おもちゃのお釈迦様
この小説は完全なフィクションです。
子供みたいな人だった。
いや、子供以外の何者でもなかった。
何度目の喧嘩だろう――あと数日で四割も値上がりする紫煙を眺めながら、この一週間で幾度目になるのかわからない質問を自分に投げかけていた。緩やかなカーブに切り揃え、上品に白く彩られていたはずの爪は、ヤニで黄ばみ始めていた。
きっかけは些細なこと。
明け方、酔っぱらいの彼に電話で叩き起こされ、
「家に来て」と懇願され、タクシーを飛ばして行ってみれば、
「なにしに来たの?」といわれた。
「……帰るわ」一言残し、私は振り向きもせずバス停に向かい、待っていた始発のバスで家まで帰った。夕方電話して、朝はなんだったのか聞いてみると、
「顔を見たかっただけだ」というようなことをいった。私は絶句した。
「電話なんだからしゃべれよ」というようなことをいわれ、私は電話を切った。
これが些細なことだと思う時点で、私たちは歪んでいる。そして、そんなことはとっくの昔に気付いている。季節を六つも前から、付き合い始めたときからわかっていた。
叩き起こされて、放置されるのは始めてではない。行ってみたのはいいけれど、からまれて帰ってくるなんてことも二度ほどあった。
彼は謝らなかった。いや、謝れないのだ。
そのかわりに、電話の声が震える。その後の連絡はメールでしかしてこない。しばらくすると責任転嫁する。わかってくれない私が悪い。あてつけのように飲み屋の女の子と遊んで散財する。
だが飲み屋の女の子は仕事だから付き合ってくれるだけなので、結局は寂しくなり、泥酔で迎えにくる。そして思い詰めた表情を浮かべ、ただ抱きしめる。痕が残るほど強く――その繰り返し。
「思いやりがたりないって昔のカノジョにいわれたよ」いつのことだったか、寝物語に聞かされた。
「へえ……」私は生返事をした。昔の女の話をされて嫉妬したからというわけではない。不思議に思ったのだ。思いやりが何かを知らない彼が、それを持っているはずなどないのに、たりない、なんて何故いったんだろう。
彼がわがままだということは、多分、誰の目にも明らかだ。思ったことはすぐに口に出すし、ボキャブラリーの少なさから、その言葉は失礼極まりなく人を傷付ける。常に注目を浴びていないと気が済まず、そうでないときはあからさまに機嫌が悪い。思い通りにならない相手は、ツカエナイなどといって切り捨てる。そんなだから、金回りのいいときしか周りに人がいない。いたとしても、金が目当てか、ほんのいっとき楽しい部分だけを共有する薄っぺらなつながりだけだった。
わかっていながら付き合い始めた。皮肉にも、きっかけはそんな彼の性格だったような気がする。
付き合い始めてみると、ひどい束縛だった。なるべく一緒にいるように、身の回りのこともやるようにしむけられる。そしてそれももちろん自分の都合で、懐が温かければ、私は放っておいて飲みにいく。飲み屋の女の子とは外食を楽しみ、私には家で料理を作らせる。そういうときには懐も寒いから、材料を買うのも私、ということも珍しくはなかった。いつの間にか掃除も洗濯も、彼の体を洗うことまで、私の役目として位置付けられていた。
それが不満だったわけではない。
「いいように使ってるだけだ、なんていってたの、聞いちゃったんだけど……大丈夫?」進言してくれた友達の言葉も、
「男の照れ」だと笑い飛ばした。
たしかに気持ちよい言葉ではなかったし、養われているわけでもないのに家事をやって当然だという態度に気分が悪くなるときもあった。たまのお出かけで牛丼屋に連れて行かれれば、惨めな気持ちになることもあった。
だが私は知っていた。
甘えることでしか愛を表現できないのだ。そして感じることもできない。
だから私たちは、傍目から見れば亭主関白の仲のいいカップルだった。
大方の予想通り、彼はメールしてきた。私の休みで、もう夕方だった。
『まだ寝てるのか?』私は昼寝を始めたところだった。考えごとをしていてさっき寝たところだというと、
『悩むと白髪が増えるぞ』と返ってきた。笑って欲しいのだ。いや、怒るのでもかまわない。目を逸らしたい。
『悩んでるんじゃなくて傷ついてるの』そういってみても、
『何かあったのか』としらを切る。しらを切るというのは、正しくないだろう。多分、あまり覚えていないのだ。
『ゴメン』はぐらかそうとしたり、私のせいにしようしたりするのを完全に無視し、事実をつきつけると漸く謝った。彼にしてみればとても勇気のいることだ。そして反面、これでなかったことになるだろうという算段であろう。面倒なことに向き合っていたくない。
『もういいよ』のかわりに、私は映画のタイトルを送った。
この間一緒にみたその映画は、ヒロインが彼の夢を邪魔しないために身をひくというストーリーだった。
「こんなやつはいないよ。自分か不幸になるのに。こんなことするやつはいない」ソファーに寝そべり、孫の手で痒いところを私に差し示しながら彼がそういった映画のタイトルだった。
クエスチョンマークが送られてきた返事に、
『私は自分の幸せよりも大切な人の幸せを先に考える。それが愛だと信じてるから。だけどあんまり都合よく扱われてばかりだと、大切な人が本当に大切なのかっていうところからわからなくなってくる』と返事をした。
彼の様子が目に浮かぶ。
まず、愛という言葉に驚愕。そんな重たくて責任が発生しそうなものは、彼の辞書からは幼少のころに既に塗り潰されて葬られている。
次に都合よく扱われてという言葉に怒る。身の回りのことをやらせてやっているのに、酔って顔をみたいなんて最上級の扱いなのにわからない私に腹をたてる。
最後に御託を並べる私に苛立つ。たかが私のくせに上からものをいうような態度は許せない。
報復に遊びにいく。傷つこうが何をしようが知ったことではない。すべては理解しない私が悪い。だから思い知らせてやらなくてはならない。
そういう短絡的な思考が私を疲れさせ、傷つけ寂しくさせているというところまでは及ばず、案の定、返事はなかった。
彼が素早く謝ったことと、私が素早く許さなかったことを除けば、いつもの仲違いと変わりなかった。会わない間は最低限の帰宅のメールだけだして、本を読み漁る。好きな時間に眠って、気が向けば散歩をして、片っ端から占いをやる。
彼はいつものように伺いのメールを寄越した。
『眠れない』やらどこかが『痛い』やらという内容だ。それでも休みの前の日なんかには来ない。一緒に飲んでくれる友達がいるからだ。適当なメールも酒場の閉まった明け方に届く。散歩や薬を飲むことを提言してメールを切り上げる。
いつもはただの意地の張り合いで、折れるのは大人の私のほうだった。そうしなければ、終わってしまう気がしていた。
切り上げられるメールに悶絶している彼が目に浮かぶ。仲直りしたいのだ。私がいないと生活が不便なのだ。何事もなかったように接してくれない私が憎いのだ。それでも私は知らんぷりを決め込んだ。
『もう寝てしまうの?』また明け方にメールがくる。
『そうだけど、何かあったの?』色々わからないと返事がくる。難しい書類でもあるのかと思えば、
『家のことやパソコンのこと』だという。しばらく考えて、やっぱり寝ると答えた。
『人に優しくできる気分じゃないから、誰にも会いたくないの』というと、
『分かった』と返ってきた。
彼は誰かに頼むだろうか。尻の軽い女を引き入れるのだろうか。不思議と嫉妬心が駆り立てられなかった。もしかしたら、最後のメールだったかも知れないな、と思った。そして、それなら仕方ないけど、鍵を返しに行かなくちゃと思った。その時に顔を合わせるのは嫌だなと思った。恨み言ならいくらでもいえるし、いってやりたい気もするが、別れるのなら必要のないことだ。嫉妬も不安も心配もなく、ただ安らかに眠りたい。
私は疲れきっていた。
片っ端からやった占いは、西洋東洋、生年月日姓名など、占術の違いに関係なく、大体同じ内容だった。彼はわがままで気まぐれで掴みどころがなく、感情のまま周囲をぶんぶん振り回す甘えん坊の暴れん坊。本人を見れば誕生日やら血液型やらを知らなくても一目でわかることなのだが、占いってすごいなと感心した。
同時に恐怖を感じた。
彼の生まれ年には二〇九万人の赤ちゃんが我が国に生まれている。単純計算でいけば、その半分の男性のうち、その三六五分の一である人間が同じ誕生日で、その四分の一が同じ血液型で――要するに彼と一致する人間が七〇〇人以上この国に存在するということだ。
七〇〇もの台風の目が存在している。そして私の年の出生人数もかわりないので、七〇〇もの偽物私もこの国に存在している。だからどこかで同じ疲れを感じているのかも知れないのだ。
二人の相性は、これも大体同じ見解で、私が彼に振り回され、相当な我慢と母親にも優る深く広い愛が必要不可欠とある。恋人としての相性は最悪なのだ。
ところが、結婚の相性となると最高なのである。富を産み、仲睦まじく、誰からも羨まれる。問題といえば、その幸せ過ぎるが故に妬まれることだけ。彼の暴言に耐え、いつまで続くかわからないボランティア活動をやり過ごせれば、最高の幸せが待っているというのか。
そもそも私は彼との結婚を夢見ていたのか。
彼はバツイチで子供もいる。
よく結婚できたな、と思ったときに尋ねてみると、出会って三ヶ月で結婚したらしい。なるほど、結婚は勢いとはよくいったものだ。
何故別れたかも訊いてみたことがある。付き合い始めてすぐのときには、
「別れましょ、っていわれちゃった」といっていたが、最近では、
「俺が別れたかった」に変わっていた。しかし、未だに元嫁の尻に敷かれているし、私生活にも口出しされていて、私という恋人の存在も秘密なようだ。
人には過去がある。生きてきたのだから、それなりに厄介なことも抱えているだろう。子供たちのためにということは理解できるし賛同もできる。
しかし、元嫁にプライベートにまで口出しされているというのはどういうことだろう。私は何も悪いことはしていないのに、まるで不倫の恋人のような扱いだ。
結局、彼は気付いているのだろう。最終的に受け入れてくれるのは元嫁だけだということに。金のつながりでしか、自分ほどのわがままは許されないということに。子供がいれば、元の鞘におさまることもできる。元嫁に独占欲があれば尚更だ。その独占欲が、彼自身でなく、彼の金が自分や子供たちを差し置いて他の女に流れるのが許せないというところに向いているとしても、現実をみないですむ。すべては子供たちのためなのだから。
そんな彼との結婚を夢見たかと自問する。
考えてみたことがなくはない。
まず最初に周囲の激しい反対に合う。押し切って一緒になったとする。外面はいいが、内情は火の車の倹約生活がやってくる。さらにこきつかわれるのは必須だろう。
子供ができたとする。どうしても子供を優先しなくてはいけないときがくる。彼の嫉妬心は燃え上がるだろう。しかし、それをぶつけることはできない。だから金を使ってちやほやしてくれる相手を探しに出かける。火の車は崩れ落ちそうになるだろう。
だいたいこのあたりで、考えるのに疲れる。そもそも、彼には結婚願望はないだろう。私はひたすらに彼のわがままを受け入れる存在でなくてはならない。ひたすらに甘いだけの日々でなければならない。家庭が恋しければ、子供たちに会いにいけばいいのだから。
だがあまり人のことはいえない。私の結婚願望についてもあまりかわりないかも知れない。
人並みに結婚への憧れはある。一生に一度だけしてみたいし、もちろん添い遂げたい。家事も嫌いではないし、内助の功なんていわれたら苦労も苦労と思わないだろう。
だが、結局は憧れなのである。過去に結構な年数付き合った相手もいたが、結婚がちらほら見え始めて別れてしまった。一生添い遂げるには何が違う気がした。いい感じに恋が始まりそうになっても、
「結婚を前提に」などといわれると、途端に及び腰になる。まだキスもしていないのに、と真剣でありがたいはずの申し出に脅威を感じてしまう。そして年齢のせいか、醸し出す雰囲気のせいか、そういうお申し出が結構多いのだ。
その度に私は、
「私なんて、そんな価値のある人間じゃありません……」とかなんとか、急に語気を弱めてゴニョゴニョと逃げだしてしまうのだ。
彼が法事で絶対にいない日に荷物をとりにいこうと決めていた矢先に連絡があった。相変わらず、飲んだ後の明け方だった。
俺は会いたいけど、と何度も食い下がってきた。
心が揺れた。
今会ったら無条件で許してしまいそうな気がした。はぐらかしても、彼は食い下がった。
結局、負けてしまった。
「わかった」といったときの彼のうれしそうな声が耳に残る。
私はひっきりなしに紫煙を吐き続けた。
彼の部屋に色っぽい気配はなかった。
「どれだけ放っておくんだよ」と恨み言をいった。
「帰るわの前に、遅くなってごめんね、だろ」と傷ついたのも私のせいにした。子供たちにやるDVDのダビングをさせようとした。お汁粉を作ってとおねだりをした。
私はお汁粉を作ることだけに答えて、布団に入った。彼は体に触りながら、このところ行った子供たちの事件について話した。
「いいな。私も結婚でもして子供を持とうかな」
彼は烈火のごとく扱き下ろした。無理だ、お前なんて賞味期限切れだ、もう十年もとっくの昔に。私は彼の手を振り払い、壁際にうずくまった。彼はトイレに行き、戻ってきて離れた隣に寝転がった。しばらくすると、豪快な鼾が私のすすり泣きをかきけした。私は彼を跨いで、目につく荷物を手早くまとめ、外にでて玄関の鍵をかけた。郵便受けに鍵が落ちた無機質な音が響いた。
帰りのバスの中からメールを送った。
『傷つけるためによんだのね。とっくの昔に賞味期限切れかもね。さよなら。もう会わない』
本当はわかっていた。彼にしてみれば、結婚なんて口にした私が悪いのだ。私は自分の幸せも望まず、彼に尽くしている存在でなくてはならない。いや、彼の幸せだけを望み、自分の辛さはぐっと飲み込んで耐え続けなくてはならない。家庭が恋しくなって元嫁のところに戻るために私を捨てるのも、子供たちが育って私と晩年を過ごすのも、彼の気分次第で決めることでないといけない。
おもちゃと同じ。
他人にとられるのは癪にさわる。かといって油を注してメンテナンスするわけでもない。飽きないように楽しませられれば、お気に入りになり手放さない。だが、思ったように動かなければ、癇癪をおこす。
メールには、去年私が立て替えているお金の請求をするとも付け加えた。大した金額ではないし、本当に払って欲しいわけでもない。踏み絵にしたのだ。ただでさえ謝れない上に、金に汚い彼にとってのハードルをこえてまで私を追いかけようとするのか。
口の中はヤニで重苦しくなっていた。
また新しい煙草に火をつけ、一口目の煙を眺めながら思い返した。
私は本当に見返りを求めていなかったのだろうか。
金を払ってちやほやされにいくよりも先に、生活をきちんとして欲しかった。たいして強くないのに際限なく飲むのが心配だった。子供たちに払う金だけを目当てにされて、適当に扱われている子供たちが心配だった。
本当にそれだけだったのか。
きちんとしていれば、それでも回らなくなったときに電気代くらい払ってもいいと思っていた。友達と飲みに行こうとかまわない。私とは缶ビールで晩酌でも、十分に幸せを感じられる。
踏み絵はもう一枚用意してある。
不倫みたいにこそこそするのは嫌だ、子供たちを大切にするのはもちろん賛成だが、大きな顔をさせないよう元嫁ときっちり話をつけてもらいたい――踏むことはできないだろう。
しかし、もしも踏むことが――例えば、今は無理だが子供たちがもう少し大きくなったらなど部分的な約束でもされたら、それは私にとっても大きな決断となる。
周囲の猛反対による孤独も、火の車も、彼の気まぐれも、すべてを受け入れ彼のためだけに生きていくことになるのだ。その覚悟が私にはあるのだろうか。
私は最後の煙を吐き出し、煙草を消して考えるのをやめた。最初の踏み絵をこえるにしても、相当の時間がかかるだろうし、私の予想ではこえられるかも五分だろう。二枚目に到達するころには、すっかりやる気をなくしているかも知れない。
どのような道筋をたどっても、大切なのはただ一つ。自分の脚で立っておくこと。
「かわいい女にはなれないな」呟いて、明日の仕事のために電気を消した。
暗闇の中で落ちた涙に映った、ずいぶんと目蓋の腫れた私の顔は、お釈迦様に似ていた。
この二人は最終的にどうなるんでしょうねぇ…