近づく距離、試される距離
俯いたままの千代田の前で、
中村は一歩、距離を詰めていた。
それは大きな動きではない。
ただ、今までなら踏み込まなかった距離。
空気が、少しだけ張る。
「おーおー、中村、攻めるねぇ」
後ろから、友人の一人が茶々を入れた。
「片膝ついてお願いしないと、振り向いてもらえないぞ?」
「なーに言ってるんだよ!」
中村は慌てて振り返る。
「そんな簡単にやるわけないだろ」
笑いが起きる。
いつものノリ。
いつもの教室。
——の、はずだった。
「……片膝ついて、お願いするなら」
小さな声が、割り込んだ。
「……貸してあげる」
中村は一瞬、耳を疑った。
「……千代田、何言ってるんだよ」
「膝ついて。お願いしてみて」
「おいおい、本気なのかよ」
「……本気」
短く、言い切る。
ふざけているようで、
ふざけていない。
その境界線に、二人は立っていた。
「……そうか」
中村は、ゆっくり息を吐く。
「わかった」
そして、わざとらしく後ろを振り向いた。
「見てろよ。俺の名ホストぶり」
「は?」
友人たちがざわつく。
中村は、冗談めかした笑みを浮かべながら、
片膝を落とし、手を差し出そうと——
その瞬間。
すっと、マンガが差し出された。
「……え?」
顔を上げると、
千代田は、まだ俯いたままだった。
「ダメ」
静かな声。
「……あの子の前で、そんなことしちゃ……ダメだよ」
「あ……ああ」
中村は、条件反射みたいに答えていた。
「千代ちゃん、甘やかしちゃダメだよー」
有本の、元気な声が飛ぶ。
場が、また少し明るくなる。
「……甘やかしてほしいのは」
千代田が、ぽつりと続けた。
「……こっち、だから」
その一言に、
中村の胸が、きゅっと詰まった。
夜の通話で聞いた、
あの落ち着いた声。
あのクールな千代田が、
どんな顔で、今の言葉を口にしたのか。
俯いたままの横顔を、
中村は、じっと見つめてしまう。
——なんだ、この空気。
周囲がざわつき始める。
「いいじゃんかー」
「青春してるねぇ」
その声で、我に返った。
「……茶化さないでくれよ」
中村はそう言って、
マンガを片手に自分の席へ戻ろうとする。
「……中村」
背中に、声が飛んだ。
「ちゃんと読んで。
感想、聞かせて」
「……わかった」
振り返らずに答える。
「感想は……LINEで」
「オッケー」
短い返事。
でも、それで十分だった。
——これで、また理由ができた。
次に話すための理由。
次に声を聞くための理由。
中村は、マンガの表紙を見下ろしながら思う。
これは、ただの貸し借りじゃない。
ただの冗談でもない。
距離が、また一つ、変わった。
その変化が、
誰にとっての前進で、
誰にとっての踏み込みすぎなのか。
まだ、誰にもわからない。
ただ一つ確かなのは——
次の通話では、
もう「マンガの話」だけじゃ、済まない。
そういう予感だけが、
静かに胸の奥で鳴っていた。




