四
集中を切らしたくない時ほど、余計な仕事がやってくる。特に金曜日の夕方は注意している。なぜなら、週末にかけて滑り込みの問い合わせがいくつもかかってくるからだ。
山積みになった書類の束に目を逸らして、パソコンに集中する。出来れば定時までに依頼事項をすべてこなして、会議資料に取り掛かっていたい。会議は月曜日の朝一なので、準備は今日中にやっておく必要がある。
業務報告まで打てば、今日の仕事は完了。無理だと思うが、早めに終われば映画を観に行きたかった。ずっと楽しみにしていた映画の公開が開始している。レイトショーで見られれば、最高の休日のスタートになるのだ。
まあ、無理だけどな。
パソコンには期限を記入した上で貼ってある付箋だらけ。卓上カレンダーには、スケジュールがびっしりと記載されている。毎日がこなすだけの仕事になっている。
「田野主任、お電話です」
事務職の女の子が大きな声を上げる。舌打ちを我慢して、内線ボタンを押した。
「はい」
「お世話になっております・・・」
すべてが雑音。追い込まれているわけではないが、疲弊している。希望が叶っての文具メーカーの営業職だったが、進んで地獄を選択していたつもりはない。
電話の要件をメモに落として、パソコン作業に戻った。この案件は次週までで問題はない。このまま何もなく、週末に突入したい。
仕事が残っていても、休日は忘れてリフレッシュするようにしている。無論、すべてを忘れるのは不可能だが、仕事から離れて無の時間を作らないと精神が追い込まれてしまう。少し前まで大きな案件を抱えていたのだが、休日まで資料を作成していたせいで疲れが取れず、パフォーマンスが落ちていたと実感した。
「お先失礼します」
「お疲れ様です」
どんなに忙しくても、同僚が帰宅する際は目を見て挨拶をする。自分の中でのルールだ。主任になると、やっかみも増える。チームを円滑に回すには、こういった小さな気遣いが重要になるのだ。
くだらない。
私がもっと仕事をスマートにこなせるなら、こんな無駄なことは考えていないのだろう。偶然に大きなチャンスが巡ってきて、周りの力を借りることが出来たので成功して昇進しただけ。実感の湧くような成功体験もなく、ただただ必死にここまで仕事をしてきた。周りには優秀な同僚も沢山いて、私にこのポストが当然に与えられるものではない。
ほとんどの社員が帰宅したあたりで、休憩に立ち上がった。パソコンに張り付いていたので、大きく伸びをした。
給湯室でポットのボタンを押した。カフェインを体に入れておきたい気分だ。今日のレイトショーは諦めよう。どうせ、見ても意識が持たない。暗い場所にいたら睡魔に勝てる自信がない。
「理名さん」
嫌な声がする。聞こえないふりをして、そのまま目を閉じた。コーヒーさえ準備できればここにいる必要はない。無視してさっさと自分のデスクに戻ろう。
「聞こえないのかな、理名さん」
耳元に声がして、目を開けてしまった。相当近くにあいつがいる。
「なによ、やめてください」
整った顔立ちに高い身長。足も長いので、スーツがよく似合う。社内でも女子社員から噂が絶えない人気のある男が目の前にいる。
「いいでしょう。誰もいないのだから」
「そういう問題ではありません」
動揺を見せたくないので、ポットに目を向けて平静を装う。心臓の鼓動が速くなるのが、気持ちを複雑にさせる。
存在から疎ましいはずなのに。
幼馴染で学校も一緒。学力は圧倒的に彼の方が上なのに、ずっと私の側にいた。
「今日も残業」
「そうです。私は器用ではないので。仕事が終わっているのであれば、もうお帰りになられてはいかがでしょうか」
冷たく突き放す。出来れば、嫌いになってほしい。どうあがいても、私は彼と一緒にいられるような存在になるのは不可能だ。それなのに、彼は私から離れない。それが嫌で仕方ない。
「そんな、相変わらず冷たいなあ」
すっと近づくと、私の顔を覗き込んだ。綺麗な瞳が私の顔を映した。
「やめてください。いつもそうやって私をからかう」
「からかうって、なんのこと」
首を傾げて見せる彼に腹が立つ。心臓だけは嘘を吐けずに、どんどん鼓動を早めていく。
「一人じゃ何もできない私にお節介して、陰で笑っているのでしょう。ごめんね、私は器用じゃないの。でも、必死なの」
私が困ったとき、不安な時には側で励ましてくれたのは感謝している。でも、そのせいで私は自分自身で何かを成し遂げた経験を失った気がして、心が締め付けられる。
本当ならもっとすごい私になって、あなたと同じ目線で生きていたかった。
ずっと閉まっていた本音が姿を出したせいで、普段は使わない言葉で突き放した。感情を解放したせいで涙腺が緩み、下を向いてはぐらかす。
「何を言っているの。疲れているの」
普段とは違って、狼狽しているような困惑しているような表情。
「ごめんなさい。忘れてください。もう仕事に戻らないと」
ポットの電源を止めて、コーヒーを諦めて給湯室から出ようとした。ぎゅっと、左腕を彼に掴まれた。
「何か嫌な気持ちにしていたのであれば謝りたい。それと、一度きちんと話す機会をくれないか」
こちらも普段と違い、まっすぐな瞳が私を捉えている。
「ここでしっかり話をしたい。明後日の夕方待っている」
内ポケットに入れていたチケットを出した。県外になるが、フラワーパークのチケットだ。桜並木に設置されたイルミネーションが有名なスポットで、カップルで行く人気スポットになっている。
「受け取っても、行かないかもしれない」
目を合わせずに言った。嫌な言い方をしているのはわかっている。
「待っている。どうせ一緒にはいかないだろう」
「勘弁してほしい。話持たないよ」
チケットを受け取った。
「今は気持ちが全く乗っていない。捨てたらごめんなさい」
「何度でもいうけど、信じて待っている。無理しないでね、理名さん」
「名前で呼ばないでよ。そんな関係じゃないでしょう」
気持ちが落ち着いたので、手を振りほどいた。誰か入ってきたら、疑われて面倒が起こる。それだけは避けたかった。
結局コーヒーを飲めずに給湯室を出てしまったので、近くの自動販売機で缶コーヒーを買って戻った。ほとんどのデスクは電気が消えており、散らかったままのデスクは私含めて数人のものしかない。
現実に戻らないと。
彼の顔が頭に張り付いて戻らない。あんな表情されたら、気になって仕事が手に付かなくなる。
出会ったのはまだ小さい頃だったが、その頃から眩しくて目が離せない存在だった。追いついて、横にいたいと願う日々。でも、私は何をやっても不器用で目立たない存在だった。それなのに、いつも彼は私のピンチを救ってくれた。
「田野主任、お先でーす」
同じ部内の後輩である、若菜美咲だった。細身でベージュのロングスカートに水色のブラウスにカーディガンを羽織っている。手には薄手のコートとバッグを持っており、退社準備は既に終えていた。
「お疲れ様」
人当たりのいい美人で、部内でも人気がある。彼氏はいるものの、私と彼女の秘密になっている。今つけている髪留めも、彼氏からのプレゼントと嬉しそうに話していた。
「今日も残業ですか」
「うん。今日のうちに片づけておきたい仕事がまだあるから」
「あんまり無理しないでください。飲みにも連れてってほしいので」
甘えたように言う姿に癒される。彼女の存在は、このストレスが溜まる職場においてかなり貴重である。
「わかった。来週にはいこうね」
「楽しみにしています。では、失礼します」
そう言って、歩いている彼女の背中を呼び止めた。
「ごめん。一つ聞いていい」
「なんですか」
彼女は不思議そうに首を傾げた。
「以前話していた、フラワーパークなんだけど・・・」
「ああ、先週話していた所ですよね。どうしました」
少しだけ息を吸った。こんな質問するのは初めてで緊張する。
「明後日急に誘われたのだけど、どんな服装がいいかな」
「ええ、彼氏ですか。結構歩くから、ヒールよりはスニーカーの方がいいですよ」
自分事のように明るく話すので、こちらが照れてしまった。
「違う。ただの友達だよ。でも、植物園だから歩くのか。じゃあ、スニーカーで行こうかな。ありがとう」
自慢したかったわけではないが、何となく誰かに話したかった。美咲はニッと笑顔を作った。
「来週、詳細聞きますから。朗報を期待しております」
わざとらしい敬礼を見せて、彼女は帰っていった。
言わない方がよかったかな。来週の尋問を考えて、質問したことへの後悔が浮かんでくる。でも、情報は参考にしよう。
チケットを眺めて、すっと息を吸った。
私も真剣に自分の気持ちを伝えよう。今までははっきりとした話をせずに彼を遠ざけ続けた自分を変える。
この数日のことは何度も何度も思い出す。
なぜなら、私にとってあの世界での最後の週末になるのだから。




