前篇
10月。秋風が気持ちの良い朝。僕は目を覚ました。
ビールの空き缶、先週のジャンプ、読みかけの雑誌が転がる部屋で僕も寝転がっている。
隣には直子が寝転がっている。
彼女の寝顔はいつもと変わらず苦しそうだ。
また、嫌な夢を見ているのだろう。
洗面台に向かい歯を磨く。
鏡に映るのはどこか悲観的な顔。もう少し明るい顔に生まれたかった。
ひげをそり、トースターに食パンを2枚入れる。
布団にくるまる直子を蹴飛ばす。
「朝だぞ!起きろよ」
直子がぬらぬらと起き上がる。髪はぼさぼさだ。
僕はそんな直子の髪を手で梳かす。直子は頭をなでられる犬のような顔をする。
「なんか熱があるみたい。今日は大学休むよ」
彼女は気だるそうに言った。
僕は直子の額に手を当ててみる。いたって平熱である。
「熱なんか無いぞ。さっさと食パン食えよ。量子力学は遅刻したら欠席扱いになるんだろ」
「彰のばか。ひとでなし」
直子はぶつぶつ言いながらも食パンにイチゴジャムを塗りたくる。
いつも通りの朝だ。
僕はいつも彼女より少しだけ早く起きる。
彼女はいつも少しだけ駄々をこねる。
彼女の駄々は可愛いものだった。
自転車に乗ってアパートから1キロ程離れた大学へと向かう。
紺色の自転車が僕の自転車。水色の自転車が直子の自転車。
僕が直子と出会ったのは1年と半年前。
直子は大学1年生。僕は大学3年生だった。
互いに一目ぼれだった。
世界中の大学生がそうであるように、僕たちもまた紆余曲折を経て交際に至った。
それから1年と半年が経った。
僕は直子との付き合いを大切にしながらも勉強を重ね、無事に県庁への内定を得ることができた。
だが、同時に国家公務員試験にも合格した。
僕は悩んでいる。どちらの道に進むのか。
直子は気付いている。僕が悩んでいることを。
県庁は大学からも近いので来年からも直子と暮らせる。
一方、国は霞ヶ関で勤務なので直子とは遠距離になってしまう。
つまり、僕の進路選択は2人の将来に大きな影響を与えてしまうのだ。
直子は心配している。
しかし、僕の隣で自転車を漕ぐ直子は一切そんなそぶりを見せない。
直子のきれいな黒髪が風にゆられている。
5分ほどで大学に着いた。
僕は研究室に、直子は講義室に向かう。
研究室は5号館の最上階にある。僕は最近体力づくりのためにエレベーターを使わないことを心がけている。
階段を上がりきり、廊下の一番奥に僕が所属する研究室がある。
研究室に入ると、多賀がパソコンの画面をにらみながらコーヒーをすすっていた。
「おはよう。今日も早いな」
声をかけると、彼は顔を上げ、ようやく僕の存在に気付いた。
「逆だよ。遅いんだ。卒論のデータをまとめようと思っていたらいつの間にか夜が明けていた」
「相変わらず、熱心だな。どうだ?中間発表の資料は間に合いそうか」
多賀はまずそうにコーヒーをすすった。
「なんとかな。それより、お前どっちに行くか決めたのか?」
僕は自分の席に着くとパソコンの電源を入れた。
「進路のことか?…まだ迷ってるんだ」
「そうだよな。直子ちゃんはなんて言ってるんだ?」
「直子は何も言ってこない。きっとおれの人生を自分が縛りたくないと思っているんだろう。そういうやつなんだよ」
「…そうか。じゃあ、おれは資料もまとまったし一旦家に帰るわ」
「おう、おつかれ」
多賀は雑に荷物をまとめ大きな手さげに突っ込むと席を立った。そして、出口まで近づくと、ぼさぼさの髪をがしがしと掻きながら僕の方を振り返った。
「斎藤、あんまり長引かせるなよ」
そう言うとふらふらと帰って行った。
1人になった研究室で僕はつぶやく。
「分かってるよ、言われなくても」