーレム楽しみにしていますから』
心は何故ミネを連れてきたのだろう。影で何言われているか分からないのに。
「では、やりましょうか」
そう言って、畳の上に広がった人生ゲームを囲んだ俺たちは、順番にルーレットを回し始めた。
「お待たせいたしました」
女将と共に料理が運ばれてきたのは、丁度俺の職業がサラリーマンからスポーツ選手になった時だった。中盤の謎の職業格上げ。それは人生ゲームの醍醐味とも言えよう。現実だったら、そんなサクセスストーリーを本として出版できるだろう。
だが残念な事に、料理到着と共に大幅アップした俺の給料は水の泡となった。でも、仕方ない。こんなに豪華な料理を前に、人生ゲームなどできる訳がない。そう、目の前には名前も知らないような料理がずらりと並んでいる。分かるのは、和食だと言う事だけ。彼方も口を堅く閉じ、鷲津に至っては、もし漫画だったら目が飛び出しているような顔をしていた。
「どうぞ、ごゆっくり」
そう言って、女将は姿を消した。ごゆっくりと言われてもな……。
「遠慮しないで食べてください。お母さんったら、張り切りすぎて量を用意しすぎたみたいですが、男の子がいますから大丈夫ですよね」
『は、はい』
俺と鷲津の声が重なる。確かに美味そう、というより間違いなく美味いだろう。だが、この量は牛丼屋の特盛三倍分くらいの胃袋が無ければ入らないのではないか?
「おい、鷲津」
「皆まで言うな。分かってる。せっかく心様のお母様が用意してくれた料理だ。残す訳にもいくまい」
「分かってるじゃねぇか。じゃあ、いくか」
「おう」
俺たちは、すさまじい勢いで料理を食べ始めた。しっかり噛んで味わえという言葉があるが、失礼ながらそんな余裕はなかった。
「もう湊。ご飯粒がついてます」
「ん?」
心は、俺の正面から口元に手を伸ばしたと思うと、そこから取ったご飯粒を、自分の口の中に入れた。
「な!」
「この野郎!」
彼方の声っぽい何かと、鷲津の怒り狂う声が耳に入ってくる。
「やめろ! 自分で取れっ――」
やべ! 喉に魚の小骨が……。苦しい!
「湊! ほら、ご飯を飲み込むんだ! ほら口開けて!」
横からの彼方の素早い対応で、何とか窒息は間逃れたものの、状況は悪化していたようだ。
「なんで湊ばかりぃぃぃ! ぐわっ! 俺も喉に!」
「湊。お水をどうぞ」
「湊、あんた肉好きよね? あたしのあげるわ」
苦しむ演技をする鷲津を無視して、女子二人は火花を散らしていた。
『いいわ。本当に湊さんは最高よ』
このクソ犬! 俺は犬が大好きだが、お前だけは好きになれそうにないぜ。
「うっ! ホントに骨が!」
「彼方? 湊は先にお水を飲みたいそうよ?」
「何言ってんの? どっからどう見ても、肉を食べたそうな顔をしてんじゃない!」
もうどっちも食べるし飲むからさ。誰か鷲津を助けてやってくれ……。
「……もう食えねぇ」
「……湊。もし満腹で死んだら、ネタにしてくれて構わないからな」
「……分かった」
俺たちは、破裂寸前の胃袋を抑えながら、畳で仰向けになって倒れていた。波乱の昼食が終わり、俺たちは人生ゲームを続ける事になったのだが、あの調子では結婚の時に面倒なことになりそうだったので、俺から別の遊びに変える事を提案した。色々な案が出たが、結局無難なトランプに決まったまでは良かった。途中、俺たち二人の胃袋が悲鳴を上げ始めたのだ。結果的には、トランプを始める事なく俺たち二人はダウン。女子二人はガールズトークに花を咲かせていた。
不意に、頬を湿ったものが伝ってきた。
『しっかりしてください。湊さんは、まだまだこんなものじゃないはずです』
頬を伝ってきたのは、ミネの舌だった。一体俺のどこがこんなものじゃないのかは分からないが、こう心配してくれる姿はやはりただのゴールデンレトリバーだ。黙っていれば思わずくしゃくしゃにしたくなる。
『早く起き上がって愛憎劇を繰り広げてくださいよ』
前言撤回。嫌がらせのようにくしゃくしゃにしてやる。
「なぁ湊」
「なんだ?」
二人で仲よく寝っころがっている状態で、天井に言うように鷲津は声を発した。
「お前、心様と彼方、どっちを選ぶんだ?」
何を言うかと思えば、根拠のない事を。
「どっちも選ばないよ。二人は友達だ」
「お前はそうでも、あっちはそうは思っていないんじゃないか? 認めたくはないが、心様は少なからずお前に気があるだろう。もちろん彼方もだ。でも、お前は二人同時に選ぶことはできないんだぞ?」
百歩譲ってそうだとしてもだ、俺にはどちらかを選ぶ事などできるのだろうか? くそっ! 鷲津のせいで考えさせられちまったじゃねぇか。
『この男の言う通りです。心さんは初めて会った時、つまり、あなたが私を助けてくれた時から、ずっと湊さんに好意を持っていたと思います。ただ、それを表現するのが下手なだけで、それは彼方さんも同じです』
主の秘密をこうもばらしていいのだろうか。だがそれが事実だとしても、俺はいずれ……。
『今すぐにとは言いません』
「いずれ答えは出すんだぞ」
問題の二人に目を向ける。仲よさそうに会話をしている二人の笑顔を、俺は守ることができるのだろうか。いや、シリアスなのは好きじゃない。いずれ答えを出さなくてはならないとしても、それまでは、このままがいいな。
その時、和室に電話の着信音が響き渡った。咄嗟に携帯を見る。俺以外の三人も携帯を手に持つ。流石は習慣付いた行動だ。体が勝手に動く。
その中で、携帯を耳に当てたのは心だった。今思うと、初期から入っている着信音に設定している俺とは、まったく違った華やかな着信音だった。
「もしもし、お兄様ですか?」
お兄様という事は、電話の相手は蟹沢さんだ。実のお兄さんじゃないが、従兄の蟹沢さんの事を、心はお兄様と呼んでいた。
「え? 心ってお兄さんいんの?」
俺に耳打ちしてくる彼方。俺は起き上がったまま、
「従兄のお兄さんだよ。蟹沢さんって言って、俺に動物園のバイトを進めてくれた人だ」
と、説明した。
それだけで大方の納得はしてくれたようで、それを境に誰も口を開かなかった。心はと言うと、電話の内容までは聞こえないものの、こちらを気にしつつも電話を続けていた。
と、その時だった。俺は見覚えのあるものを見つけた。それは、今まさに心が耳に当てているその携帯――ではなく、それについているストラップだった。特に変哲のないストラップで、普通なら気にもならないような代物だ。その証拠に、俺は今まで気が付かなかったんだからな。むしろ、そこに興味がなかったと言っても過言ではない。
目を凝らす。ウサギのような熊のような、まぁ良く分からない動物の人形が先についたストラップ。俺はそれに見覚えがあった。今は持ち歩いていないので確認はできないが、ほぼ間違いなくライナの檻に落ちていたというあの人形と同じものだ。
俺の記憶の中の人形と、大きさも色もすべてが一致する。唯一違うのは、紐がついているかいないかというところだけだ。そうか。背中のところに小さな穴が開いていたと思ったら、あれは紐を通す金具が刺さっていた跡だったのか。
淡々と電話を続ける心を、一瞬疑いの目で見てしまったのは、俺が探偵でも警察でもないからだろう。浅はかな推理で、俺は電話を終えた心に言った。
「そのストラップ。どうしたんだ?」
どうしただ? 誰かに貰ったか、それこそ自分で買ったかのどちらかに決まってるじゃないか。馬鹿か俺は。
「なんでそんなこと?」
「いいから」
彼氏が彼女に問い詰めるような、そんな緊迫した会話が続いた。彼方も鷲津も、そしてミネでさえ、俺の真面目なオーラを感じ取ったのか、口を開こうとはしなかった。
「どうなんだ?」
これじゃ、拷問じゃないか。
「貰ったんです」
「誰に?」
「――に」
え?
今……なんて言った?
いや待て。まだ確定した訳じゃない。あのストラップが大量生産されているなら、証拠にはならないはずだ。
「じゃぁ、もう一つ。それはどこにでも売っているものなのか?」
「いえ。手作りだと言ってました」
ははは。嘘だろ?
だが、そのストラップだけが、真実を物語っていた……。
それからの事はあまり覚えていない。どうやって家に帰ったかすらあやふやだ。俺の頭の中は、あの事でいっぱいだった。
何故、そんな事をしたのか。
いや、まだ確定した訳じゃない。
そんな事を考えているうちに、朝を迎え、学校に行き、そして帰ってくる。さすがに顔色が良くないように見えたのだろう。道行く動物たちは心配をしてくれた。学校に行けば、心や彼方が俺の事を気遣ってくれた。鷲津なんて牛乳を奢ってくれた。家に帰れば、両親に妹、そして、
『いつまで悩んでるんだい? 女の腐ったのみたいにいつまでも。気になることがあるんだったら男らしく、その腕で、その足で、決着つけてきなさい!』
何よりミミが、俺の背中を押してくれた。
いつかの虎さんの言葉を思い出す。
『男には、気張らないけん時があるんじゃ』
それはいつだ?
今じゃないのか?
確かに、信じたくない、目を瞑りたい事実が目の前にあるかもしれない。丸一日、俺はどうやってその事実から逃げるかを考えていたのか?
そうじゃないだろ!
『逃げるな。背中を見せるな。その行為は男の恥だと思え』
そうだ。逃げるな。
今日は木曜日。決戦は、明後日だ。
そう心に誓った俺は、昨日とは打って変わって晴れやかな顔で学校に向かった。まるで憑き物が落ちたようだと皆に言われ、動物たちには昨日より余計に声をかけられた。これだけ心配されていたと思うと、昨日自分が情けない。
だが、もう俺は迷わない。結果がどうあれ、俺は正しい事をする。例えそれが、誰かが悲しむ結果だったとしても……。
学校帰り。茜色に染まるアスファルトの先。久々に見る顔が、俺の前に現れた。
『ご無沙汰です』
「おう。元気にしてたか、ミケ」
『へぇ。おかげさまで』
三毛猫のミケ。性別はオス。今週の始めに、心が見つけて俺が通訳した猫だ。俺の、動物と喋れる病の原因、さらには治療法を探しに行くと言って、それっきり顔を見せなかったが、久々に俺の前に現れた。
「今日はどうした? 俺の病の原因でも見つかったか?」
冗談半分で言った。病だとは感じてはいないし、何よりここ三か月探し回っても分からなかった原因が、たった一週間足らずで見つかる訳がなかった。
『その事で、一つ分かった事があってな。それを報告するため、馳せ参じた』
「なに?」
野良の情報網とやらを、俺は甘く見ていたようだ。
『東北の方の知り合いから聞いた話なんだが、昔、兄ちゃんみたいに動物と会話できる奴がいたそうだ』
「事例があったのか?」
『あぁ。だが、兄ちゃんとまったく同じだという訳ではないみたいで、どの動物ともという訳にはいかなかったらしく、猫限定だったそうだ』
確かに、そこは俺とは違うみたいだ。俺は見境なくどの動物とも喋れるからな。
『結局、その人は猫と話せなくなったみたいなんだが、そのきっかけってのが、お祓いだったそうだ』
「お祓い?」
『あぁ。つまり、取り憑かれていた、という事になる。しかも、動物の霊に』
動物の幽霊に取り憑かれたから、猫と喋れるようになっただと? そんな事があり得るのか?
『なんでも、お祓いという形を取らなくても、その霊が消滅すれば自然と話せなくなっていくらしい』
「じゃぁ何だ? 俺は今幽霊に取り憑かれてるって事なのか?」
『いや。それはない』
「は? なんで分かるんだよ」
『自分ら動物ってのは、霊感が人間より数倍強いんだ。それだけの力をもった幽霊が、もし兄ちゃんに取り憑いていたら、普通分かるからな』
確かに。動物は霊感が強いという話は聞いたことがある。テレビとかで、良く犬が何もないとこに吠えていたりするからな。その時の犬の言葉は今でも忘れられない。
『おい! お前なんで浮いているだ!』
だもんな。あの時、俺は初めて幽霊の存在を信じたね。
「結局、俺の原因は分からずって事か」
『あぁ。まだ確信には着いていない。すまないな』
「いや、俺と同じような奴がいたってだけで進歩だ。また地道に探すさ。だからありがとよ」
俺はそう言って、ミケに手を振った。正直、原因が分からなかったのは残念だが、それでもミケは良くやってくれた。
『兄ちゃん。あともう一つあるんだけどよ』
立ち去ろうとする俺の前に回り込んできたミケは、あたりを見回しながら鼻をひくつかせていた。
『この町。なんだかおかしいぞ。前より騒がしいというか、人間の匂いを動物の匂いが消していると言うか……』
そうミケの言葉が耳に入った時、俺のブレザーの内ポケットから聞きなれた着信音が鳴った。
「ん? 誰だ?」
ディスプレイには、熊井園長の名前が掲示されていた。いったいなんだ? 明日の出勤の事かな?
「もしもし? 鮫島ですけど?」
『もしもし!』
どこか焦りを感じさせる声。あれ? デジャヴ?
「園長ですか?」
『鮫島君か? 今どこにいる?』
嫌な予感しかしない。
「ここは、学校と家の間くらいですかね」
またライナが逃げだしたとか?
『今すぐ、動物園に来てくれないか?』
いや、あいつは人に迷惑はかけないと誓った。その言葉に、嘘偽りはないはずだ。
「どうしたんです?」
『動物たちが、逃げ出したんだ!』
冗談では済まされない事態が、すでに起こっていた。