第四章
『今日は、湊の家で過ごしたい』
帰り道。そんな家出少女のような事を言ったのはライナだった。そんな事を了承することなどできるはずがなく、俺は適当にあしらった。だが、あまりにもライナがうるさい為に、俺は一度園長に連絡することにした。時刻は十一時を越えている。よくよく考えたら、それが問題だったのかもしれない。
『え? 家に連れて行く? それは助かるな。もう時間が遅いからセキュリティーが効いていてね。動物園にどうやって戻すか悩んでいたところなんだ。鮫島君が良ければ、明日までライナを預かってくれないか?』
なんでそうなる! 普通おかしいでしょうが。
まさかの宣告を受けた電話を切ると、
『なんだって?』
と、ライナが興味津々の様子で俺の顔を覗きこんできた。
「……いいって」
『ホントに? やった!』
明らかに喜ぶ様子のライナを見て、
「本当に湊君の事が好きみたいね。そのライオン」
と言ってきたのは心だった。
「……色々と苦労はあるんだぞ?」
「それは察するわ」
さすがに女の夜道は危ないという事もあり、心を家の前まで送っていくことになったのだが、普通に考えてライオンと犬というボディーガードを従えた女を襲おうと思う輩はいないだろう。俺だったら間違いなく逃げるね。
『湊さん。モテモテじゃないですか』
「それは冷やかしてるのか?」
『違いますよ。羨ましいと言っているだけです』
まったく。ミネはとんだ狂犬だ。飼い主の色恋沙汰にまで顔を突っ込んでくるとは。いや、心が俺をどう思っているかはまだ分からないが。
『ねぇ湊。さっきから思ってたんだけど、この女誰よ?』
始まったよ。めんどくせーな。
「俺の友達の女の子。一緒にお前を探してくれたんだから、そんな言い方すんな」
『ふーん。どうも』
そう言って、ライナが心に向かって会釈なようなものをした。
「あら、私の事気にかけているの? どうも、犬塚心です」
『ライナよ』
会話は成り立っていないはずなのに、何だこの険悪な雰囲気は。
『湊の彼女?』
「ちげーよ!」
おっと、落ち着け俺。
「今彼女はなんて?」
「いや、なんでもないよ」
「そうですか」
ミネ。助けてくれ!
『私、こんな昼ドラみたいな泥沼展開が大好きなんですよね』
そう言いながら怪しい極上スマイルを向けてくるミネ。笑いごとじゃねぇからな!
「湊君。ここまででいいですよ」
「え? なんで?」
俺にはまたとない吉報だが、本当にいいのだろうか。
「もうすぐですし、ミネもいますから」
まぁ、ミネがいれば安心か。
「そっか。じゃぁまた明日だな」
「あっ! ちょっと待ってください」
立ち去ろうとした時、背中に声がかかる。
「なんだ?」
と、俺は振り返りながら口を開いた。
「湊君。今日のお礼は何でもしてくれるんですよね?」
いや、何でもと言った覚えはない。あれ? ものすごく嫌な予感がするのは俺だけだろうか……。
「明後日、私とデートしましょう? それがお礼でいいです」
「お前、何言って――」
「いいですね? 詳しい事は明日の学校で。では、また明日です、湊」
そう言って、俺たちに背中を向けて歩いて行った。その後ろ姿に俺は、
「え、あ、じゃあ……な」
と、小さく声をかけることしかできなかった。
心に湊と呼び捨てにされたのは初めてだ。しかも、どこか頬を赤らめていたような気がする。だがそれは、地球が動いたような気がしたというのと同じレベルの錯覚だろう。
『何あの女! 最後私見て笑ったんだけど!』
さっきの一件以来、どうやら心の射程圏内にライナが入ったようだ。何が原因かは不確定だが、できれば仲良くやってほしい。
『ほら! いつまで鼻の下伸ばしてるのよ! さっさと帰るわよ!』
「おう」
どうやら鼻の下を伸びていたようだが俺にそんな自覚はなく、不機嫌なだけのライナに八つ当たりのように引っ張られていった。
『お帰りなさい』
部屋で出迎えてくれたのは、いつも通り綺麗な毛並みした黒猫だった。家に帰った俺たちは足音をなるべく立てないように部屋に向かったのだが、一体何故俺がこそこそしなきゃいけなのかは、後ろにいるライオンのせいなのは間違いない。夜が遅いからなんてのは建前で、もちろん家にライオンを連れてくるなんて家族が知ったら卒倒もんだからだ。
「ただいま。ほらっ! 入れ」
『おじゃまします』
いつもとは裏腹に、体を丸めて部屋に入るライナ。流石にそこは女という訳か。いや、雌か。
『随分と珍しいお客じゃないの』
「これが珍しいで済むか?」
ライオンの客なんて聞いたことがない。珍しいで済むなら警察はいらない。
『確かに済まないかもしれないね。どうも、ライオンさん』
ミミは、ゆっくりと首を曲げるようにして挨拶した。ライナは俺の部屋に入るや否や、なめるように見回していたが、声がかけられたのに気づくと姿勢を正してミミのように首を曲げた。
『あ、お邪魔します。私、湊の婚約者のライナです』
「違うわ!」
やば! 夜遅いのに声を荒げてしまった。
『へぇ。あんたもやるじゃないのさ。夕方に人間の女と遊んで、夜はライオンかい? いいご身分だこと』
「それも違うっての! てか何で彼方と遊んだ事知ってんだよ?」
『私を誰だと思っているんだい?』
うちの飼い猫だよ。それ以上でも以下でもない。
『いったい誰よ、その夕方の女って?』
ほら、ややこしい事になった!
「誰でもねぇよ。ただの友達――って、何で俺は一生懸命言い訳してんだ」
『それはあんたに引け目があるからじゃないのかい?』
『そうよ!』
あぁ、めんどくせ!
『私たち、なんだか気が合いそうじゃない』
『そうみたいね。あれ? あんた……』
ライナが首をかしげる。同じ猫科の動物だ。気になることもあるのだろう。
『……そういう事か』
そして一人で何かを納得したようだ。まぁ、動物には動物しか分からない事ってのもあるんだろう。
「どうした?」
『なんでもないわ。それより、黒猫さんの名前を聞いてなかったわ』
『私はミミよ。よろしく』
『はい。よろしくお願いします』
今の挨拶に不自然な部分は見当たらなかった。ただ不自然なところがあるとすれば、その背景。俺ん家の、しかの玄関でやめてくれませんか?
『お風呂にでも入ってくれば?』
ミミは俺とライナの間に座ってそんな事を言った。時計が知らせる時刻は、もうすぐ日にちが変わろうとしている。俺が一人で風呂に入るのさえ気が引けると言うのに、ましてやライオンを連れて入るなんて問題外だ。
『私、お風呂入りたい』
何故か下から見上げるように俺を見てくるライナだが、その技は人間の女性がやってこそ効果があるものだ。ライオンのお前がやったところで、俺の心が揺れることはないぞ。
『……湊。お願い』
断固拒否する!
『入れてあげなよ。あんたはレディーの扱い方も知らないのかい?』
余計なお世話だ。俺は俺で女性に対しては優しいつもりだ。
『……お願い』
こらこら! 体を擦り付けてくるな!
『ほら、あんた』
ミミに関してはまったく関係ないのに、俺の足元に頭を擦りつけてきた。だが、俺は……。
『みなとぉ』
『ほら湊』
「あぁ! もう分かったよ! 風呂に入れればいいんだろ?」
意思が弱いな俺は……。
『やった! じゃあ、さっそく行きましょう!』
「はいはい」
『ごゆっくり』
「……はいはい」
肩を落としたまま、一度部屋に向かい、衣服を取ってすぐに部屋を出た。暗い廊下や階段には、まるで人の気配がない。板が軋む事は無いにしろ靴下は脱いでいるので、一歩一歩些細な音がした。いつもなら気にならないような小さな音だが、今は壁を叩くほどの大きな音に感じる。ライナも忍び足で歩いている。気を使ってくれているのだろうか。
そんなこんなで最大の難関であった階段を降りきり、俺は脱衣所の扉をゆっくりと開けた。
「ライナ。お前お湯は大丈夫なのか?」
『大丈夫だと思うわ。試したことはないけど』
俺は、お湯の温度を温水プールより少し暖かい程度に設定し、服に手をかけた。
『ななな、何してるのよ!』
「何って、服脱いでんだけど」
『女の子の前で、いきなり服なんて脱ぐんじゃないわよ!』
「は? じゃないと俺も風呂入れねぇじゃん」
『なんで湊も一緒に入るのよ!』
「いや、汗かいたし」
『理由になってない!』
なってるだろうが! いちいちうるさいライオン様だ。
「分かったよ。ちょっと待ってろ」
そう言って俺は一度脱衣所を出た。足音を立てないように忍び足で部屋に向かい、またもや音を立てないように扉を開けた。
『あら。随分と早いじゃない』
部屋ではミミがいつものように俺のベッドの上でくつろいでいた。
「ちげーよ。ライナが裸になるなとか言うから、水着を取りに来たんだよ」
『色々と大変ね』
「もとはと言えば、ミミのせいだからな!」
『そう? なら反省しておくわ』
まったく反省の色を見せないミミを横目に、俺はタンスをあさった。季節は初冬。水着なんてどこに行ったか分からない。とりあえず奥の方にあるはずだから、手前の服を雑に取り出す。
「あった!」
案の定タンスの奥に封印されていた水着を取り出し、俺はその場で履き替えた。
『ここで着替えていくの?』
「当たり前だろ? あっちで着替えたら意味ねぇじゃんか」
『それもそうね』
とっととパンツを脱ぎ、久々の水着を履く。長く忘れていた感触は、一瞬でも夏だという気分にさせてくれる。だが、今は冬。普通に身体は寒いと感じていた。俺は凍える体を抱きしめ、部屋を後にした。
慣れてきたのか、忍び足が上達したような気がする。さっきよりも素早い行動が可能になった。新たなスキルは最高の緊張感で身につくと誰かが言っていたような気がするが、まさにその通りだな。
脱衣所の扉を開けようとした時、ドアノブに何か引っかかるような感触があった。何度も体験したことのあるそれは、良く公共のトイレなどで体験することだった。
そう。鍵が閉まっていた。
二度、廊下に響かないようにノックする。中にいるのはライナだけのはず。なんであいつ鍵なんて閉めてんだ。
『誰?』
「俺だ」
ライナにだけ聞こえるような小さな声で、俺が鮫島湊であることを伝える。
「お前なんで鍵なんて閉めてんだ。早く開けてくれ」
『そんな事言われても、どうやってやったか分からないの』
「そんなもん、ドアノブの上にある鍵を立てに直せばいいんだよ」
うちの鍵は、世間一般のそれと変わらない様式の物だ。ドアノブの上に鍵が付いていて、それが横になっていれば閉まっているという事だ。治し方は万人が知っているように、縦に戻せばいいだけの話なのだが……。
『それができないから苦労してるのよ!』
じゃぁどうやって閉めたんだよ! こっちは海パン一丁で死にそうに寒いんだよ!
「早くしろ。俺が死ぬ!」
『え!』
「早く開けてくれ!」
体の水分が結晶化していくようだ。手足なんてもう感覚が無い。頼むから早くして……。
『このっ! 届け!』
何かが擦れる音がする。ライナは頑張ってくれているようだが、音の位置はドアノブの下らへんだ。まだ距離が足りてない。
「死ぬ! 死ぬって!」
体が携帯のバイブレーションのように震えてきた。あれ? なんか暖かくなってきたぞ?
『このっ! このっ!』
あれ? 今って春だっけ? なんだかポカポカしてきた。
『もうちょっと!』
あれ? もう朝になったのかな? 目の前が明るくなって……。
『開いた!』
目の前に広がっていた明るい世界が壊され、突然現実に戻された。途端に寒さが体を襲ってきて、頭がすっきりとした。
「さむっ!」
俺は脱衣所を通り過ぎ、浴室に荒々しく入った後浴槽にダイブした。
「あったけぇ」
一瞬見たあの花畑は幻覚だったのか、それとも三途の川の土手に生えている野花だったのかは、今となっては確かめる事はできない。だが、この湯の暖かさは本物だ。さっきを地獄と表現するのなら、今は極楽浄土にいる気分だ。てか冷静に風呂が沸かされていてよかった。おそらくミミだろう。あいつ、そういうとこには気が回るからな。
『ごめんね、湊』
心配そうに浴室に入ってきたライナは、浴槽に手をかけてそう言った。俺はライナの頭に手を乗っけて、
「気にすんなって」
とだけ言った。
ライナは嬉しそうに笑うと、浴槽の中に手を入れてきた。
『これがお湯ね。初めてだから驚いてはいるけど、結構気持ちいいわね』
俺がいつも入っている温度よりはかなり低く設定してあるが、ライナにとっては丁度いい温度の様だ。文字通り体の芯まで温まった俺は、浴槽から出て扉を閉めると、シャワーを出してライナに浴びせた。
『きゃっ! 冷たい!』
そりゃそうだ。うちのシャワーは最初お湯が出ないからな。
『あれ? どんどん温かくなってきた』
「どうだ? 熱くないか?」
『うん。気持ちいい』
よかった。どうやらお湯が大丈夫なのは本当のようだ。おとなしくシャワーを浴びる姿を見ていると、やはり動物というのは可愛いと思う自分がいた。
石鹸を取って、ライナの体で泡立てる。気持ちよさそうに目を瞑り、俺は身体を万遍なく洗ってあげた。こうしていると、こうやって動物を家に連れてくるのも悪くないな。
ライナを洗いつつ、俺も体や頭を洗って、もう一度湯船に浸かった。今度はライナも一緒に。
「はぁ。生き返るな」
『そうね。動物園じゃこんな体験できなかったわ。本当に人間って羨ましい』
前々から薄々は感じてはいたが、やはり動物は人間が羨ましいと思うのか。この際だ。本心というものを聞いてみようかな。
「人間が憎いと思った事はないのか?」
本質を探る。俺たちの仲だ。遠慮することはないだろう。
『もちろんあるわよ』
やっぱりか。
『でも、私は人間が好き。檻の中にいるとね、人間観察が日課になるのよ。そうして観察してると、色々な人がいる事に気づくの。それでね、だんだん興味が出てきたわ。一体人間って本当はどんな感じなのかなって』
湯船に足まで浸かっているライナは、足を折って浴槽の端に顔を乗っけた。
『湊に会った時は、実は色々と期待してたの。私が興味を引くだけの人間か』
「その結果は?」
『分かるでしょ? 合格よ。おかげで私は人間が好きになったわ』
それは良かったよ。ライナが過剰に俺を好いてきたのは、こういう理由もあったのか。
『湊は動物に好かれる性格をしてるよ。それは、ミミさんを見ても分かるもの』
「ミミを?」
『うん。彼女は湊の事を本当に大事に思っていると思う』
確かに大事にしてくれているとは思っているが、
「あいつはまだ家に来て半年くらいだぜ?」
まだ知り合って日が浅い。ライナの表現はあながち間違いではないと思うが、少しオーバーな気がする。
『そんな事ない。いずれ分かる日が来るよ』
今日のライナは随分と喋るな。何歳かは忘れたが、確実に言えるのは俺より少し年上だと言う事だけだ。そして、初めてライナのお姉さんらしい一面を垣間見た気がした。
『あれ? 顔が赤いよ? 照れてるの?』
「ちげーよ。のぼせただけだ。そろそろ出るぞ」
『うん』
初めて動物と喋れる事を悪くないと思った俺を、咎める者は誰もいなかった。
目覚めると、良く知る天井が目の前に広がっていた。だが、いつものベッドの感触が背中には無かった。辺りを見回すと服やらゴミやらが転がっている。ということは、ここは床だ。
昨日の事を思いだす。俺はちゃんとベッドで寝たはずだ。なのに何故床に転がっているのだ。その疑問は、ベッドの上を見て晴れた。ライナとミミが、気持ちよさそうに寝ていたのだ。つまり、俺は排除されたという事だ。
部屋に掛かっている丸い時計を見ると、時間は五時半。そろそろライナを送らないとまずい時間だ。まだ半分眠っている頭を叩き起こし、体に鞭打て起き上った。動くスピードが非常に遅いが、まだ時間はあるのでゆっくりと着替えた。その音で、ミミとライナが起きたようで、大きなあくびをしていた。
『おはよう。湊』
『なんだい。今日はやけに早いじゃないか』
この二人は着替える必要が無いので、特に急がせる事もない。俺は制服に着替え、自分の用意だけをさっさと済ました。
「ほら。そろそろ行くぞ」
俺は鞄を持ち上げながら言った。
『えぇ? もう?』
駄々をこねるライナだが、俺は無視して歩き始めた。
『え、え? ちょっと待ってよ!』
後ろでベッドから何かが飛び降りる音がする。だが、俺は振り返る事なく歩みを進め、部屋のドアを開けた。
「あれ、兄ちゃん?」
勢いよくドアを閉める。轟音とも呼べる音が鳴ったが、そんな事今はどうでもよかった。まさか、鈴葉が起きているとは思わなかった。まだ六時前だぞ。早起きにもほどがある。
『どうしたの?』
ライナが顔を覗かせてくるが、それに答えている余裕などなかった。
「兄ちゃん? なんで閉めるのよ!」
「兄も思春期なんだよ!」
「意味分かんないから!」
俺は扉に背中を押しつけるようにして、全体重をかけた。扉が何度も叩かれる。今開ける訳にはいかんのだよ!
『何よ? 誰あれ?』
そんな事をいちいち説明している暇はなかった。今は、この場をどうにか切り抜けるかの策を考案中だ。
『湊の妹の、鈴葉よ』
『え? 湊の妹? 会いたい!』
簡単な説明をミミがしてくれたが、それが裏目に出たようで、ライナの目が輝いてやがる。
「兄ちゃん!」
『湊!』
あーもーうるさい!
俺は扉から体を離し、急に扉を開けた。すると鈴葉が扉を叩いていた勢いで、部屋の中に飛び込んでくる。
「えっ! ライ――」
すかさず俺は、鈴葉の後ろに周り、そこから手を伸ばして口を塞いだ。
「んっ――ん――」
言葉にならない音を発する鈴葉。呼吸だけはできるように、鼻の気道は確保している。だが、何か喋ろうとするたびに、俺の手のひらが湿っていくのは勘弁してほしい。
「妹よ。お前が言いたい事は分かる。だが、大声を出したら……その時は分かっているな?」
黙って二度頷く鈴葉。それを確認してから、口元から手を離し開放した。
「ぷはぁ! もう、いきなりひどくない?」
頑張って怒っていることをアピールしようと頬をふくらませる姿は、我が妹ながら愛らしい。
「いや、あそこで確保しなかったらお前、間違いなく叫んでたろ?」
「そんな事ないよ」
「そんな事あるんだ」
またもや怒りモードの顔をする。妹よ。それは反則と違うか?
「それより、なんでライオンさんが兄ちゃんの部屋にいるの?」
さて、なんと言ったものか……。
「話せば長くなるんだが、簡潔にまとめると、テレビでやっているあれだ」
「簡潔にまとめすぎて意味分かんないんだけど……」
「つまりだ。あの何とか動物園とかでやっている、飼育する奴と飼育される動物が一緒に暮らすというあれだ」
「ああ! あれね!」
どうやら伝わったようだ。嘘はついてないよな?
『ねぇ、湊』
俺の足に、ライナがくっついてきた。
「おっと、そうだった。ここからが本題だが、俺たちは今から家を出るのだが、どうにか騒ぎを起こさずに家を出たい。協力してくれるか?」
「いいよ。お父さんとお母さんは私が何とかするから」
いやぁ。持つべきものは妹だな。トレードマークのポニーテールがまだ完成されていないが、そんな寝癖だらけの妹でも、俺は愛しているぞ!
「じゃあ、私がリビングに行ったら、すかさず家を出てね」
「了解だ」
そう言って、部屋を後にした鈴葉は、音を立てながら階段を下りた。数秒後、扉が閉まる音が響く。
「そんじゃ行くか」
『うん』
『いってらっしゃい』
俺たちは、最難関であった家を何事もなく出て、動物園を目指した。
道行く人に変な目で見られたが、動物に温和なこの町の人々は、俺が珍しいペットと散歩をしている程度としか思っていないだろう。途中、野生動物たちに声をかけられたりしたが、適当にあしらって歩みを進めた。
この町の朝方は、昼間より余計に冷えるのだが、生まれたままの姿で歩くライナは寒くないのだろうか? いや、毛皮はその為の防寒具だろう。俺なんて四枚着ているにも関わらず、体は寒いと感じていた。だが、ライナと喋りながら歩いていると、寒さなど忘れてしまい、昨日は遠く感じた動物園までの道のりもあっという間だった。何となく顔を見上げると、秋は紅葉が咲き誇っていた山々も、今となっては枯れ木の集まりと化していた。
「いやぁ、本当に良かった!」
ライナを檻に返した後、控室に向かった俺は、そこで園長と蟹沢さんに会った。まだ七時を回ったばかりだと言うのに、この人達の出勤は早いな。
「鮫島君。お手柄だったね」
「蟹沢さんも、昨日は探してくれていたようで、お疲れ様でした」
園長は、いつもの笑顔を浮かべ煙草を吸っている。蟹沢さんは、自分のデスクに座りながら、俺の方に向いていた。
「いや、今回は鮫島君の働きのおかげだよ。よくやってくれたよ君は」
「どうもっす」
俺は照れ隠しに頭を掻いた。適当に話した後、まだ学校まで時間があるという事もあり、ライナの檻に足を運んだ。
昨日とは打って変わって静まりかえる園内は、いつもの調子を取り戻しているように感じた。
『鮫島さん。昨日はお疲れさまでした』
ニホンザルの檻を通りかかった時、そんな声をかけてきたのはウキ丸だった。
「大変だったよ。もう二度と御免だな」
『まぁ、ライナの気持ちも悟ってくだせえ。あいつだって悪気があった訳じゃなかろうに』
「分かってるよ」
『なら安心でさ』
ウキ丸も、仲間思いのいい奴だ。だからこそ、この猿山の頂点に立っているのだろう。
「じゃあな。次会うのは、土曜だと思う」
『へえ。学業も頑張ってくだせえ』
ニホンザルの檻を通り過ぎると、ライオンの檻まではひたすら直進だ。ライナの檻の前で、俺は手を叩いた。
「ライナ」
『湊? どうしたの?』
ライオンの檻は、いるべき主を取り戻していた。やはり、ライオンの檻にライナがいると落ち着くな。
「学校に行く前に、お前が脱走しないよう見張りに来た」
俺は腕を組んで、いたずらな笑みを浮かべた。
『大丈夫よ。もう迷惑はかけないって決めたの。それに、そう簡単に檻から出られる訳ないでしょう?』
その通りだ。そして、俺が今ここに来たのもその理由だった。
「その事なんだけどな。昨日、お前はどうやって檻を出たんだ?」
そう。これだけははっきりとさせておく必要がある。壊された訳でもないし、扉が開いていた訳でもない。ならどうやって脱走したと言うのだ。
『扉が開いてたのよ』
「は?」
扉が開いてた? 嘘をついてどうするんだよ。
『嘘じゃないわ。確かに扉が開いてたの!』
「いや、俺が来た時はちゃんと閉まってたぞ」
『じゃあ何? 私が嘘をついてるって言うの? 私もう迷惑かけないっていったじゃない!』
どういう事だ。今回ばかりはライナが嘘をついている様子はない。だけど、俺が見たものとは証言が異なっている。壊れているだけか? 後で確認するか。
「とにかく今は、ライナを信じるよ。それと、不審な奴を見たとかそういうのはないか?」
『不審な奴は見なかったけど、檻の中にこれがあったわ』
そう言って、どこかから口に銜えてきたのは、何かの先についているような人形だった。
「なんだこれ?」
『知らないわよ。さっき私が帰ってきたら落ちてたの。昨日はこんなものなかったわ』
「誰かの落し物か?」
『分からないけど、檻の中にあったから違うと思う』
「じゃあ、どっかの鳥が落としていったとか」
『分からない』
とりあえず、落とし物かもしれないので預かっておく事にした。俺はその小さな人形をブレザーの内ポケットの中に入れ、ライナに向き直った。
「それじゃ、行くわ」
『うん。またね』
「おう」
いつもは駄々を捏ねてくるライナだが、昨日は一緒に過ごしたというのもありおとなしかった。これはこれで調子が狂う。
『どうやら、上手くいったみたいじゃのぉ』
寝そべりながら虎さんは、俺に声をかけてきた。
「虎さんが集めてくれた動物たちのおかげですよ」
『そっちもじゃが、ライナの恋煩いの方じゃ』
そっちか。
『ライナの奴、一皮剥けた女の顔をしとるけぇ。ようやったのぉ』
「そんな事ないですよ」
『謙遜せんでえぇ。素直に喜べ』
「はい。ありがとうございます」
まったく虎さんにはかなわない。流石は俺が認めた人生の先輩だ。もしも動物と喋れなくなっても、虎さんとだけは喋りたいと心底思った。
園内に設置されているウサギ型の大きな時計が、午前七時三十分を指している。俺は虎さんに別れを告げ、動物園を後にした。
動物園を出ると、清々しい空気と共に、俺を迎える人影があった。制服を身に纏い、黒い髪を靡かせる美少女。犬塚心だった。
「何してんだ?」
「散歩ついでに寄っただけです」
「こんな朝早くから?」
「駄目ですか?」
「……いえ」
呼吸のような会話は、俺の負けという形で終了した。しぶしぶ俺は、心の横に並び歩き始めた。
黒っぽいコートに赤と白のマフラー。それに薄いピンクの手袋までしていて、防寒はばっちりと言ったところなのに、顔は耳まで赤くなっている心。どれだけの時間、外で待っていればこんなに赤くなるものなのだろうか。
「あのさ、待っててくれたんだろ?」
「何を言っているんですか? 勘違いも甚だしい」
口元で手を重ねて息をかけながら、表情一つ変えずにそう言う心は、さすがと言うべきだろう。
「無理すんなよ」
「何を言っているんですか。やめてもらえますか、そういうの」
「へいへい」
慣れたとはいえ、昨日の今日だ。まさか、昨日のデートという話は、ライナを焚き付けるだけの出まかせだったのか?
そんな事を考えながらゆっくりと歩いていると、俺は右手にコンビニを見つけた。
「ちょっと待ってろ」
外に心を待たせ、中に入って昼飯のおにぎりと温かいお茶とコーヒー、それと耳当てを購入した。この耳あての正式名称って、イヤーマフラーとかそんな名前だったような気がするが、ショップで売っているようなおしゃれな奴というよりは、何か黒いモコモコが付いただけの貧相な物だった。だが、あの赤い耳を温める事くらいはできるだろう。いや、そのくらいの働きをしてもらわないと、千円以上出した意味がなくなる。
「ほら、温かいお茶と耳当てだ」
「え? 耳当てですか?」
「俺を待っててくれて、そんなに耳が真っ赤になったんだろ? なら俺が悪い。こんなもんしかないけど、少しはマシになると思う」
今思ったけど、心は受け取ってくれないんじゃないか? いいとこのお嬢さまが、こんなコンビニの安物をつけるとは到底思わないし。
「別に、湊を待っていた訳じゃないです」
ほらな。どうしよ。レシートとか持ってったら返品可能かな?
「でも、いただきます」
「え?」
マジ?
「ちょうど、耳が冷たくなっていたところでした。だから、いただきます」
そう言って、俺が買った耳当てをその使い方通り耳に当てた。
「暖かいです」
「そりゃよかった」
気に入ってくれたようで、顔がどこか緩んでいるように見えた。こんな安物でさえ心が付けると、まるでブランド物のように感じる。
そんな心の歩幅に合わせながら、缶コーヒーを啜った。
数分後、会話は交わされている中で、俺は聞きたい衝動に襲われていた。無論、デートの事だが、ここで聞いたらその気があるみたいで何か嫌だ。なんて考えているうちに、肉眼で学校が捉えられる距離まで歩いて来ていた。何の変哲のない会話が飛び交うだけの登校だが、鷲津に言わせれば、心と二人で歩けるだけで幸せ者なのだろう。
「あのさ」
俺は、とうとう切り出そうとしてしまった。だが、その後の言葉が思いつかない。
「なんですか?」
「いや……」
どうする? デートの事を言うか。それとも他の話題を振るか。
「なんですか?」
黙り込む俺を、心はなんて思っているのだろう。変人かな。いやそれとも馬鹿か。いや、馬鹿ならまだいいか。
「そう言えば、デートの事ですが」
何! お前から振ってくれるのか!
「明日ですよ? 覚えてますか?」
「え? あぁ昨日言ってた奴だろ? 覚えてる覚えてる! 明日はちゃんとバイトないし」
誰よりもこの話題に触れたかったにもかかわらず、口から出たのはやけに恰好つけた言葉だった。
明日の祝日は、昨日の事もあって園長が休みにしてくれた。遊ぶなら都合もいい。
制服姿の若い奴をよく見るなと思ったら、もう校門の前だ。動物園から歩いて約三十分。八時を回った良い時間だ。
「では、詳しい事は後程」
「あぁ」
最後まで透かしていた俺は、そのまま自分のクラスに向かった。
教室に入ると、まるで別世界のように感じた。教室にはほとんど人影はなく、休日の如き静けさが充満していた。時計が時を奏でる音を発し、外からは野鳥のさえずりが聞こえる。さえずりと言っても、俺にとっては言葉なのだが、ここはさえずりでいいだろう。
しばらくして人がぞろぞろと集まり始め、教室内はいつもの活気を取り戻していった。
「あれ? 湊早いじゃん。どうしたの?」
と、彼方には驚かれ。
「豚だ。今日は豚が降るぞ!」
鷲津に至っては、異常気象の原因にされた。いつもは遅刻ギリギリで登校する俺が、早く来るのがそんなにいけない事なのかと思い悩んだが、日ごろの行いとは本当に怖いものだと無理やり納得した。
そんなこんなで、いつもの変わらない学校生活が始まった。昨日の件もあって疲れが溜まっていたのか、一時間目から爆睡モードに入った俺は、起こされるまでぶっ通しで寝た。
「起きて」
どこからか声が聞こえた。どんな夢を見ていたかも、思い出せなくなっている。頭の中が覚醒しかけている何よりの証拠だ。
「ほら、湊」
誰だ? 彼方?
「彼方じゃないわよ。心よ」
俺は無意識のうちに声を発していたようだ。そして、声の主は心と言った。心? あの心か? なんで心が?
「あなたとデートの話をするためよ」
またもや口に出してしまったようだが、おかげ様で頭がはっきりとした。というか身の危険を察知した俺の脳が、勝手に反応したと言っても過言ではないだろう。
「お前何言って!」
時すでに遅し。机から顔を離し、声を荒げた俺の周りには、死神のような連中が立っていた。知っている奴もいれば、知らない奴もいる。おいおい、鷲津まで俺を血祭りに上げるつもりか?
「皆さん。少し落ち着いてください」
最初に落ち着くべき俺は、引きつった笑みを浮かべているに違いない。今思ったが、男に囲まれるのは、こんなにも居心地が悪いものなのか。
「皆さん、やめてください! せっかく湊が私をデートに誘ってくれたのに、その話ができないじゃないですか」
おいぃぃぃ! それ以上怒りのボルテージを上げるような事を言うな!
「それに、私は湊に用があるんです。どいてもらえますか?」
男たちが作った道を優雅に歩くその様は、まさに女王だった。だが、今日ばかりは俺の味方をしてくれるようで、死神軍団を撤退させた女王は、空いていた俺の前の席に勝手に座った。
「それで、明日の話ですけど」
俺に向かって話し始める心だが、その最中も俺は刺さるような視線と戦い続けていた。
「なぁ心?」
「なんです?」
とにかく、この話を止めさせなければ。
「その話は、今日の夜すればいいんじゃないか?」
よし! このまま電話の方向に持っていくぞ!
「湊てめぇ! 夜ってどういう事だよ! 我らが心様に何たるプレイを――じゃなくて、何たる無礼を!」
鷲津が割って入ってくる。これ以上ややこしくするのはやめろ!
「夜って……。でも、湊が言うなら構いませんが……」
赤くなる心。演技と分かっている俺でさえ、信じ込んでしまうほどの完成度を誇っている。これなら……。
「みなとぉぉぉ! どういうことだぁぁぁ!」
ほら騙された。いい加減ウザいぞお前。
「湊。どういう事?」
後ろからかかる女の声。振り向かなくても分かる。彼方の声だ。
「あぁ、もう面倒だからここで決めよう。鷲津と彼方も気になるんだったら、ここにいてもらって構わないぞ」
「マジでか?」
「その代わり、騒ぐのはやめろ。いいな」
「うっす!」
物分りが良くて助かる。いや、鷲津の場合はただ馬鹿なだけか。
「彼方もいいか?」
「うん」
彼方は、黙って俺の机の横に椅子を持ってきて座った。気のせいならいいんだが、彼方さんちょっと怒ってません?
「心。別にいいだろ?」
「構いません」
これで嫌とか言ったら、俺は早退してたね。
「じゃ、明日の件だが――」
俺はあえてデートという単語を除外した。理由は言うまでもない。皆が過剰に反応するからだ。
「先生!」
勢いよく手をあげる鷲津。
「はい、鷲津君」
「明日の件とはなんですか?」
「それを今から話すんです」
ショートコントはこれくらいでいいだろう。さっさと本題に入ろう。
「心はどこに行きたい?」
「私ですか? そうですね。色々ありますけど、やはり湊の家ですかね」
「てめ! みな――」
騒ぎ出そうとする鷲津を、鉄拳により黙らせた。
「却下だ」
「何故です?」
「彼方を見ろ」
心は、彼方の方に顔を動かした。怒りとも悲しみとも取れる表情。その顔を見た心は、
「私の降参です。少しおふざけが過ぎたようですね」
ホント性格悪いよなこいつ。
「彼方、嘘ですよ。デートと言うのはお礼みたいなものですから、ただのお遊びです。だから、彼方も一緒にどうですか?」
炎天下のコンクリートのように熱を持った顔が、みるみるうちに冷めていく。
「え? どーゆー事?」
「言葉通りだよ」
頭が追い付いていないようだ。どんだけ感情に侵食されてたんだよ。
「明日、駅前に十一時集合です。いいですか、彼方?」
俺も知らない集合時間を彼方に教える心。
「良く分かんないけど、分かった」
分かんないのか分かったのか分かんないな。あれ? 俺の頭もこんがらがってきた。
「じゃあそういう事で。私は教室に帰ります」
嵐は去った。大きな傷跡を残して。
「あれ? 俺が今いた意味あった?」
「なかったな」
自分の存在意義を問いだした鷲津を横目に、俺はコンビニ袋を開いた。
「ねぇ湊。私はどうすればいい?」
思考停止していた彼方は、自分の席から弁当を持ってきた。ここで食べる意味があるのかは分からないが、別にいいか。
「来ればいいじゃん。別に心と二人で遊ぶ約束をしてたわけじゃねんだし」
「でもさ、何か悪くない?」
おにぎりにかぶりつきながら、一体何が悪いのかを考える。
「あたし邪魔じゃない?」
なんだ。そんな事か。
「さっきも言った通り、別に二人で約束してた訳じゃねんだ。だから気にすんなって」
「そっかな?」
「そうだよ」
コーヒーを一気飲みする。さて、午後の授業も頑張りますか。