第三章
走りすぎて肺が潰れそうだった。それにしても今日は良く走る一日だ。同時に、本格的に運動をしようと決意した日でもあるのだが。
そんな事を考えながら、俺は重い足を動かした。自宅から動物園までは、そんなに距離はない。どの程度かというと、歩いて十五分程度で着くほどだ。だが、今日に限ってはもの凄く遠く感じた。それに、時間が時間という事もあるのだろうが、道にはあまり動物の姿を見かけない。それとも、ライナが逃げ出した事と関係があるのだろうか。
とにかく、俺は休む事なく走った。一応コートを羽織ってきたのだが、それを後悔するほど体は火照り、額からは汗がこぼれる。呼吸がどんどん短くなって、吸う酸素は少なく、吐く二酸化炭素はかなり多く感じた。だが、俺一人が吐く二酸化炭素が、地球温暖化に大きな影響を与えるはずもないので、できるだけ多く呼吸をした。
前に進むほど、体は悲鳴を上げ、人間こんなに走れないものかと思った。そう考えると、正月に駅伝をしている大学生たちは、本当に同じ人間なのだろうかと、ろくでもない疑問を感じた。
あれこれ色々考えながらも足は動いていたようで、ようやく動物園の門までやってきた。携帯を開き、時間を確認する。家を出てから十二分ほどしか経っていなかった。思ったより短い事に驚愕したと共に、安堵の息が漏れた。
俺は、関係者入り口を足早に通り過ぎ、控室の扉を荒々しく開けた。
「園長!」
「あっ、鮫島君!」
熊井園長は、控室でうろうろしていた。何かの電話を待つように、何度も何度も電話の前を行ったり来たりと落ち着きがない。
「ライナが逃げったていうのは……」
「あぁ。今は蟹沢君が探してくれている」
電話の前にいるのは、蟹沢さんからの連絡待ちということか。とにかく状況が把握できない。
「俺ちょっとライナの檻を見てきます!」
「あっ! ちょっと鮫島君!」
俺は園長の制止を振り切り、ライナの檻に向かった。他の動物たちが騒ぎ立てる中、俺は一陣の風の如く走った。
「……いったい、どういう事だ」
ライナの檻に到着した俺は、閉まっていた扉を開けて、その中に入った。だが、もぬけの殻となった檻には、ライナがいたと思われる形跡しか残っていなかった。
確認だが、扉は確かに閉まっていた。ライナの扉の鍵は、この動物園の係員しか持っていない。だとしても、どこかに破壊された形跡もなく、ただライナがいないだけのいつもと変わらない檻だった。
頭が回らない。一体どういう事だ。どうやってライナはここから……。
『おい鮫島! 今はそんな事をしてる場合じゃないやろ!』
聞きなれた声。それは近くの檻の中にいた虎さんの声だった。俺は、檻の鍵をしっかり締めたのを確認した後、虎さんの元へ急いだ。
「虎さん。もしかして一部始終を見てたりしてましたか?」
『いや、わしはライナが逃げた時しか見とらん。普通に外をライナが歩きよるから、声をかけたら鮫島のところに行くゆぅて走ってったわい。止めれんかったわ』
「じゃぁ逃げる瞬間は見てないんですね」
『おい! 今は犯人捜ししとる場合じゃないじゃろ! 早くライナ見つけんと、大変な事になるで!』
虎さんの言う通りだ。今は犯人捜しをしている場合じゃない。一刻も早く連れ戻さないと!
「すいません! ちょっと俺、行ってきます!」
『ちょっと待てや!』
走り去ろうという時、不意に虎さんに止められた。
『この動物園の裏山に、わしの息がかかった動物たちが集結しとる。お前が来たら、その指示に従えゆうてあるから、手駒に使ってえぇからのぉ』
どおりで町に動物たちがいないわけだ。流石は虎さんとでも言うべきなのだろう。檻の中にいるにも関わらず、そんな動物たちがいるとは。
「ありがとうございます!」
『おう! 男だったら気張れや!』
俺はそんな虎さんの元を後にして、控室に一旦戻った。
「園長! まだ警察には言ってないですよね?」
「あぁ、今電話しようと思っていたところだ」
「それ、ちょっと待ってもらえませんか?」
そう。園長に通報を待ってもらう為だ。
「いや、それはできないよ。もしライナが人を襲ってからでは遅いんだ」
その通りだ。ライナが人に危害を加えるとは思えないが、万が一の為に警察に電話するのは当たり前だ。
「分かっています。でも、少しでいいんで待ってはもらえませんか。俺が必ず連れて帰るんで、お願いします!」
勢いよく頭を下げる。どうにか説得しなければ。
「いくら鮫島君のお願いでも、これだけは……」
「園長!」
俺は怒鳴るように言った。その勢いで、熊のように大きな体をビクッと反応させる園長。案外小心者なのは、この動物園の係員なら誰でも知る事だった。
「もしライナが人を襲ったら、この動物園は終わりです。でも、警察に電話したところで、ライオンが逃げたなんていう動物園は、管理が行き届いていないと言われ、営業を続ける事はできないでしょう。どちらにしろ駄目なら、俺はライナが人を襲う前に見つける方に賭けたいんです!」
これは俺のエゴだ。もし人を襲った場合や人に目撃されていた場合、いくら野生動物に温和なこの町でも、大騒ぎになるのは間違いないだろう。だが、どうしてもこの動物園を守りたい。
「園長もこの動物園がなくなる事には反対でしょ? なら、俺に探させてください。お願いします!」
さっきよりも長く、そして深く頭を下げる。これで駄目なら実力行使すら考えた時、園長から声をかけられた。
「一時間だ」
「え?」
「一時間だけ待とう。それ以上は、責任者として待てない。この一時間は、私というただの動物好きのおじさんとして、君に賭ける時間だ」
園長はそう言って、俺の肩に手を置いてきた。
「はい! ありがとうございます!」
そう言って、俺は控室を飛び出した。
動物園の裏山。そんなに高い場所ではないが、そこには広い自然公園がある。元々街灯が少ないというのもあり、夜に人は滅多にいない。
だが、今はおびただしい数の動物たちが集結していた。大小様々な動物たちは、学校の朝会のように律儀に集まっていた。よく見ると、冬眠前の熊などもいた。面子だけなら小さな動物園を作れそうだ。
「ねぇ湊君。これはいったいなんのパーティーですの?」
朝会でいう朝礼台ポジションに立つ俺の横には、訳も分からず佇む心の姿があった。彼女はこの近くに住んでいるという事もあり、さっき電話で呼び出したのだ。理由を告げずに犬を連れてきてくれと言ったら、五分程度で来てくれた。なんだかんだ心はいい奴だ。
「パーティーじゃない。ライナ探しに集まってきてくれた勇志の皆さんだ」
「まったく訳が分かりません」
少し不機嫌だが、それも仕方がない。時刻は午後十時。普通なら家を出ない時間だ。
「ミネまで連れてきてなんて、何が始まるって言うのです?」
そう言って、横にいる犬を撫でる心。ミネとは、そのゴールデンレトリバーの名前だ。本名はターミネーター。略してミネ。センスを疑う名前だが、当の本人であるミネが何も言わないのだからいいのだろう。
さてと、時間もない。始めるか。
「ええ。今日みんなに集まってもらったのは他でもない。動物園の雌ライオン、ライナが逃げ出した」
俺は後ろの方にも伝わるように大きな声で言った。ライオンが逃げたというのを初めてしった心は、驚きを隠せていないようだ。それに引き替え、大体の事情は虎さんに聞いているだろう動物たちは、少し反応する程度で驚きはしなかった。
「今から一時間後には、警察に通報され、ライナは捕縛後処分されるだろう」
そう。そんなライオンは、安楽死などの処置をされるに違いない。だが、そんな事は絶対にさせない。その為に園長を説得したんだからな。
「今からみんなに町中を探してもらい、一時間以内にライナを見つけてほしい。まだ逃げ出してからは時間が浅い。そんなに遠くには行っていないはずだ」
ライナは俺を探すと虎さんに言ったらしいし、間違いなくこの町は出ていない。ならば、この動物たちの力があれば、一時間以内には見つかるはず。
「見つけ次第、俺に報告を入れてくれ! 鳥の誰かに報告してくれれば、すぐにでも俺に知らせが届くはずだ。ここからは俺のお願いだが、どうしてもライナを見つけたい。力を貸してくれ」
動物たちは、一言も発することなく黙っている。これは、了承と受け取っていいのだろう。
「では、みんな頼んだ! 散開!」
その号令と同時に、四方八方に動物たちが散る。今日ほど動物と喋れることをありがたいと思った事はなかった。しかも、この町は普段でさえ動物が普通に歩いている。だからこそ、こんな大がかりな作戦が実行できる。
「それで、私たちはどうするのです?」
おっと、心の存在を一瞬忘れていた。自分で呼んだくせに、薄情な奴だな俺は。
「俺たちも探しに行くぞ」
「どこか心当たりでも?」
「いや、ない」
「は?」
ある訳がないだろう。ライナはずっと動物園の中にいたんだぞ。俺に会いに行くなんて、俺の家どころか外の世界を知らないあいつがどこに行くかなんてわかる訳がない。いくら鼻が利くとはいえ、俺に似た匂いの人間なんて少なくないだろう。だからこそ、助っ人を呼んだんだ。
「だから、ミネの鼻だけが頼りだ」
そう言って、ミネの鼻にタオルを近づけた。このタオルは、いつもライナの体を拭くのに使うタオルだ。人間はともかく、ライオンの匂いなんて滅多にいるはずがない。犬であるターミネーターの鼻なら、その匂いを嗅ぎ分ける事ができるはずだ。それは、他の動物たちも同じはず。俺の思惑通りなら、ライナ発見までにはそんなに時間がかからないはずだ。
「これがライナの匂いだ。この匂いを追えるか?」
『今はいろんな匂いが混ざっているから難しいけど、やってみます』
俺がミネに会うのは、これで二度目だ。名前とは裏腹に、こいつは雌なのだが、飼い主に似るとはよく言ったものだ。この嫌味ったらしい言い回しといいそっくりだ。
ターミネーターは、地面を嗅ぎながら歩き始めた。俺たちは、ゆっくりとその後を追う。そう言えば、心とこうして二人で歩くのは久しぶりなような気がする。学園のマドンナと言われ、ただでされ近寄り難い雰囲気を持っているこいつと、こうも話せるようになったのはいつからだろう。きっかけはミネを助けた時のアレだったのかもしれないが、今はもう気にすることでもないだろう。
「湊君。ライナはどうやって逃げ出したのです?」
山を下りて町の路地を歩いているとき、ふと心がそんな事を聞いてきた。
「それが俺にも分かんないんだ」
「分かんない? 檻を壊したとか、扉が開いていたとか」
「檻は壊されてなかったし、扉もしっかり鍵がかかっていた。まったく不思議だ」
不思議というか、何か人為的なものがあるようにしか思えないが、目撃者もいない今では皆目見当がつかん。
「そんな事ありえるんですか?」
「普通なら、ありえないな」
ありえない。いや、人の力が働いているのなら可能性はある。だが、犯人を特定するものもないし、第一証拠がない。そして何より、その可能性を疑いたくなかった。
「そう言えば、今日は彼方と一緒に帰ったようですね」
おいおい、百八十度も話が変わったぞ。そんなの今はどうでもいいだろうが。
「だからなんだよ」
「何を話したんです?」
こいつもか。彼方といい、俺が誰と何をしようがいいじゃないか。
「なんでもいいだろ? お前には関係ない事だよ」
「そう言われると、関係があるとしか思えませんね」
この女は小悪魔というか悪魔だよ。
「本当に心の話はしてない。ちょっと昔話をしただけだよ」
「そうですか。まったく湊君は鈍感というか何というか」
小さな吐息を漏らす心。それは溜息とも取れるし、呼吸の延長だとも取れた。悪魔だと思いつつも、月明かりに照らされる黒く長い髪を靡かせる心の姿は、まさに学園のマドンナと呼ばれるにふさわしかった。
『すみません。このあたりで匂いが消えています』
駅前を通り過ぎ、住宅街の近くを通りかかった時、ミネがそう告げてきた。まさか匂いが途切れるとは思わなかった。探し始めて三十分。今だ報告もないまま、ここで行き止まりだ。
「どうにか匂いは取れないか?」
『はい。何か強い刺激臭があり、これ以上は私の鼻が持ちません』
「……そうか」
クソ! ここまで来て立ち往生かよ!
「湊君。喉が渇きました。飲み物を買ってきてください」
こんな時に、このわがままお嬢様が!
「じゃあちょっと自販行ってくる。ミネは何か飲むか?」
だが、手伝ってもらっている手前、文句は言えない。
『私はミルクで』
「そんなもん自販で売ってるか!」
『じゃぁコンビニまで行ってきてください』
さすがにそんな時間は無いので、心のお茶と俺が飲むコーヒーのみを買ってくることにした。ホットの缶は、暖かいというよりは熱いという感じだったが、構わずプルタブを引き、中身を飲んだ。
「温まるなぁ」
「そうですね」
俺たちは、歩きながら飲み物を飲んだ。戦士のひと時の休息と言うには進展がないままだが、まぁこのくらいはいいだろう。
「お前も飲むか?」
俺はそう言って、心に缶コーヒーを差し出す。
「いえ、結構です。私コーヒーは苦手なので」
俺の口づけは嫌だとか言って断ると思ったが、案外普通の言葉が返ってきたことに少し驚いた。だが、そんな俺の顔を見てか、
「もちろん、湊君の口づけも嫌だったんですからね」
と、付け加えてきた。まったく可愛くない。
『心さんは、そんなに湊さんの事を嫌いではないですよ』
「え?」
いきなりミネがそんな事をいうものだから、素っ頓狂な声を上げてしまった。
「どうました? ミネが何か見つけましたか?」
「いや」
俺の反応に気づいたのか、心がそんな事を言ってきたが、俺は感づかれないように軽くあしらった。
『心さん。湊さんから電話がかかってきたとき、少し顔がほころんでいましたし、口で言うほど嫌いではないと思います。いや、むしろ……』
俺は、自分の心拍数が上がるのが分かった。飼い犬がこういうのだ。嘘ではないのだろう。だとしても、この天上天下唯我独尊の犬塚心がまさか……。いや! 落ち着け! そんな事はないはずだ。
「さっきから、挙動が不審ですよ?」
「そ、そうか?」
もうすでに、動揺を隠す事はできなかった。
「ミネに何か言われましたね? まったく、何を言われたかは分かりませんが、おそらく嘘ではないですよ」
いや、安易に肯定なんてするものじゃない。訳も分からず、自分のキャラ壊す事になっているぞ。
「いや、そうとは限らないと思うけどな」
「ミネは嘘を言わないはずですよ。そんな悪い子に育てた覚えはありませんから」
もう何を言っても無駄なようだ。この話題には触れないようにしよう。
『アニキ! アニキはどこです!』
最高のタイミングで現れたのは、おそらく次郎だ。暗いから良く見えないが、あの声は間違いない。
「ここだぞ!」
近所迷惑にならない程度の声で、次郎に自分の居場所を伝えた。すぐさま俺の肩に降りてきたのは、予想通り雀の次郎だった。こいつもライナ探しに参加していてくれたのか。
『アニキ、ライナを見つけたとの報告が、鹿の奴から入ってきました!』
「マジか! で、場所は?」
『ここからそう遠くない丘に、展望台がある公園があるのは分かりますか?』
もちろんだ。学校帰りに寄ったんだからな。
『そこにライナがいるみたいっす!』
何かの縁だろうか。俺の一番好きな場所にライナはいるという。携帯を開き、時間を確認する。タイムリミットまで、後十五分ほどあるようだ。ギリギリセーフと言ったとことか。
「見つかりましたか?」
「あぁ! 展望台にいるらしい」
「そうですか。なら急ぎましょう」
俺たちは、小走りで展望台を目指した
夕方に来た時とは違う雰囲気を醸し出す展望台は、例え街灯がなくとも月明かりで十分明るかった。丘の中腹で、ライナを見つけてくれた鹿が俺たちを迎えてくれ、ライナがいるという場所まで案内してくれた。不幸中の幸いとでも言うべきか、この時期は天体観測の時期ということで、いつもはこの時間でも人は数人いるのだが、今日に限ってはいないようだ。
ゆっくりと、ライナの元に歩いていく俺たち。ちょうど俺と彼方が町を見下ろした柵の前。月の光を浴びて金色に染まった大きな体が一つあった。俺は携帯を取って、連絡先に園長を指定し通話ボタンを押した、
『もしもし』
すぐに園長と思われる人物、というか本人が電話に出た。
「もしもし、園長ですか?」
『その声は、鮫島君かい?』
「はい、鮫島です。ライナを見つけました。今から連れて帰ります」
『そうか。それは良かった……。本当に良かった』
電話越しで啜り泣く音が聞こえた。本当に園長は動物が大好きだと感じた瞬間だった。
俺は携帯を閉じると、鹿と次郎に向き直った。
「ありがとう。ここからは俺の仕事だ。鹿君。この恩は、今度虎さんを通して返すよ」
鹿は黙って頷くと、山の方へ歩いて行った。
「さて、次郎。お前にはもう一働きしてもらう」
『アニキのご命令とあらば、なんでもしますぜ!』
俺は雀の兄貴分なったつもりは毛頭ないのだが、あながち悪い気はしなかった。
「みんなにライナが見つかった事を知らせてくれ。そのまま各自解散してもらって構わないからな」
『分かりました! そう伝えてきます!』
「あと、動物園のみんなにも頼むな」
『了解っす!』
次郎はそう言って、俺の肩から飛び立った。
さてと、たまには説教が必要だな。可愛い子には旅をさせろと言うが、ライナには早すぎたようだな。
「心とミネは帰ってくれて構わないぞ。今日はありがとな。今度必ず埋め合わせするから」
今日は迷惑をかけた。だから今度パフェでも奢ってやろうと思った瞬間、心は立ち去ろうともせずに口を開いた。
「私、ここで待ってます」
『私もです』
なんで? 俺の頭上にはハテナマークが大量に浮かんでいた事だろう。
「ここまで来たら、最後まで見届けさせてください」
『そうですよ』
まぁ、俺は構わないが、風邪でも引かれたらたまったもんじゃない。
「寒いだろ? 風邪ひくぞ?」
「その時は、湊君に看病でもしてもらいます。それより早く行ってあげなさい」
「……分かった。すぐ戻ってくるな」
この際、看病でもなんでもしてやろうと思った。とにかく、ライナを連れ帰る事が最優先事項であり、心達への埋め合わせは後で考えればいい。
俺は、一歩一歩地を噛みしめるようにライナに近づいて行った。
「……ライナ」
俺は、町を見ているライナの背中に声をかけた。それに反応して飛び退くライナは、すぐさま俺の顔を見て飛びついてきた。
『湊! 会いたかったよ!』
「この馬鹿野郎!」
ライナが俺に到達する前に怒鳴った。ライナの足は止まり、戸惑いの顔を浮かべる。
『え? なんで怒るのよ』
「なんでだと? いい加減にしろよ! どれだけの人に迷惑をかけてると思ってんだ!」
人里離れた山奥、というには語弊があるが、それなりに住宅街から離れているので、俺は大声で怒鳴った。
「俺に会いたかったとか言ってたみたいだけどなぁ、そんな事でどれだけの人や動物に迷惑をかけりゃ気が済むんだ!」
『だって、湊に会いたかったから……』
「ふざけんじゃねぇ! 土曜になりゃ俺は動物園に行く。それまで待てばよかっただろうが。なんでそれまで待てなかった!」
『だって、会いたかったから! 湊には、私の気持ちなんて分かんないんだよ!』
ライナも負けじと怒鳴りつけてきた。だが、今日の俺は引かない。柄でもない事をしているのは分かっているが、甘やかす事だけが教育じゃない。
「分かる訳ねぇだろ。俺はお前じゃねんだよ!」
『湊のそういうところ大っ嫌い!』
「じゃぁ、お前は俺の気持ちが分かるのかよ?」
『分かるわよ!』
「嘘だ」
『嘘じゃない!』
そう怒鳴るライナに俺は一歩、また一歩と近づいて、そして優しく頭を撫でた。
『えっ!』
「俺がどんなに心配してたか、分かってんのか」
ライオンの頭を撫でる奴が、どんな絵面に見えているのかは分からない。まぁ、どんな風に映ってようと関係ない。それほど俺はライナを大事に思っているんだ。もちろん恋愛感情とかそういうのじゃない。動物園のみんなは好きだし、何より俺が初めて世話をする動物だからだ。
「ほら、何も分かってねぇだろう? 俺だけじゃない。ライナの為に、園長や蟹沢さん、虎さんや他の動物たちも探し回ってくれたんだ。そんな人たちの思いを、お前は分かっていないだろ?」
『…………』
黙ったまま、体を震わせるライナ。
「ほら。帰るぞ」
俺はそんなライナを離して立ち上がり、コートのポケットに手を入れてそう言った。
「おーい! 帰るぞぉ!」
俺は心がいる方に手を振った。もちろん手を振りかえしてくることはなかったが、ミネが『お疲れ』と一吠えしてきた。
ライナを後ろに歩いていると、ふいにズボンの裾を引っかかれた。爪は立っていないので、何かが触れたほどの感触だったが、俺は足元に目を向けた。すると、涙目なライオンが一匹、申し訳なさそうに、
『……湊、ごめんなさい』
とだけ言った。
俺は黙ったまま、笑顔で頷いた、