怒っちゃったのかな。
教室に残っているのは、もう数人だけだった。
HRが終わったあとの放課後。
机の上には、開かれたマンガと、閉じられたカバン。
有本が、伸びをしながら言う。
「んー……
あたしも帰るかなー」
軽い声だった。
千代田の帰宅宣言の空気を、
ほとんど引きずっているようには見えない。
中村は、反射的に返す。
「そっか。
僕は、もうちょい読んでから帰ろうかなー」
自分でも驚くくらい、自然な口調だった。
「へー。
まだ読むんだ?」
「うん。
なんか、途中で止めるのも落ち着かなくてさ」
有本は、机の上のマンガをちらっと見る。
「でもさ、それ」
ページの端を指でつつく。
「全部借りたわけじゃないよね?」
「……あ」
言われて気づく。
「そういえば、そうだな」
中村は、表紙を閉じて、背表紙を見る。
「これ、何巻まであるんだろ」
ぱらぱらとページをめくるが、
答えはどこにも書いていない。
最終ページ辺りには連載中の文字で
このマンガは紹介されている。
第一刷の文字は堂々としている様に見える。
こだわりありそうだもんな。
好きなんだろうなーこれ。
ふと、我に帰る。
「で、これ……何巻まであればこの関係に
決着がつくんだろうか?」
独り言みたいに言うと、
有本がくすっと笑った。
「そこ気にするんだ。
中村らしい」
「いや、続き気になるだろ」
「まぁねー」
有本はカバンを肩にかける。
少し間が空いて、
ふと思い出したように、首をかしげた。
「あ、そうだ」
普段はぱっちりと大きな目で
人を見透かして来るくせに、
今は少し伏目がちになりながら。
「んー、中村に聞いてわかるのかな?」
「ん、なんだ?」
珍しく有本が目を見て来ない。
「ねえ……」
絞り出したような、軽い調子。
「千代ちゃん、怒っちゃったのかなー?
なんでかなー」
悪気はない。
本当に、思いついたから聞いただけ。
こういう素直さが、魅力的なんだよな。
中村は、一瞬だけ言葉に詰まる。
——怒った、というより。
傷ついた、というか。
いや、それを自分が説明できる立場なのかも、
わからない。
「いやー……考え方かな」
曖昧に笑って、間を作る。
「そりゃさ、人それぞれ、あるんじゃない?
思い入れのあるキャラクターとかさ、
やっぱりいるじゃん。」
「ふーん」
有本は、それ以上深掘りしない。
「まぁ、そっか。
みんな同じ読み方するわけじゃないもんね」
そう言って、あっさり話題を切り替える。
「他にも、面白いの一杯あるからね。
あの作者のマンガ、
追っかけても面白いよ」
その軽さに、
中村はなぜか、少しだけ息が詰まった。
「じゃ、また明日ね」
いつも通りの声。
いつも通りの笑顔。
でも、あんな表情初めて見た。
少し不安なのかな……。
有本も、意外とそういうのは気にしてるのかもな。
僕が気付けていないだけかもな。
「あ、うん。
また明日ー」
マンガから目を離さず、
手だけ振っている……ふり。
扉が閉まる音がして、
教室には、紙の匂いと静けさだけが残った。
不安な有本か。
放っておけないって、こんな感じなんだな。
中村は、もう一度マンガを開く。
でも、文字はあまり頭に入ってこなかった。
「あの表情で何を」
そして同列に並んでいたのが。
「……何巻あるか、調べればいいだけなのに」
という思考。
「調べたらわかるか」
スマホを取り出しかけて、やっぱりやめる。
「誤魔化せないもんだな」
苦笑いを浮かべながら、呟いた。
今知りたいのは、
巻数じゃない。
言えばよかったのに。
聞けばよかったのに。
そう思う気持ちと、
言わなくてよかった気がする気持ちが、
同じ重さで胸に残っていた。
***
「……今日は、ここまでか」
中村は、しおりも挟まずマンガを閉じる。
しおりを挟まなくても、
あの表情を思い浮かべれば
自然とこのページに辿り着く気がする。
続きは、
いつでも読める。
でも、
あの一言は、
今じゃないと、言えなかったかもしれない。
ふと、頭に浮かぶ。
——こう聞けたら、よかったのかな。
「有本はさぁ……
どっち側?」
選ぶ側か。
選ばれる側か。
それとも——
問いは、声にならないまま、
ページの間に挟まれていった。




