感情移入先のズレ?
あの休み時間に流れた、ほんのわずかな緊張感。
それをはっきりと感じ取っていたのは、どうやら中村と千代田だけだったらしい。
有本は、休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴ると同時に、
「またあとでね」
と、軽く一言だけ残して、自分の席に戻っていった。
それから先、教室の空気は何事もなかったように流れていく。
誰かが特別に気まずくなることもなく、
誰かが何かを問い詰めることもない。
——日常は、そう簡単には止まらない。
昼休みも中盤に差しかかった頃。
有本は、音ゲーのコンプリート画面を誇らしげに掲げながら、
いかにこの一曲が難しかったか、
どこでミスりやすいかを身振り手振りで語っていた。
「いや、それフルコンは普通にすごいから」
「指どうなってんだよ」
中村を含めた数人が、笑いながら相槌を打つ。
場は、いつも通り盛り上がっている。
一方、教室の反対側。
千代田は別の女子たちと、マンガの話をしていた。
構図の取り方。
線の強弱。
キャラクターの骨格の正確さ。
話の組み立て方の巧さ。
「このページさ、デッサン崩れてないのに動きあるのがすごくない?」
「わかる。ここ、背景ほぼ描いてないのに目が流れるんだよね」
落ち着いた会話。
楽しそうではあるけれど、
有本の輪とは少しだけ温度が違う。
にぎやかな教室の窓側で、有本がふと思い出したように声を上げた。
「あのマンガ読んでない人、人生ちょっと損してると思うんだけど」
冗談めかした口調に、中村がすぐ乗っかる。
「どのマンガだよ。
そんな言うなら、今ここで見せてみろよ」
有本は笑いながら肩をすくめた。
「千代ちゃんが持ってるから、借りてきなよ」
「……え?」
中村は一瞬、言葉に詰まる。
「千代ちゃんって……千代田のこと?」
自分でも分かるくらい、顔に出てしまった。
「ん?どうしたの?」
有本は気にも留めず、教室の隅を指さす。
「いるじゃん。ほら、あそこ」
「あ、ああ……千代ちゃん、ね」
「へぇ。千代ちゃんって呼ぶほど仲いいんだ?」
からかうような声に、
「お前が言ってたのが、ちょっと移っただけだよ」
中村はそう返した。
「いいから行ってきなよ。面白いんだから」
「……あとでな」
「今、今」
軽く背中を押されて、
これ以上拒めば空気が変わると悟った中村は、
意を決したように立ち上がった。
その緊張は、周囲にも伝わっていた。
「中村、どうしたんだ?」
「さぁ……何も聞いてないけど」
顔を見合わせる友人たちの横で、
有本は中村の後ろ姿を、どこか涼しい目で見ていた。
「千代ちゃん、後ろ、う・し・ろ!」
千代田の女友達が、軽く肩を叩いて知らせる。
「ん?どうしたの……?」
千代田が腰をひねって振り返る。
少し緊張した中村の顔が目に入った瞬間、
彼女は、思わずぷいっと正面に向き直った。
その反応に、女友達が思わず目を丸くする。
「……え?」
「中村くん、どうしたの?」
女友達が代わりに声をかけた。
「あの、さ」
その声を聞いた瞬間、
千代田は自分の鼓動が、急に速くなるのを感じていた。
「えっと……」
中村は、喉を鳴らす。
「千代ちゃんが、面白いマンガ持ってるって、
有本から聞いてさ……」
言い終わる前に、
女友達がちらりと千代田の顔をのぞき込む。
「どうする?」
その一言が、
千代田の耳の中で、奇妙に反響した。
——どうする?
マンガを貸すか、断るか。
本来は、それだけの意味のはずなのに。
でも、今の千代田には、
まったく違う問いに聞こえてしまった。
——どうするの?
この距離を。
この気持ちを。
この立ち位置を。
自分で、決めていいのか。
決めてしまって、いいのか。
胸の奥で、何かがざわりと渦を巻く。
選ばれない側に感情移入していたはずなのに、
いつの間にか、
「選ばれない」と決めつけていたのは、
自分自身だったのかもしれない。
——どうする?
——どうしたい?
本当は、聞きたかった。
誰かに向かって。
中村に。
有本に。
それとも、自分自身に。
でも、
今この場で問われているのは、
あくまで「マンガの話」で。
その軽さが、
逆に残酷だった。
千代田は、何も答えられないまま、
そのまま俯いた。
決めない、という選択。
逃げる、とも言い切れない中途半端な場所。
教室のざわめきは、相変わらず続いている。
誰も、立ち止まらない。
——ねえ。
どうするのかを、
自分で決めていいなら。
私は、
どこに立てばいいんだろう。
答えの出ない問いだけを抱えたまま、
千代田は、その場に立ち尽くしていた。
次に動くのは、誰なのか。
それとも——
動かないと決めるのは、私なのか。




