俯瞰で見る?
朝の教室は、静かにざわついていた。
男が多いからか、机を引く音が大きい。
椅子の脚が床を擦る音も。
そして誰かの笑い声も。
そう、いつも通りの、二学期の朝。
「おはよー、中村。千代ちゃん」
有本の声が、教室の空気を切る。
少し高い。
ほんの少しだけ、作っている明るさ。
鞄を机に置く音が、いつもより強い。
「……おはよ」
千代田は顔を上げずに返す。
シャーペンを指で回す。
一度だけノックし、カチ、と鳴る。
「おはよう。有本、千代田」
中村が言う。
その一言で、
ほんの一瞬だけ、空気が止まった。
千代田のまつ毛が、わずかに揺れる。
「え、千代田?」
「千代ちゃんじゃないの?」
有本はすぐに中村を見る。
反応が早い。
「昨日まで普通に呼んでたじゃん」
言いながら、机に肘をつく。
中村は軽く笑う。
「バカ、なれなれしいだろ」
笑っている。
でも、語尾が少し硬い。
「えー? 今さら?」
「ほら、本人はどうなの?」
視線が自然に千代田へ向く。
「……いいよ、別に」
肩をすくめる。
軽い仕草。
でも、その前に、
ほんの一瞬、間があった。
「え、いいの?」
「やったじゃん」
有本は笑う。
けれどその笑いは、すぐに薄まる。
「でもさ」
声のトーンが半段落ちる。
「中村が“千代田”って呼ぶの、
なんか久しぶりじゃない?」
悪意はない。
ただの事実。
「……気のせいでしょ」
答えたのは、中村ではなく千代田。
視線はまだノートの上。
「呼び方なんて、その時の気分だし」
一瞬の静寂。
教室の後ろで笑い声が上がる。
遠い。
「……それとも、何か都合でも悪い?」
そこで初めて、中村を見る。
静かな目。
責めていない。
でも逸らさせない。
「いやー都合とかじゃないよ」
中村は少し早口になる。
「そうだ、有本、あのマンガ読んでたよな?
榊とか天聖院とかのやつ。全部読んだんだろ?」
話題転換。
少し急。
「あー、あれね」
有本はすぐに乗る。
「読んだ読んだ。最新巻まで一気に。
榊は相変わらず自由人でさ、
天聖院はもう“そう来るよね”って感じ」
肩をすくめる。
「中村、珍しくちゃんと覚えてるじゃん。
どうしたの、急に?」
中村は一瞬言葉に詰まる。
「……読んだんだ」
千代田が小さく言う。
「どこが一番、印象に残った?」
有本は少し考える。
「私はやっぱ天聖院かな。
決める時は決めるし、
迷ってる時間を引きずらないの、気持ちよくない?」
悪気ゼロの声。
「……そっか」
千代田は机の木目を見る。
「私は、新田のとこ」
有本がすぐ反応する。
「あー、はいはい。
お子様セットの回でしょ?
正直あれ、ちょっと地味じゃない?」
「地味だけど……」
シャーペンを止める。
「残るんだよね」
一拍。
「選ばれなかった側の話って、
後からじわっと来る」
その言葉だけ、少し重い。
中村は無意識に姿勢を直す。
「へぇ」
有本は首をかしげる。
「中村は? どこ派?」
自然に話題を振る。
「……中村は、どのキャラ見てた?」
千代田も聞く。
逃げ道を用意しない目。
中村は軽く笑う。
「僕は俯瞰で全部を見てるよ。
強いて言えば、天聖院って僕でしょう」
一瞬。
空気が止まる。
「え、その目……本気にした?
冗談だよ」
「……あはは」
有本は力無く笑うが、首を少し傾ける。
「冗談なのは分かるけどさ」
「“自分が天聖院”って発想が出てくる時点で、
中村って案外、俯瞰できてないよね」
そして机の上の消しゴムを指で軽く弾く。
「……うん」
千代田は否定しない。
目も逸らさない。
「俯瞰してる人って、
自分を物語の中に置かないと思う」
正論。
「しかも天聖院って、選ぶ側でしょ」
「そうそう」
有本が頷く。
「悩んでる風に見えて、
最終的にはちゃんと“選ぶ人”」
悪気なく、事実。
「中村がそれ言うの、ちょっとズルい」
「え、ズルい? 冗談なんでしょ?」
「冗談にしては、位置が正確すぎるから」
視線を外す。
「……俯瞰って言葉、便利だよね」
「なにそれ、急に哲学?」
「当事者にならなくていい場所を、
それっぽく正当化できるから」
そこで初めて、千代田が軽く笑う。
でも目は、冷静。
「で、中村」
名前を呼ぶ。
教室のざわめきが遠のく。
「“冗談”って言ったけどさ」
ゴクリ。
「もし冗談じゃなかったら、
天聖院の次の一手って、何すると思う?」
有本が楽しそうに笑う。
「お、面白い質問」
「中村、答えてみなよ」
中村の指が机を軽く叩く。
トントン、と二回。
無意識。
窓から入る光が、三人の机を均等に照らしている。
でも。
距離は、均等じゃない。
中村は、ほんの一瞬だけ考える。
冗談で逃げるか。
軽く返すか。
それとも。
視線が二つ、重なる。
逃げ場はない。
教室は、いつも通り騒がしい。
でもこの三人の間だけ、
時間が少しだけ、ゆっくり流れていた。




