「恋愛の勉強?」
千代田はベッドの上に座り込み、床にマンガを広げた。
一冊、二冊、三冊。
背表紙の色がばらばらで、ジャンルも年代も違う。
三角関係といえば、まずこれ。
王道中の王道。
——あ、こっちがくっつくんだ。
途中までは、確かに似ている気がした。
相談役で、聞き役で、背中を押す側。
でも、最後の数話で、立場がひっくり返る。
「……いや、これは参考にならない」
千代田はページを閉じる。
こんなに綺麗に選ばれるわけがない。
現実は、こんな都合よく感情を回収してくれない。
次。
これは少し大人っぽいやつ。
——なんで、そんな言い方できるの。
主人公は、相手の気持ちを全部わかっているみたいに、
正解の言葉を、迷いなく差し出す。
「……無理だよ」
あんなセリフ、喉に詰まる。
考えて、考えて、考え抜いた末に、
結局言えないのが現実だ。
さらに次。
雰囲気は、ちょっと良い。
「……あ、これは、わかるかも」
一緒にいる時間が増えて、
気づいたら特別になっていて、
誰にも言えない気持ちが育っていく。
——あ、いい感じ……。
ページをめくる。
「……え?」
突然の海外留学。
しかも決定済み。
期限は一ヶ月後。
「留学なんて、行けるわけないよ……」
現実は、そんな選択肢すら出てこない。
逃げ道として用意されるほど、
ドラマチックじゃない。
千代田は、額に手を当てた。
気づけば、床には十冊。
引っ張り出した覚えはない。
手が、勝手に動いていた。
「……偶然って」
ページを閉じながら、呟く。
——本当に偶然?
いや、違う。
突然、なんだ。
ある日、ふと気づく。
声が嬉しい。
名前を呼ばれると、胸が鳴る。
でも、
それは本当に“突然”だったのか。
「……育っていった、んだよね」
少しずつ。
毎回、少しずつ。
頼りにされるたび、
「ありがとう」って言われるたび、
その場所が、自分の居場所みたいに感じられて。
「……嬉しかった?」
自分に問いかける。
「うん……嬉しかった」
即答だった。
最初は、ほんの軽い気持ちだった。
勝ち誇ったみたいな感覚。
上から目線で、
「まあ、教えてあげてもいいけど?」
そんな態度だった。
——余裕、あるつもりだった。
でも今、
その時の自分を思い出すと、
胸の奥がむず痒くなる。
「……恥ずかしい」
自分が、
どれだけ無自覚だったか。
どれだけ期待を積み重ねていたか。
マンガは、結末をくれる。
誰かが選ばれて、
誰かが区切りをつける。
でも、現実は違う。
終わりも始まりも、
はっきりした線なんて引かれない。
千代田は、マンガを重ねて、
一番下に戻した。
——学習しようとしてたはずなのに。
結局、
答えじゃなくて、
自分の気持ちだけが、
くっきり浮かび上がった。
「……マンガ、ずるいよ」
笑ってしまいそうになって、
でも、笑えなかった。
突然に見えるものほど、
きっと、ずっと前から始まっている。
そう気づいてしまった夜は、
もう、
何も知らなかった頃には戻れなかった。
——あ。
ページの端に書いてあった、その言葉を見つけた瞬間、
千代田の指が止まった。
「……脇役……」
声に出すと、思ったより軽い。
でも、胸の奥には、重たいものが落ちた。
「……私だ」
否定できなかった。
言い訳も浮かばなかった。
引っ張り出したそのマンガは、短編集の中の一編だった。
ページ数も少ない。
主人公は別にいて、物語は最初から最後まで、
その人たちの感情を中心に進んでいく。
この子は、
最後まで選ばれない。
救済も、逆転もない。
ただ、横にいて、話を聞いて、
背中を押して、
それで終わる。
「……これは、辛いね」
思わず、独り言が漏れた。
「……でも、よく頑張ったね」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからない。
ページの中の脇役か。
それとも、今の自分か。
感情移入の度合いが、異常だった。
一コマ一コマが、胸に刺さる。
「……切ないねー」
わかる。
本当に、わかる。
「……なんでかな。不公平だよね」
努力した。
我慢した。
線を守った。
それなのに、報われない。
視線が、ラスト近くのコマに止まる。
——あれ?
その脇役の表情。
笑っている。
でも、目が、少しだけ違う。
「……納得してない、よね」
諦めた顔じゃない。
受け入れたふりをしているだけの顔。
最初に読んだ時の評価を、思い出す。
——絵は上手いけど、話は単調。
当時の自分は、そう切り捨てた。
盛り上がりが足りない。
展開が地味。
「……私、浅かったな」
作者は、この後、大きく売れた。
それを知っている今だからこそ、
見えるものがあった。
「……こんなに、表情で語ってたんだ」
言葉じゃないところで。
説明されない感情で。
千代田は、ページを閉じた。
そして、ふと思う。
「……私、あの日」
爆発した、あの日。
「……どんな顔、してたんだろ」
思い出そうとすると、
胸がきゅっと縮む。
声を荒げて、
感情をぶつけて、
好きな人に、
一番見せたくなかった姿を、全部さらけ出して。
「……恥ずかしい……」
手で顔を覆う。
「それで……好きな人に、あんなこと言って……」
言葉が、頭の中で再生される。
トーンも、間も、全部。
「……最悪……」
笑えない。
誤魔化せない。
「……自己嫌悪しかない……」
でも、
さっきのマンガの脇役の顔が、
なぜか、頭から離れなかった。
納得していないのに、
立ち上がっている顔。
——終わってない、って顔。
千代田は、マンガをそっと積み直した。
まだ、
自分の役割が終わったなんて、
どこにも書いていない。
そう思ってしまったことが、
少しだけ、
また怖くなった。
——でも。
感情を持ってしまった以上、
もう、
何もなかった顔では、
いられないのだ。
それを知ってしまった夜は、
自己嫌悪と一緒に、
ほんのわずかな「未完」の感情を、
胸の奥に残していた。




