第二章
「いってきます」
外に出ると、強い日差しが俺を迎えてくれた。季節は初冬とでもいうべきだろうが、未だ照つける日差しに文句を言ってやりたい気分だ。そのくせ気温は低く、本格的にマフラーが必要な時期が近づいてきた。あぁ、さむっ……。
学校は、歩いて十五分程度という比較的近場に存在するのだが、いつもの通学路を歩いていると、何故か途中で帰りたくなるのは、誰しも一度は経験した事がある現象だろう。衣替えが終わり、ブレザーが着用可能になったとはいえ、それだけで凌げるほどこの町の冬は甘くない。俺個人の意見としては、冬という季節は比較的好きなのだが、この寒さと冷たい風はどうにかならんものかというのが往年の課題だった。
「湊! おはようさん!」
突然名前を呼ばれたと思ったら、同時に頭に衝撃が走った。
「いてぇな、鷲津」
俺が鷲津と呼んだのは、悪友、鷲津海斗という常軌を逸した馬鹿だ。決して悪い顔をしている訳ではないのだが、どこか馬鹿っぽい。これは誰しもが抱く鷲津の第一印象だ。そして、その顔通り、もう救いようがない馬鹿だ。
「なんだその、加藤が水鉄砲食らったような顔は」
「なんだそれ?」
「こういうシチュエーションで使うらしいと、小学校の先生が言ってたんだよ」
「意味は?」
「俺が知るか!」
「なら使うな!」
微妙と言うよりは、致命的な間違いをしているようだ。おそらく正解は、鳩が豆鉄砲を食らったなのだが、どうもこいつは小学生の時点で間違って覚えているらしい。挙句の果てには、意味すら知らないという。どうしようもないなこいつは。
「それにしても寒いな! スノボーだな! ナンパだな!」
いつもの事だが、言動が馬鹿っぽい。だって、スノボーときてナンパって、意味が分からない。
「何が?」
俺は、抱いている疑問をそのままぶつけた。
「冬だよ!」
「だから?」
「馬鹿だなお前。冬と言ったらスノボー、スノボーって言えばナンパ、っていう先人の名言を知らねぇのか?」
いや、知らねぇよ。などと思ったが、
「そう言えば、そんな言葉があったかもな」
色々とめんどくさいので、適当に乗っかってみた。
「何! 本当にあったのか!」
なんでお前が驚いてんだよ! もう訳が分からん。
「もう何でもいいだろ。とにかく学校行こうぜ」
「オーケーメン!」
最後まで意味の分からない鷲津を横目に、俺は学校へ向かった。
「やはー、皆の衆!」
よく分からないテンションで教室に入っていく鷲津は、寒さでやる気が削られているクラスの連中に完全に引かれていた。そんな鷲津の横を通りすぎ、俺は自分の席に向かう。窓際の一番後ろ。くじで勝ち取った皆が羨む最高のポジション。隣が鷲津じゃなければの話だが。
「なぁ湊。宿題交換して」
席に座るや否や、いきなりそんな事を言う鷲津は、言葉を放つ前に考えるという動作をしないのだろうか。しかも、まだ宿題を見せてと言うならいいものの、交換してとは図々しいにもほどがある。
「馬鹿か。俺だって宿題やってねぇよ」
やべ。俺も馬鹿だった。
「なんだよ使えねぇな」
なんでお前に使えない呼ばわりされなきゃならんのだ。
「何? あんた達、また宿題やってこなかったの?」
割り込む形で、後ろから聞き覚えのある女子の声が耳に入ってくる。
「彼方か。言っとくけど、俺は単に忘れただけだからな。鷲津みたいな確信犯じゃない」
「てめぇ湊! まるで俺が昨日の夜に『あ、そう言えば宿題あったっけ。いいや。明日どうせ湊か彼方に見せてもらえばいいや。そして泡良くば、心ちゃんと一緒に宿題写しできればいいな』という独り言を言っていたのを、見ていたかの様じゃないか!」
鷲津。自滅って言葉を知っているか?
「もう見せてやんない!」
「ごめん彼方様! お願い! 見せて!」
牛尾彼方。同じクラスの女子で、俺とは中学からの仲だ。少し男勝りで、気が強いところがあるが、その容姿の良さや人当りのいい性格から、男女問わずに人気がある。
「湊は? 写すんなら早くしな」
「はい。ありがとうございます」
彼方は、その茶色がかった短い髪を掻きながら、俺たちの前にノートを差し出してきた。俺は鞄から数学のノートを取り出し、宿題を写しにかかった。HRまであと十分。ギリギリってとこか。
「……なぁ湊?」
宿題を写しながら、顔を上げずに耳打ちしてくる鷲津。いったいなんだ?
「なんだよ」
「いや、今πって記号を見て思ったんだが、彼方の奴、胸でけぇよな」
確かにでかいが、それがどうした。
「湊は何カップだと思う?」
「知らねぇよ! 黙ってとっとと写せ! さもないと今の発言、心に言うぞ?」
「私がどうかしまして?」
いきなり声をかけてくるもんだから、反射的に身体が過剰に反応してしまった。
「心様! おはようございます!」
鷲津の一際大きな挨拶が、鼓膜を通じて頭に響いた。
犬塚心。容姿端麗、才色兼備、文武両道などと、色々と評価される我が校のマドンナ的存在の女子だ。深い黒をした長髪にまるで雪のように白い肌。大きな瞳に、モデルのようなスタイル。まさに、大和撫子と言うにふさわしい。
「いやぁ、今日もお美しい。あの、お付き合いを前提に、結婚してくださいっ!」
鷲津はいつものように、求婚をしていた。セリフの順番がおかしいのだが、今は触れない事にしておこう。
鷲津のように、多くの男子生徒は心に好意を持っている。持たれている心だが、
「良くもまぁ、毎日嫌がらせをしてくるものですね。そんなに私と結婚したいのなら、飲み物の一本くらい買ってきてはどうです?」
天はニ物を与えずとはよく言ったものだ。性格が捻くれているうえに、辛口を少し超えた毒舌だ。だが、それがいいという馬鹿もたくさん存在するらしい。
「今買ってきますっ!」
鷲津のように。
「相変わらずキツイな、心」
「おはようございます湊君。あれは鷲津君が悪いのですよ」
「それに関しては何も言えんがな」
実は、苗字は違うが心は康介さんの従妹だ。ちょっと前に、心が飼っている犬を助けた事があって、それ以来学園のマドンナと仲良くさせてもらっているのだが、俺は鷲津と違って対等に扱ってもらっているはずだ。
「おはよ心。今日はどうしたの?」
ちなみに、彼方と心は仲がいい。あまり接点が見られない二人だが、どこか通じるところがあったのだろう。こう美人が二人並ぶと絵になるな。
「あ、彼方。いえ、ちょっと湊君に用がありまして」
「俺?」
嫌な予感はしなかったが、いい予感もしない。俺はエスパーでもなんでもないが、こういう時の予感は大体当たるんだよな。
「はい。それで、HR後の休み時間に、私を迎えに来てください」
「いや、なんでだよ!」
「だめですか?」
「面倒だろ! 今言え」
まるでお姫様のような優遇を求めてくる心に、俺は強く言い放った。だが、諦めるどころか不敵な笑みを浮かべ、
「いいんですか? ここで言っても」
と、逆に脅してきた。
そこで、俺は重要な事を思い出した。心は、俺が動物と話せるのを知る唯一の友人だという事を……。
「……分かった」
そうとしか答えは無い。俺が動物と話せるなんて暴露したところで、信じる奴は信じる奴は皆無だろうが、犬飼心が言う事なら、ほとんどの生徒が信じるに違いない。
「何々? 二人で内緒話?」
「では後程」
興味深々の彼方を横目に、心は教室を出て行った。相変わらずいい性格してるぜ、まったく。
「何よ。教えてよ」
悪いな彼方。今はもう、俺の口からは溜め息しか出ないよ。
「心様! 飲み物買ってきました! ってあれ?」
鷲津。お前は気楽でいいな。
「おーい。心いるか?」
HRも終え、俺は隣クラスに顔を覗かせていた。何故かは言うまでもない。先ほどの命令を全うするためだ。
『お前に教える訳ねぇだろ!』
『寝言は寝て言え!』
『次犬塚さんを呼び捨てにしたら、お前知らねぇからな!』
うわぁ。俺すげぇアウェイなんですけど……。
「あ、湊くーん!」
笑顔で手を振ってくる心。キャラを変えてでも、俺を地獄に落とそうとするか! 本当に性格悪すぎだろ!
『なんだよあいつ。どうする?』
『上履き以外全部隠そうぜ』
『それとも、今から便所に連れてくか?』
やばいよこれ。俺の青春、最終回じゃね?
そんな俺を知ってか知らずか、笑顔で声をかけてきた心は、俺に駆け寄ってきて手を握ってきた。
「さて、いきましょ」
「あ、あぁ……」
『おい。あいつ何組だ?』
『隣のクラスの鮫島ってやつだ』
『よし分かった。今から行くぞ!』
凄く物騒な声が聞こえてきた。もう駄目だ……。俺、もう終了のようです。
投げやりになった状態の俺は、何をするかも知らず手を引っ張られ、されるがままに連行された。
「ここです」
そして、連れてこられたのは、校舎の裏側だった。手入れが行き届いていない、雑草だらけのちょっとした通り道のような場所。新入生はともかく二年目である俺ですら、こんな場所に来たことがなかった。もっと言えば、この場所の存在さえ知らなかった。そんな一日に上映本数が一本というような寂れた映画館のような場所で、一体何をしようというのだ。まさか、こんなところで逢引……なんてことはないので、特に緊張もせず腕を組んだ。
「あの、この子なんですけど……」
心は俺の手を離した後、木陰にしゃがみこんだと思ったら、何かを抱きかかえて戻ってきた。その腕に抱かれているのは、三毛猫だった。実を言うと、大体予想はついていた。心が俺とさしで話す事といったら、もしかしなくとも動物関係の話だからだ。
「この子、朝に校門の近くで見つけたんですけど、なんだか様子がおかしくて」
よく見ると、なんだか元気が無いように見える。力強さがないというか、弱っているというか、とにかく様子が変だ。
「湊君、分かりますか?」
人間に対してはキツイくせに、動物に関しては優しいよな。それがいわゆるギャップというやつなのだろう。世間にはギャップ萌えという不確かな現象があるようだが。俺はそんな不良が捨て犬にミルクをあげていたシチュエーションでコロッといったりはしない。
「病気とかだったら、俺の専門外だぞ。その時は病院に連れてってやれ」
だからこそ、あえて期待させるような事は言わず、俺のできる範囲を説明した。
「分かりました」
元々覚悟はできているのだろう。心だって、俺が万能でない事くらい知っているからな。
何にせよ、俺はその三毛猫に話かけてみる事にした。
「三毛猫。俺の言葉が分かるか?」
俺は、三毛猫に顔を近づける。耳がピクリと動いて、重たそうな瞼がゆっくりと上がった。
『……分かる』
「なっ!」
あまりの衝撃的事実に、俺は驚きを隠せなかった。
「どうしたんですか! まさかこの猫ちゃん、不治の病や何かなのですか?」
今にも泣きそうな目をしている心。とりあえず落ち着けよ。例え不治の病だとしても、今の短い会話で分かる訳がないだろ。俺はエスパーでも、ましてや医者でもないんだぞ。
だが、一応驚かせた事は悪いと思う。だからこそ、俺があんな声を出した理由を、頭を掻きながら告げた。
「あ、いや違う。この三毛猫。オスなんだ」
「は?」
顔が連続写真のように変化していった。もちろん、怒に向かって。
「いや、三毛猫でオスって珍しいんだよ。だからビックリした」
やべ! 心が猫を抱きかかえながら震えてきた!
「そ、それはそうと、お前は野良か?」
『……あぁ。ミケって呼んでくれ』
俺は心が怒りを露わにする前に、その三毛猫に話しかけた。その作戦は功を奏したのか、怒りは落ち着いたらしく、ダイエット器具のような小刻みな揺れも停止を確認した。それにしても、三毛猫だからミケって王道すぎるだろ。
「それでミケ。どっか痛いのか?」
『……恥ずかしい話だが、自分、腹が減りすぎて動けねんだ』
なんだ、そんな事か。正直ほっとしたぞ。これで病気とかだったら、本当に医者に診せなきゃいけないからな。さて、心にも教えてやるかな。
「心。こいつ、名前はミケって言うらしいんだけど、どうやら病気でもなんでもなくて、ただ腹が減ってるだけみたいだぞ」
「そうですか……」
安堵が広がっていくのが良く分かった。感情が顔に出過ぎだ。
「それで、何か食わせれば、こいつも元気になると思う」
とは言ったものの、俺はすぐに後悔した。心が次に発する言葉が、なんとなく分かってしまったからだ。
「じゃぁ、湊君が買ってきてください」
「やっぱり、そうなりますよね?」
ほらな。
「早く行ってきてください。いつまで突っ立ってるつもりですか?」
ついさっき、俺は対等に扱われていると思っていたが、それは俺の勘違い――いや、希望だったのかもしれない。鷲津とは別の意味だが、俺も尻に敷かれていると感じた瞬間だった。
「……行ってきます」
俺は駆け足で購買に向かった。一時間目の準備を兼ねた短い休み時間に、普通購買に来る奴なんてほとんどいない。その為、牛乳やらパンやらをすぐに手に入れることができたが、あの購買のおばちゃんの可愛そうな奴を見るような目は、一生忘れられそうにない。
とにかく一時間目が始まるまであまり時間がないので、俺は行きよりも早く、というかダッシュで校舎裏を目指した。途中、もう心はいないんじゃないかと危惧したが、俺が戻った時にはまだミケを抱きかかえてた。
「買って……きたぞ」
膝に手をついて、右手と共にビニール袋を差し出す。久々に本気で走ったような気がする。この程度で息が上がるとは、俺も運動不足だな。
「ご苦労さまです。はい、ミケ」
『……すまねぇ、嬢ちゃん』
心には『みゃあ』としか聞こえてないんだろうな。じゃなきゃ、あんな日本男児のような猫に笑顔で牛乳を飲ませたりはしないだろう。
「どうだ? ちょっとは良くなったか?」
息を整えた俺は、パンにかじりつくミケに声をかけた。
『あぁ。おかげでだいぶ調子がもどってきた。世話かけたな、兄ちゃん』
「気にするな。俺より、心に礼を言ってくれ」
言葉に力が戻っていた。どうやら、本当に腹が減っていただけだったようだ。
『この嬢ちゃんにも感謝している。礼を言っといてくれ』
「ああ」
笑顔でミケを見つめている心に、俺は言葉を探しながら口を開いた。
「心。ミケがさ、ありがとう……だって」
俺が照れる必要はないのだが、顔が熱い。言葉を探したのに、結局普通の言葉が出てしまった。
「そうですか。ミケ、よかったわね」
『みゃあ』
余計なお世話だ!
「湊君。ミケは今、なんて?」
「え?」
これは非常に言いづらい。頬を掻きながら、どうにかごまかす言葉を探す。
「なんで照れてるんですか?」
「て、照れてなんかいねぇよ!」
「そうですか。じゃぁ、今ミケがなんて言ったか教えてください」
「それは……」
ミケの野郎は、ずっと不思議そうな顔をしている。他意はないのだろうが、俺にとっては簡単に口に出していい言葉じゃない。
「湊君?」
仕方ない。即興で作るか。
「ミケは、お嬢ちゃんの顔は忘れないって言ったんだよ」
これは、嘘です。
「え? そんな事で照れていたんですか?」
「そ、そうだよ」
「ふーん。変な人ですね」
俺は役者には向いてないかもしれない。だって、確実に心は疑っているもの。完全に疑いの目を向けてきているもの。
「まぁいいです。私は教室に戻りますから、湊君も早くしないと授業に遅れますよ?」
「はいよ」
どうでもよかったのか、案外あっさり引いてくれたことに胸を撫で下ろした。というか、そうでなくては俺が困る。
「では。ミケ元気でね」
『嬢ちゃんもな』
心は、黒い髪を靡かせながら、校舎の影に消えていった。
やっと行ったか。さてと……。
「おいミケ!」
『なんだ?』
「なんだじゃねぇ! お前が余計な事言わなきゃ、あんなに焦る必要なかったのによ!」
『それは、兄ちゃんが嘘をつくのが悪いだろ?』
「あんな事、俺の口から言ったら……」
『言ったら?』
「……とにかく、駄目なんだよ!」
あの時ミケは、
『すまねぇな嬢ちゃん。それより、もっとこの兄ちゃんと仲よくしたらどうだ?』
と言いやがった。これを俺の口から言ってみろ。恥ずかしいに加え、俺の死亡が確定する。
『良く分からないが、自分が間違っていたのなら謝ろう』
三毛猫が、俺に頭を下げてくる。というより、首を傾けたと言った方がしっくりくる。それにしても、傍から見たら相当変な絵面だろう。
「分かればいいんだが」
俺は罰が悪くなり、目を逸らして言った。
『ふぅ。ごちそうさん。それで兄ちゃんに質問なんだが』
食パン一切れと牛乳を完食したミケは、改まって俺に向き直ってきた。
「なんだ?」
『兄ちゃんは、なんで猫と喋れるんだ?』
まぁ、当然だよな。今まで聞いてこなかったのが不思議なくらいだ。
「俺も分かんなくてさ、今その原因を模索中って訳。できれば治す方法も知りたいとは思ってるんだが、歴史書や動物図鑑。医学書なんかにも、そんな単語は一つもなかった」
言葉にして改めて思った。俺は、治したいのだ。
昨日ミミに聞かれた時に答えたように、動物と喋れることを有害だと思った事は一度もない。けれど普通の人間は、その節理に逆らって生きればろくな事にはならないだろう。そんな嫌な予感が賭け捲る中、事が起こる前にどうにかしたいと思うのは普通ではないか。
『何故だ? 別に猫と喋れるなんて、色々と便利じゃないのか?』
便利だと言われれば便利なのだろう。
「ちなみに俺は、猫限定じゃなくて他の動物とも喋れる。便利じゃないとは言い切れないが、普通人間は、動物とは喋れないんだぞ?」
『それは知ってるが、駄目な事なのか?』
「駄目と言うか、こんな場面を他の奴に見られてもみろ。変人扱いされて、俺の青春ライフはおしまいだ」
つまり、そういう事だ。
『確かにそうだな』
ミケも、俺の事を思って言ってくれているのだろう。猫に心配されるとは、なんか複雑な気分だ。
『よし分かった!』
突然何かをひらめいたように、声を上げるミケ。
「何が?」
『自分も兄ちゃんを治す方法を探してみることにしよう。この借りもある事だしな』
「それはありがたいが、どうやって?」
『野良の情報網を甘く見るなよ? 野良だからこそ、自由に動き回れるって利点を生かして、色々な事が分かるはずだ』
それは確かに盲点だった。今までいろいろな動物に相談してきたが、野良猫は初めてだ。もしかしたら原因を知っている猫がいるかもしれないし、その治し方さえ知っている猫すらいるかもしれない。そうときたら、俺の返事は決まっている。
「ミケ、頼んでいいか?」
『任せろ! ならもう自分は行くぞ。何か分かったら、兄ちゃんの家にでも行くことにしよう』
「分かった」
何故ミケが俺の家を知っているのか疑問に思ったが、野良の情報網という奴を使うのだろうと予想がついたので、俺は一言了解した事だけを伝えた。
ミケは、軽快に柵を登って外に出た。立ち去る前に、一度だけこちらを振り向いて頭を下げたあと、颯爽と町に消えて行った。
それと同時に、一時間目の開始を告げるチャイムが鳴り響いた。
「やば! 遅刻だ!」
俺は本日二度目のダッシュをして、教室を目指した。
子守歌を聞いているような、そんな錯覚を起こす授業が淡々と続いていたが、その平和な時間は、昼食十五分前に壊されることになった。
「じゃあ、今から小テストをする」
現在の教科は日本史。クラスメイト達のブーイングが木霊する中、そんなことはお構いなしで教師は問題用紙を配り始めた。隣を見ると、誰よりも終わった顔をしている鷲津がいた。なんだろう。真っ白な灰になっているというのもちょっとおかしい表現かもしれないが、とにかく今までに見た事の無いような顔をしている。
そんな鷲津を観察していると、前の席から問題用紙が回ってきた。
「制限時間はチャイムまで。では、始め!」
開始の合図とともに、鉛筆で何かを書く音の合唱が始まった。裏返しの問題用紙を捲る。範囲は今やっている戦国時代のようだが、もちろん俺だって予習もなにもやっていない。分からな過ぎて、問題用紙が現代文の問題に見えてきた。とにかく、問題は五問。答えはその問題用紙の下にある囲いの中に書き込む式のようだ。名前を描く欄の横には点数を描く欄があるが、そこに百という数字があるという事は、このテストは百点満点だという事になる。という事は一問二十点か。さて、なになに――。
第一問「桶狭間の戦いで、織田信長が打ち破った駿河の武将は誰」
第一問から難問だな。桶狭間の戦いなら俺も知っているが、信長が勝った事しか覚えてない。その前に駿河ってどこだよ。今そんな地名の場所あったか? いやそれとも変わって今は違う名前なのか?
『その答えは今川義元っすよ、アニキ』
俺が頭を抱えていると、窓の外からそんな声が聞こえた。俺はゆっくりと声の方に顔を向ける。すると、空いている窓の冊子のところに、一匹の雀が立っていた。
『その答え、今川義元っすよ! 絶対正解っすから』
こいつの名は次郎。見たとおり何の変哲もない雀だ。雀の恩返しという訳ではないが、以前足を怪我しているところを助けて以来、どうも俺に懐いてきて今は俺の原因を探してくれている協力者だ。
『なにしてんすか? 早く書かないと時間無いっすよ?』
時間がない事くらい分かってる。だが、雀に教えてもらうなんて、何か情けないじゃないか。
俺は黒板の上に掛かる時計を目を移した。残り十分。背に腹は代えられんか……。
俺は、解答欄に今川義元と書き込み、そのまま第二問の解答に進んだ。
第二問「戦国最強と言われた騎馬隊を持つ、甲斐の虎と呼ばれた戦国武将は誰」
これは俺でも分かる。有名だしな。
『答えは武田信玄っす!』
解答欄に書こうとしたら、次郎がそんな事を言ってきた。テスト中に雀に声をかける訳にもいかないし、俺は出かかっていた言葉を飲み込んだ。解答用紙に向き直った俺は、右手に持つ鉛筆を走らせた。この調子で分かる問題が続けば、何とか今回は乗り越えられそうだ。
第三問「織田信長が追放した、室町幕府最後の将軍は誰」
ここで激ムズ問題が到来した。俺は日本史が得意な訳じゃないし、こんなの予習しとかなきゃ答えられん。だとしても、とりあえず答えようと足掻く。だが、頭に浮かぶ将軍の名前は徳川家康だけだった。もちろん、それが答えでない事は分かっている。
仕方がない。ここは次郎に任せるか。
『これは、俺も分かんないっすね』
「分かんねぇのかよ!」
しまった! 思わず口に出してしまった!
と、思った時には時すでに遅し。クラスメイトたちが、一気に視線を向けてくる。テスト中にこんな大声を出す奴なんて前代未聞だ。
「おい鮫島。分からないなら黙って悩め! 次やったら点数やらないからな」
「……すいません」
教室が笑いに包まれた。どうやら罰は間逃れた様だが、その代わりに俺の中にある大事な何かを失った気がした。
俺は、窓にいるだろう次郎を睨みつけた。だが、そこに次郎の姿はなかった。あの野郎、逃げやがったな!
しかし、いつまでも次郎に怒りをぶつけている時間はない。あと二問、どうにか答えなければ。タイムリミットはあと三分。時計の秒針ってあんなに早かったっけ?
「ん?」
俺が問題とにらめっこをしていると、右から消しカスが飛んできた。俺はカンニングと間違われないように最善の注意を払い、消しカスが飛んできた方を見る。こちらをちらちら見てくる犯人。それは、隣に座る鷲津だった。そこで俺は悟った。こいつは俺の答案を見たいのだ。成績が非常に悪い鷲津だが、日本史は特に悪い。もちろん一問も解けてはいないだろう。
鷲津の為に、答えが見える位置まで問題用紙を右側に寄せる。だが、いつまでたってもカンニングの素振りを鷲津は見せなかった。それどころか、解答欄を左に寄せてきやがった。
つまり、俺に答えを教えようとしているのだ。おそらくさっきの俺の叫びで、自分より俺の方ができていないと確信したのだろう。しかもその誇らしげな笑み。相当自信があるに違いない。成長したな鷲津。お父さんは嬉しいよ。
ではでは、さっそく拝見。
「っ!」
解答欄は、力強い文字ですべて埋まっていた。
第一問の解答欄はこうだ。
『織田信長』
訳が分からん。問題に信長が破ったのは誰と書かれているにも関わらず、答えが織田信長だと? まさか信長は、桶狭間で自分と戦っていたのかぁ! っと、そんな訳はなく、ただ最後まで問題をしっかりと読まなかった結果だろう。大方、桶狭間の勝利者と勘違いをしているに違いない。さて、次だ次。
『織田信長』
鷲津がどんだけ信長が好きなのかは知らないが、既にリスペクトをしているとしか思えない。ちなみにイメージで言うと、お前はどちらかというと信長というよりは秀吉って感じだぞ。よくもまぁ、こんな回答を俺に自信満々で見せてきたなぁおい! くそっ! こんなんじゃ、第三問も期待できやしねぇよ。
『足利義昭』
なんで真面目に答えてんだ! そこは信長でいいだろ! 俺は答えが分かったからいいものの、なにがしたいのか全く分かんねぇ!
授業終了を知らせるチャイムが鳴った。俺はなんとか全問答えることができた。横をちらっと見る。ものすごく誇らしげな顔をしている鷲津がそこにはいた。すいません鷲津さん。第三問以外、全部『織田信長』だったのに、良くそんな顔ができますね。
昼休み終了後、返された小テストの結果は、言うまでもないだろう。
放課後を、カップ麺にお湯を入れた後のように今か今かと待っていると、意外にあっさりと六時間目までの授業は終了し、俺は帰り支度をしていた。ふと窓の外を見ると、日が短くなったのもあり、すでに空は朱色に染まり始めていた。
特に変わった事もないHRも終わり、俺はいつものように帰宅――と言いたいところだが、異変は帰り際に起こった。めずらしく彼方が一緒に帰ろうと言ってきたのだ。実は自宅の方向は一緒なのだが、今まで一緒に登下校をしたことなど一度もなかった。
隣に並び、いつもと同じ帰宅ルートを歩く。なのに、女子と一緒に帰るというだけでこんなにも違う道に見えるのは錯覚以外の何者でもないだろう。ただ、お互い帰宅部で中学からの仲だというのに、一緒に歩くだけでこんなにも恥ずかしいのは何故だ。変に意識しちまって、まっすぐ彼方を見ることができない。
歩いて十五分ほどのちょっとしたデート、とでも言うのだろうか。俺もだが、誘ってきた彼方本人さえ、どこか恥ずかしそうで頬を赤らめていた。おそらく俺と同じ錯覚を起こしているのだろうが、いつもの強気の彼方からは想像ができない女の子らしい一面だった。
一歩、また一歩と、ゆっくりと進んでいく。実際は普通の速さで歩いているのだろうが、緊張のせいで色々と意識してしまっているのが原因で、非常に遅く歩いていると感じているに違いない。
静寂が俺たちを支配している反面、俺はこの空気に耐え切れなかった。とりあえず、何か喋らなくては。
『鮫島はん。可愛い子なんか連れて、デートですか?』
全神経が研ぎ澄まされていたせいか、そんな鳩の声が聞こえた時に過剰に反応してしまった。
俺は、この界隈の動物たちの間では、ちょっとした有名人だ。もともと困っている奴を見ると、何もせずにはいられない性格からか、まだ言葉が分からない頃から色々な動物を気にかけていた。その後言葉が通じるようになってからは、相談に乗ったり時には助けたりと動いているうちに、道行く動物たちに声をかけられるようになった。
だが、これが早く治したい理由の一つでもある。もちろん嬉しいのだが、それは一人で歩いているときの話だ。こうして複数人でいるときに話しかけられると、まったく対応できない上に、
「湊? どうした?」
と、こう心配される。
「いや、なんでもない」
だが、これは何かを話すチャンスだ。
『あのさ!』
俺たちの声がかぶる。どうやら彼方も、俺と同じ事を思っていたようだ。
『どうぞ』
またもやかぶる。これじゃ、ラブコメでよくある王道の展開じゃねぇか。
「じゃぁ、俺から話すぞ」
どうにか方程式は破ったが、俺から話すと言ったところで特に何も考えていなかった。さて、どうしたものか。って、なんで付き合いたてのカップルのような感じになってんだ!
「あのさ、なんで今日は一緒に帰ろうって思ったわけ?」
よし! 自然だ!
「それね、今私が言おうとした事」
「は? 誘ってきたのはお前だろ?」
「そっちじゃない。理由の話」
「あ、そっちね」
俺の思惑とは少し違ったが、どうやら場の空気を和ませる事はできたようだ。
「あのね、ちょっと寄り道しない?」
俺は黙って頷いた。
正規の帰宅ルートから外れた小高い山の上。そこには、展望台のようなスポットがある。秋には紅葉の名所となるが、この時期は、天体観測の穴場として有名だ。
そして、俺と彼方が初めて喋った場所でもある。
俺は柵に肘をついて、この町を一望した。何度か来た場所だが、やっぱりこの場所はいい。心が休まるというか、悪い事なんて忘れてしまいそうな、そんな力を持っている。
この時間帯は、あまり人がいない。本当だったら静かなはずなのだが、今の俺にとっては、野鳥やらの声が全部耳に入ってくるので、嘘でも静かとは言えない状況だった。
「あのさ、この場所、覚えてる?」
俺の横に来た彼方は、町を一望しながら言った。
「あぁ、覚えてるよ。たまたまここで会ったんだよな」
「うん。あの頃はまだ話したこともなくてな。湊もなんかよそよそしかった」
「まぁ、初めて話したんだし、しょうがねぇだろ」
「そうだな」
少しずつ、あの時を思い出す。中学一年の冬に、たまたまここで会った俺たちは、同じクラスだという事もあってなんとなく挨拶をして少しずつ打ち解けていった。
「それでな、湊。あんた何か悩み事でもあるの?」
「え?」
不意打ちだった。悩みと言えばあれしかないだろう。だが、彼方の前でばれるようなへまはしていないはず。だけど、どこかで見られたという可能性もある。俺は言葉に詰まった。
「いや、無いならいいんだよ。今日もさ、心と二人で何かやってたみたいだし、あたしの知らない事でもあるのかな、って思って……」
どこか笑顔が作られているような気がする。そんな寂しそうな顔すんなよ。
「あのさ――」
「言えない事なの?」
どうする。本当の事を言うか? いや、駄目だ。変に気を使わせるような事はしたくない。
「……ごめん。今は言えない」
「……そっか」
どこか遠くを見るような目をする彼方。気を許したら涙が零れ落ちそうな、そんな脆い笑顔をして。
「いつか、絶対話すからさ。それまでは待っていてくれないか?」
「……うん」
気まずい雰囲気が流れる。俺はどうもこの空気が嫌いだ。何をしたらいいか分からなくなる。
「あたしさ、あの時湊が言ってくれた言葉、すごく嬉しかったんだ」
俺は、あの時の言葉とやらを、記憶の中から探した。
「ずっとその事で悩んでたから、あの言葉で色々と自信がついたというか、とにかく元気が出た。だから、湊も何か悩んでるんだったら、力になりたかったんだ」
あの時の彼方の悩みか。そう言えば、男っぽい名前が嫌だとか言ってたな。それで俺はあの時……。
「でも、いつか話してくれるってんなら、その時まで待つとするよ」
耳には入ってくるのだが、頭には入ってこなかった。仕方ないだろう? あの時の言葉とやらを思い出し、自分の言った事の恥ずかしさを改めて実感している最中だったんだから。
「じゃ、帰ろっか!」
「え? もういいのか?」
聞いていなかった間に、彼方の言いたい事は終わったようだ。だが、俺の挙動で聞いてなかったのがばれたのか、彼方はしかめ面をしていた。
「今の、聞いてなかったのか?」
「いや、その……」
やべっ! 怒られる!
「まぁいいや。さっさと帰るぞ、この甲斐性無し!」
「だ、誰が甲斐性無しだ!」
「ふんだ! べー」
お茶目に舌を出して俺から離れていく彼方を、一瞬でも可愛いと思ってしまった自分を責めながら、俺は彼方の背中を追った。
「だぁ! 疲れた!」
俺は帰宅してすぐに、自分のベッドにうなだれた。
『ずいぶんと遅かったじゃない。寄り道でもしてたのかい?』
「ん? ちょっとハイキングにな」
『ハイキング? 制服でかい?』
「まぁな」
『馬鹿じゃないの?』
ミミは枕元に姿勢良く座って、俺の事を罵ってきた。確かに、制服にローファーでハイキングなんて普通じゃ考えられない。だが、実際にはハイキングというほどの山は登っていないのだから、それで疲れている訳ではない。色々と詰まった一日だったからだ。
『ほら。制服が皺になるから脱ぎな』
「あいよ。ついでに、風呂に入ってきたいんだけど、もう湧いてるか?」
『ええ。さっき鈴葉がお風呂を沸かしていたから、もう入ってきても大丈夫なはずよ』
「そっか。んじゃ、行ってくるわ」
俺は、ミミに言われるがまま部屋でパンツ一枚になって、小走りで脱衣所に向かった。階段を下りてすぐの扉が脱衣所の入り口だ。俺はドアノブに手を伸ばす。
「あ、兄ちゃんまたそんな恰好でうろついて」
不意に後ろから声をかけられる。振り返ると、そこには中学三年生の妹、鈴葉が立っていた。
「風呂に入んだよ。別にいいじゃんか」
いつものポニーテールが健在という事は、鈴葉はまだ風呂に入っていないようだな。
「年頃の妹がいるのを忘れてない?」
「え? どこに?」
俺は、わざとらしくあたりを見回す。
「もぉ。ここだよ、ここ! 見て分かんないかな?」
「なっ! マジか!」
さらにわざとらしく驚く。目の前では、頬をふくらましている鈴葉がいた。
「兄ちゃん、サイテー」
「落ち着け、血を分けた自称年頃の妹よ」
「自称じゃないよ」
ツッコミが入ったが、俺は構わず続ける。
「まぁ、お前と俺は、お互いに裸なんて見飽きただろう? 今更気にする事でもあるまい」
「セクハラだよ?」
「スキンシップだ」
俺は、そう言って脱衣所に入った。
「あ、待って。お風呂入るんだったら、シャンプー変えといってってお母さんが」
「はいよ」
ゆっくりと扉を閉め、パンツを脱いだ。洗面台の下の棚から詰め替え用のシャンプーを取り出し、俺は風呂場に入る。うちのシャワーは少し古いせいか、お湯が出るまで少し時間がかかる。俺はその間にシャンプーを詰め替え、湯気が出始めた水を、頭からかぶった。
「ふぅ」
俺は、シャワーで一通り汗を流した後、湯船に浸かりながら彼方の事を考えていた。さっきまで一緒にいたのだが、どうも今日は様子がおかしかったような気がする。一緒に帰ろうだの、寄り道をしようだの、挙句の果てには俺の力になりたいなんて。いったい何があいつを変えたのだろう。いや、それともいつもの自分は飾りだったのかもしれないな。いつもは男勝りで強気な彼方に、女の子らしいところがあることくらい、俺だって知ってるしな。
『私ね、彼方って名前嫌いなの』
初めて彼方と喋ったあの時を思い出す。とても寒い日の夕方だった。空気は澄んでいて、いつもより町が綺麗に見えた。しかも、その日はダイヤモンドダストが出ていて、一万ドルの夜景にも劣らない絶景を誇っていた。
俺は、ホッカイロを手に、いつものように手すりに体重を預け、目で写真を撮るようにその景色にくぎ付けだった。そんな時、横で同じようにする彼方を見つけたんだ。きっかけは忘れたけど、会話をしているうちに彼方がそんな事を言ったんだ。今と違って、まだ女の子っぽく、喋り方も女子って感じだった。
『どうして?』
俺の返事は短絡的なものだったのは良く覚えている。今思うと、あれが扉を開ける鍵になったのかもしれない。少し黙った後、彼方は口を開いたんだ。そこからの会話は、恥ずかしいからあまり思い出したくない。
『だって、男っぽい名前じゃない?』
『そうかな?』
『そうよ。小学校の時はずっと名前でからかわれて、ずっと嫌だったの。だから、あんまり下の名前は好きじゃない』
『へぇ。俺は彼方って名前、好きだけどな』
『え?』
『牛尾の親が、どういう意味を込めて彼方って名前を付けたのかは分からない。でも俺は、牛尾の名前を笑わない。もちろんからかいもしない。だって彼方って名前、かっこいいじゃねぇか』
今思えば、恥ずかしい上にかなり不謹慎な事を言ったと思う。
『何言ってるのよ! そう思われるのが嫌だって言ってるの!』
『だったらずっとそう思ってろ!』
『え?』
『そう思ってればいいじゃねぇか。俺は彼方って呼び続けるぞ』
『あんた何を言って――』
『お前が気にならなくくらい、彼方って言い続ける。そしたら、いつか自分の名前が好きになるかもしれねぇじゃねぇか』
『…………』
『だからさ、もうそんな寂しいこと言うなよ。牛尾彼方はお前しかいないんだ』
うわぁ。本気で思い出したくない。今でさえ、顔から火がでるくらい恥ずかしい。俺がその時どう思っていたかは忘れていたが、その時の彼方の事は鮮明に思い出せる。肩を震わせ、ずっと黙ってたな。
『なんて悪い! ろくに喋ったこともない奴が出しゃばった!』
『……あんた、名前は?』
『え? 湊だけど』
『ふーん。じゃぁ湊!』
『は、はい!』
『それだけ、大きな事を言ったんだから、ちゃんと遂行しなさいよ!』
『はい?』
『私が好きになるまで、ずっと言い続けてくれるんでしょ?』
『あ、ああ! 男に二言はない』
『なら、これからもよろしくね』
彼方の目に浮かぶ雫は、ダイヤモンドダストよりも輝いていた。俺はあの時、怒って泣いているものだと思っていたが、今日初めて嬉し涙だという事が判明した。かなり恥ずかしいが、結果的に良かったのかもしれないな。
そういえば、彼方が男勝りになったのって、この後からだったっけ。
『なんだい? 悩み事かい?』
「いや、悩み事ってほどの事じゃ――って、ミミ!」
『おじゃまするよ』
「どっから入った!」
『そこだよ』
俺が昔話を思い出している隙に、ミミが風呂場に侵入していた。入ってきた場所を聞くと、入り口の扉を指している。
「一人で開けたのか?」
『当たりまえでしょ』
「すげぇな」
あんなに大きな扉をこいつ一人で開けたのか。いや、正確には一匹で開けた、なのだが、今はそんなの問題じゃない。ご丁寧に閉めてあるし、まったく器用な猫だ――って!
「お前、雌だろうが!」
実は、ミミと風呂に入るのは初めてではないのだが、お約束というか、一応は言っておく知るようがあるだろう。
『だからなんだい? 私は猫だよ? それとも、猫に欲情するのかい?』
「いや、そんなことはないが……」
『ならいいじゃないか』
「……はい」
毎回思うのだが、なんで俺は猫に手玉に取られているのだろう。ただ飼っている猫なら俺だってこうも反応はしない。だが、相手の言葉が分かるとなっちゃ話は別だ。
と思ったところで、どうにかなる訳ではない。俺は湯船を出て、もくもくと身体を洗った。
「ミミ。お背中お流ししましょうか?」
『私はいいわよ。それより、携帯鳴ってわよ』
風呂に入りに来た訳でもなく、わざわざそんな事を伝えにきたのか。
『今わざわざそんな事を伝えに来たのかって思ったでしょ?』
「エスパーかお前は!」
『まぁそんなとこよ』
軽く流された。うちの猫は、いつの間にこんな高等技術を会得したのだろうか。
『とにかく、着信数が尋常じゃなかったから伝えにきたの。何かあったんじゃないの?』
「それを早く言え!」
俺は風呂場を出て一通り身体を拭いた後、バスタオルを腰に巻いてそのまま自分の部屋に向かった。半裸のまま階段を駆け上り、部屋に入ってベッドの上に無造作に置かれている携帯を手に取った。開くと、ディスプレイには着信が十二件。確かに尋常じゃない数だな。
名前を見ると、園長と蟹沢さんだった。そこで、嫌なイメージが一気に湧いた。動物園で何かあったとしか思えなかったからだ。
俺は、急いで折り返しの電話をかける。相手は熊井園長。三回ほど呼び出し音が鳴った後、
『もしもし!』
という、これまた尋常ではない熊井園長の声がした。
「もしもし、鮫島です」
『鮫島君かい? よかった! 今どこにいるんだい?』
声が大きい。しかも、どこか息が切れている感じがひしひしと伝わってきた。
「今は家にいますが、そんなに慌ててどうしたんですか?」
「すまない。今は説明するより、こっちに来てほしいんだ!」
一体なんだというのだ。
「どうしたんですか? 状況がまったく把握できないんですけど?」
「ライナが、逃げ出したんだ!」
腰に巻いていたタオルと共に、右手から携帯が滑り落ちた。