東京の裏側で生きる方法
### 東京の裏側で生きる方法
結論から言うと。
東京の裏側には、マニュアルなんて存在しなかった。
「はい、今日の課題」
渋谷は自販機の前で言った。
「この一時間、無事に生き延びること」
「課題の難易度おかしくない?」
「基礎編だから優しいでしょ」
「どこがだよ」
俺たちは、使われなくなった地下通路を出て、夜の東京に戻ってきていた。
見た目はいつも通り。ネオンも、人通りも、騒音もある。
――ただし。
「ここからが本番」
渋谷が一歩踏み出す。
その瞬間、空気が変わった。
人の声が、少しだけ遠くなる。
視界の端が、滲む。
「……今、切り替わった?」
「うん。裏側」
「境目、分からなすぎだろ」
「分からない方が、普通」
渋谷は歩きながら言う。
「慣れたら分かるけどね。
慣れた頃には、だいたい何か失ってる」
全然安心できない。
「で、何をすればいいんだ」
「観察」
「観察?」
「敵じゃない」
彼女は言った。
「街」
「……東京を?」
「そう」
渋谷は立ち止まり、周囲を見渡す。
「刀はね。
街の一部」
「概念がどうとか言ってたな」
「新宿は混沌。
私は――変化」
「変化?」
「立場とか、役割とか、空気とか」
彼女は軽く肩をすくめる。
「渋谷っぽいでしょ」
「自分で言う?」
「言う」
即答だった。
「で、あんたの刀」
渋谷は、ちらっと俺を見る。
「何だと思う?」
「知らないから困ってる」
「そう」
彼女は少しだけ、口角を上げた。
「だから、観察」
歩く。
すれ違う人たちは、俺たちを見ていない。
「……なあ」
「なに」
「この世界、ずっと続くのか?」
「続かない」
渋谷は言った。
「長くて数時間。
短ければ数分」
「じゃあ、敵は?」
「来るときは、来る」
最悪だ。
「生活できなくないか?」
「できるよ」
「どうやって」
「慣れる」
身も蓋もない。
コンビニの前を通る。
明かりが、やけに白い。
「裏側にいる間、普通の人には干渉できない」
渋谷が言う。
「触れないし、声も届かない」
「幽霊かよ」
「似たようなもの」
「……戻れなくなったら?」
「死ぬよりマシ」
さらっと言うな。
「じゃあ、訓練って何するんだ」
「これ」
渋谷は立ち止まり、振り返った。
「抜いて」
「ここで?」
「ここで」
仕方なく、刀を抜く。
相変わらず、重い。
「構えは?」
「自由」
「雑だな……」
「型なんて意味ない」
渋谷は、俺の正面に立つ。
「当てて」
「は?」
「私に」
「いやいやいや」
「本気で」
彼女は刀を抜かなかった。
「来なかったら、私が行く」
「それ、脅しだよな」
「教育」
渋谷は、一歩踏み出す。
反射的に、俺は刀を振った。
――当たらない。
いや、当たってるはずなのに、距離が合わない。
「遅い」
次の瞬間、額を小突かれた。
「いった!」
「今ので、死んでる」
「マジで?」
「マジで」
渋谷は淡々としている。
「考えすぎ。
あんたの刀は、斬るより“否定”する方が向いてる」
「否定?」
「概念を」
またそれだ。
「感覚でいい。
“それは違う”って思いながら振って」
「曖昧すぎる!」
「感覚だから」
渋谷は、今度は刀を抜いた。
「来るよ」
「ちょ、待――」
彼女が踏み込む。
速い。
反射で、刀を振る。
「――それ」
刃が触れた瞬間。
渋谷の動きが、一瞬だけ止まった。
「……」
「今の」
「うん」
彼女は後退する。
「少し、断った」
「マジで?」
「マジ」
渋谷は、初めてはっきりと笑った。
「才能はある」
「褒められてる?」
「事実」
そのとき。
――ざわり。
空気が、揺れた。
「……来た」
渋谷の表情が引き締まる。
路地の奥。
誰かが、こちらを見ている。
「敵?」
「分からない」
「分からないのが一番嫌なんだけど」
「慣れる」
またそれだ。
影が、近づく。
若い男。
スーツ姿。
手に、刀。
「こんばんは」
男は、丁寧に頭を下げた。
「欠番の方、ですよね」
「……もう広まってるんだな」
渋谷が低く言う。
「ええ」
男は微笑む。
「うちは、話し合い派なので」
「信用できない」
「ですよね」
あっさり認めた。
「でも、敵意はありません」
「今は、でしょ」
男は肩をすくめる。
「今日は、顔見せです」
「顔見せ?」
「ええ」
彼の視線が、俺に向く。
「欠番は、均衡を壊す」
どこかで聞いた言葉。
「だから――」
男は、静かに言った。
「必ず、中心になります」
「中心?」
「東京の」
そう言って、彼は後退した。
「また、会いましょう」
次の瞬間、姿が消える。
沈黙。
「……知り合い?」
俺が聞くと、渋谷は首を振った。
「厄介なタイプ」
「どういう」
「秩序派」
嫌な予感しかしない。
「春日」
渋谷は言った。
「これが、日常」
「最悪な日常だな」
「でも」
彼女は、夜の東京を見る。
「生き延びれば、見えるものもある」
俺は、刀を見下ろした。
まだ、分からないことだらけだ。
でも。
――戦う理由なら。
少しだけ、見えてきた気がした。
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