一
全身から流れる汗の感覚、皮がむけてしまった手の痛み。体中の感覚を消し去るほど集中して刀を振り下ろす。
稽古前後に与えられた一人きりの時間。師範代として、練習中はお弟子さんの面倒を見なければならない分、この短い時間にすべてをかける。
誰もいない道場内は静まり返り、私の体重移動の度に床がしなる音だけが時折聞こえる程度。その音すら消し去り、ただ目の前の刀を振り下ろす。
気持ちを込めろ。
父の教えを忠実に守り、一刀に全身全霊をかける。修練は必ず実を結ぶと信じてここまできた。
最期の一振りを終えると、一気に感覚が戻る。手に熱が走り、布地に血が染みている。腕の力はすべて奪われており、刀を床にゆっくりと置くと糸が切れたように倒れてしまった。呼吸も荒く、しばらくは動けそうにない。
きついことは子供の頃から嫌いだった。しかし、生まれ持った使命に抗うことなく、淡々と自身の腕を磨き続けて今がある。
道場の引き戸がゆっくりと開く。まだ稽古の時間まで数時間を残しており、現れる人間はいないはず。
まさか。
起き上りたいはずなのに、体の自由が利かない。横たわったまま耳を澄ませる。足音はゆっくりと私の方へ近付いてきた。
「理名殿」
「勝手に入るなと何度も繰り返しているはずです」
不快な声に、目を閉じたまま言葉を発した。気配から、すぐ近くにいるはずだ。
「また動けなくなりましたか。強襲が来たらどうするつもりですか」
今がその時ではないか。力を入れようにも、身体に充分な酸素が足りていない。嫌な気配が近いので、目を開いた。
「余計な心配は不要です。それ以上近づくのであれば、あなたを斬ります」
ちょうど真上から視線を向ける男を睨んだ。乱雑に伸びた髪を後ろで縛り、切れ長の目をした綺麗な顔立ち。魅力的に見えるその姿が、更に私の中での嫌悪感を強めていく。
「強がりですね。私はあなたに何かするつもりはない」
倒れている私の横に腰を下ろした。黒いはかま姿で、刀も身に着けている。
「早くここを去りなさい。あなたと話すことはありません」
少しずつ、頭の中に酸素が回ってきている。男の存在だけで、不快感が増していく。
「いいではないですか。誰もいない道場なのですから、周りの目を気にする必要もない」
「・・・・」
言葉を無視して、大きく深呼吸をする。手足の感覚が戻ってきた。確かに、この男のいう通り、ここまで動けなくなるのは立場上よろしくない。
あと少し。
「理名殿は今日も美しい」
「視線を向けるな」
「いいではないですか。私は理名殿を好いています」
そう言って、頬に手を当ててきた。ほっそりとしている風貌に似合わない手は豆だらけで刀を振っているのがわかる。
「やめろ。それ以上触れるのは許さない」
戻っていた心拍数が上がっていく感触。落ち着かないと。もう一度呼吸を整える。
私の額に流れる汗を持っていた手拭いで拭いている。目を閉じた。もういける。ゆっくりと側に置いていた刀に手を伸ばした。
「この野郎」
右足をたたむと、一気に体勢を変えて膝を曲げたまま身を起こした。同時に刀を掴むと、鞘から抜いた真剣を彼に振り下ろした。
手ごたえはない。
「まったく」
若干離れた位置から溜息が漏れた。振り返ると、表情を変えずに彼も立ち上がっている。殺気は最小限まで消していたが、まるで分っていたかのように簡単に交わされた。脅しではない。私は本当に彼を斬るつもりで動いたのに。
「理名殿は素直ではない」
「これが素直な気持ちだ。本当なら、いつでも斬りたいと思っている」
こちらの意思に反して、いつでも彼は私の前に現れる。昔、いや、もっと前からずっと同じだ。この厄介な関係はいつまでも続いている。
「最後の警告。もう、私の前に姿を現さないで。私はあなたを嫌っています。それはこれからもずっと変わらないので」
もう一度、刀を握りしめる。
「また会いましょう」
まるでこちらの殺気を無視するように、彼は背中を見せると道場から出ていった。無警戒に見える背中に刀を振り下ろせば、今なら斬れるのではないか。いや、また交わされるだけだ。
全身に血が巡ると、怒りが湧き出してくる。斬れなかった悔しさや彼に対しての憎悪もあるが、それ以上に相手にされていない素振りが一番の屈辱だ。床を強く踏みつけた。
これでも、この道場の師範代。誰よりも努力をしてきたはず。それなのに、あれだけの力の差がある。
悔しい。目を閉じた。意識して気持ちを静めると、刀を鞘に戻した。
あの男は、常に私の近くにいる。
小さな頃から、どことなく現れて私のそばにいた。何をしているかもわからないが、身なりは綺麗で食うものには困っていない。常に私の危機に姿を現しては力を貸して消えていく。
くそ、くそ、くそ。
誰も力を貸してほしいなんて欠片も望んでいない。私は自分の努力で目の前の敵に向かっていきたいだけなのだ。沈めたはずの怒りが、身体の奥から突き上げていく。
どん。
強く地団太を踏んだ。荒い息を整えて、上の道着を下ろす。手拭いで全身の汗をぬぐった。今度こそ、ここには誰も入って来ない。水を浴びたら、この後は隊の集まりがある。
この世界では、私は二十歳になる。この世界というのは正しいかはわからないが、私には前世と呼ぶような記憶が残っている。以前の世界でいうのであれば、異世界転生とでもいうものなのか。前世では興味はなかったので、深くはわかっていないが例えればそんなものだろう。
言葉は少し変化しているが、この世界はいうなれば江戸時代から明治時代の間に近いものなのかもしれない。これも受験でしか勉強していない私の想像になってしまう。もう少し、前世では勉強をしていればよかった。
いや、知ったところで意味のないこと。
道場の鍵をかけると、水を浴びに向かう。まだ電気も整備されていないこの世界では、風呂は夕方に沸かす以外は使わない。井戸の水を汲み、風呂場で体を流すのだ。
桶に汲んだ水を持って、風呂場へ向かう。道着と袴を脱ぎ捨てると、巻いていたさらしをほどいた。
透き通った白い肌に、大きな胸。この胸を隠すためにさらしは強めに巻いている。選んだ道に『女』を感じさせる部分はいらない。手拭いに水をしみさせると、身体を拭いた。
年々、女性に近づく不快感。周りの隊士に比べて筋力の差を痛感する日々がもどかしい。力の差を埋めたくて、誰よりも修練に励んだ。
それでも埋められない、届かない。
辞めたいと思ったことは何度もある。記憶が鮮明な前世でも同じ感覚を何度も持った。心が折れる感覚を何度も味わい、逃げ出したい黒いモヤモヤとした霧が私の心の弱い部分に重なり、気持ちを更に落としていく。
だから、切り替えろって。今日は更に嫌なことがある日だ。いつまでも、後ろ向きに考えていては今日を乗り切れそうにない。
さらしをもう一度強めに巻く。
苦しい。痛い。
ここまで見えない苦労をして、私は何と戦っているのか。わからないが、とにかく強く生きていくしかない。
前の世界から、私はこんな気持ちで生きていた。




