35歳の私が10歳に戻ったら
小川真里、35歳。独身、実家暮らし。派遣社員として働く日々は、かつて夢見たアラフォーの輝きとは程遠い。朝は母の小言で目を覚まし、夜はテレビの音に紛れて自分の人生を振り返る。「こんなはずじゃなかった」と、ため息が漏れるのが常だった。
その日、いつもの夕暮れ時、真里は愛犬モモを連れて散歩に出た。オレンジに染まる空の下、近所の住宅街を歩く。いつもと同じ道、いつもと同じ電柱、いつもと同じ角の駄菓子屋。なのに、なぜか今日は空気が違う。少しひんやりして、どこか懐かしい匂いが漂う。モモがクンと鼻を鳴らし、いつもは興味を示さない路地の方へリードを引く。
「モモ、そっちじゃないよ」
真里は小さく笑いながらモモを追い、路地に足を踏み入れた。細い路地は両側に古びた木造の家が並び、まるで時間が止まったような静けさに包まれている。電線に止まるスズメのさえずり、遠くで響く自転車のベル。どこかで嗅いだことのある、子供の頃の記憶を呼び起こす匂い。真里の胸に、言い知れぬざわめきが広がった。
路地の先に差し掛かった瞬間、ふと視界が揺れた。まるで水面に投じた石の波紋のように、空気が歪み、モモのリードが手に軽くなる。真里は目を瞬かせ、辺りを見回した。モモがいない。いや、モモではない。リードの先には、25年前に亡くなった実家の老犬、タロウがのんびりと座っていた。
「タロウ…?」
真里の声は、なぜか高く、子供のようだった。慌てて自分の手を見下ろす。細くて小さな、10歳の少女の手。服は懐かしいチェックのスカート、足元には擦り切れたスニーカー。真里は息を呑み、近くの家のガラス窓に駆け寄った。映るのは、ツインテールに結んだ髪、赤いランドセルを背負った10歳の自分――小川真里だった。
「うそ…タイムスリップ!?」
心臓がバクバクと鳴り、頭が混乱で一杯になる。25年前、1990年代の世界。ブラウン管テレビ、VHSテープ、ポケベル。真里が10歳だったあの頃。信じられない思いで辺りを見回すと、街並みは確かにあの頃のままだった。色褪せた看板、角の駄菓子屋の軒先に並ぶガチャガチャ。遠くから聞こえるのは、懐かしいJ-POPのイントロ。
真里はタロウのリードを握りしめ、呆然と立ち尽くした。
(どういうこと? 夢? でも、この感触、この匂い…本物だよね?)
タロウがのんびりと歩き出し、真里は導かれるように家へと向かった。胸の奥で、期待と不安がせめぎ合う。もし本当に25年前に戻ったのなら、あの人たちに会える。母の洋子、若くて元気なあの頃の母。そして――真里の目が熱くなる――父の健一に。健一は真里が25歳の時に病気で他界した。35歳の真里にとって、父はもう遠い記憶の中の笑顔でしかない。
(お父さんに…会えるんだ…)
真里は涙をこらえ、10歳の小さな足で、25年ぶりの「帰り道」を急いだ。
その時、背後から聞き覚えのある声がした。
「真里! 何やってんの! 早く帰って宿題しなさい!」
振り返ると、そこには若い頃の母、洋子が立っていた。35歳の真里にとって、母はもう60代後半の白髪交じりの姿しか記憶にない。でも今、目の前にいるのは、30代前半のピンと背筋の伸びた、元気いっぱいの母だ。真里の目が熱くなる。
「か、かあさん…」
「なに?その呼び方! 変な子!」
洋子は笑いながら真里の手を引っ張り、家へと連れていく。家に近づくにつれ、真里の心臓がドキドキと高鳴った。
家に着くと、玄関のドアが開き、聞き慣れた低い声が響いた。
「お、遅かったな、真里! タロウの散歩、長かったんじゃないか?」
そこには、ピンピンとした健康そのものの父、健一が立っていた。40代前半の、がっしりした体格に、日に焼けた笑顔。白髪一つない黒い髪と、作業着の袖をまくった腕。真里の目から涙が溢れそうになる。
「お、お父さん…!」
真里は思わず駆け寄り、健一の腰にしがみついた。健一は驚いたように笑いながら、真里の頭をポンポンと叩く。
「おいおい、なんだよ急に! そんな甘えん坊だったっけ、お前?」
真里は顔を上げ、健一の顔をじっと見つめた。25年後の世界では、もう二度と見られないと思っていた父の顔。涙が頬を伝い、思わず口から言葉がこぼれる。
「お父さんだ…! お父さんがいる…! お父さんが生きてる…!」
健一は目を丸くし、洋子もキッチンから顔を出して怪訝そうな表情を浮かべる。
「は? 何だそれ? いるに決まってるだろ、俺がどこ行くってんだ?」
健一は笑いながら真里の頬を軽くつねるが、真里はただただ父の温もりにしがみついていた。
洋子が心配そうに近づいてくる。
「真里、どうしたの? なんか変よ。熱でもあるんじゃない?」
真里は慌てて涙を拭き、誤魔化すように笑った。
「う、ううん! なんでもない! ただ…お父さんがカッコいいなって思っただけ!」
健一は照れ臭そうに頭をかき、洋子は呆れたように笑う。
「まったく、変な子ねえ。ほら、早く手を洗ってご飯にしなさい!」
リビングに移動すると、懐かしい匂いが真里を包んだ。母の手作りハンバーグの匂い、父のタバコのほのかな残り香、そして古い木造家屋の独特な温もり。ブラウン管テレビからは夕方のアニメが流れ、健一がソファにどっかり座って新聞を広げている。真里はそんな何気ない光景に、胸が締め付けられるような幸せを感じた。
(お父さん…25年後にはもういないなんて、信じられない。この時間を、絶対に無駄にしない。)
その夜、真里は布団の中で目を閉じながら考える。25年後の自分は、派遣社員で実家暮らし、恋愛もキャリアも中途半端で「こんなはずじゃなかった」と嘆いていた。でも今、10歳の自分には無限の可能性がある。そして何より、父との時間がまだたっぷりある。
(お父さんともっと話したい。もっと一緒にいたい。25年後の後悔を、今、変えるんだ。)
真里はランドセルを背負い、鏡の前で自分に言い聞かせた。
「よし、小川真里、35歳の知識と10歳の体で、人生リスタートだ! お父さんとの時間も大事だけど、まずは…あの時の後悔を全部変える!」
学校への道すがら、懐かしい風景が真里の心をざわつかせる。角の駄菓子屋、擦り切れた白線のアスファルト、遠くで響くチャイムの音。25年前のこの街は、35歳の真里が忘れかけていた色彩に満ちていた。だが、頭の中では昨夜の決意がぐるぐると渦巻く。特に、父・健一との再会が胸に焼き付いて離れない。ピンピンとした父の笑顔、冗談を言いながら頭を撫でてくれた温かい手。あの時間を無駄にしたくない。でも、もう一つ、真里の心を強く揺さぶるものがあった――親友だった美咲との思い出だ。
美咲は、真里が10歳の頃の親友だった。いつも一緒に笑い、放課後に駄菓子屋で10円のグミを分け合った。なのに、成長するにつれて疎遠になり、35歳の今、彼女の近況すら知らない。「あの時、もっと話しておけば」と後悔するたび、真里の胸は締め付けられた。
(美咲…今なら、やり直せるよね?)
学校に着くと、教室は子供たちの喧騒で溢れていた。黒板にはチョークで書かれた時間割、窓際には手作りの習字が貼られている。真里は深呼吸し、10歳の自分に馴染もうと一歩踏み出した。だが、すぐに視線は教室の隅に吸い寄せられた。
そこには美咲がいた。地味なグレーのカーディガン、うつむきがちに本を読んでいる小さな少女。髪は少し長めのボブで、前髪が目を隠している。クラスの輪から少し離れ、静かにページをめくる姿は、25年前の記憶そのものだった。真里の心臓がドキッと高鳴る。
(美咲…! やっぱりここにいる。変わってない、ぜんぜん変わってない!)
真里はランドセルを机に置くと、迷わず美咲の席に向かった。35歳の自分なら、こんな時どうやって話しかける? 頭の中で大人の自分が囁く。「自然に、でも優しく。彼女、シャイだったよね」。真里は小さく咳払いし、10歳の声で呼びかけた。
「ね、ねえ、美咲。なに読んでるの?」
美咲がびくっと肩を震わせ、ゆっくり顔を上げた。少し驚いたような、警戒するような目。真里はその表情に胸がチクッと痛んだ。25年後の自分は知っている――美咲は内気で、クラスで目立つタイプじゃなかった。友達は真里くらいで、いつも少し遠慮がちに笑っていた。
「え…ただの、図書室で借りた本…」
美咲は小さな声で答え、本を胸に抱えるようにした。表紙には『星の王子さま』と書かれている。真里の目がキラッと光る。
「それ、めっちゃいいよね! 私も大好き! あの、キツネが言う言葉、覚えてる? 『心で見なくちゃ、ものごとはよく見えない』ってやつ!」
美咲の目が少しだけ大きく見開かれた。まるで、誰も自分の好きな本に興味を示してくれなかったのに、突然共感された驚き。彼女は少し頬を赤らめ、恥ずかしそうに頷いた。
「う、うん…そのとこ、好き…」
真里は勢いづいて隣の席に座った。35歳の知識が頭をよぎる――美咲は感受性が強い子だった。この本をきっかけに、彼女の心に少しでも近づけるかもしれない。
「ねえ、美咲ってさ、星とか宇宙とか好き? 私、夜に星見るの好きなんだ。いつか、ほんとの王子さまみたいな人に会えたらいいなって思うんだけど!」
真里はわざと少し大げさに笑ってみせた。10歳らしい無邪気さを装いつつ、美咲の反応を窺う。
美咲は一瞬戸惑ったように見えたが、くすっと小さく笑った。
「真里、変なこと言うね…でも、星、好き。家からだとあんまり見えないけど…」
その言葉に、真里の胸が締め付けられた。25年後の記憶が蘇る。美咲の家は、狭いアパートで、両親は共働きで忙しかった。美咲が「星が見えない」と言ったとき、真里は10歳の頃、ただ「ふーん」と流してしまった。でも今、35歳の視点でその言葉の裏にある寂しさを感じ取れた。
「そっか、じゃあさ! 今度、一緒に星見に行かない? うちの裏庭、意外と星きれいなんだよ! お父さんが双眼鏡持ってるから、月とかも見えるよ!」
真里は勢いよく提案し、美咲の手をそっと握った。美咲は驚いたように目を瞬かせたが、すぐに小さな笑顔を浮かべた。
「…うん、いいかも。行ってみたい。」
その瞬間、真里の心に温かいものが広がった。35歳の自分が後悔していた「美咲との距離」を、今、10歳の自分が少しずつ埋め始めている。授業のチャイムが鳴り、先生が教室に入ってくる中、真里は心の中で誓った。
(美咲、絶対に離さないよ。今度こそ、ずっと友達でいるから。)
放課後、真里は美咲を誘って駄菓子屋に立ち寄った。10円のグミを半分こにし、二人で笑いながら帰り道を歩く。美咲の笑顔はまだ少し控えめだったけど、25年前より少しだけ明るい気がした。真里はふと、父・健一のことを思い出す。
(お父さんに、美咲のこと話してみようかな。星を見る計画、絶対喜んで手伝ってくれるよね。)
夕焼けに染まる空の下、真里は美咲と並んで歩きながら、35歳の自分にそっと呟いた。
初日の約束から数日後、真里は星見イベントの準備に胸を躍らせていた。学校では美咲と少しずつ話す機会が増え、二人で『星の王子さま』の好きなフレーズを交換したり、放課後にグミを分け合ったりする時間が、真里にとって何よりの宝物になっていた。35歳の自分が見たら、こんな小さな瞬間がどれほど尊いか、きっと涙を流すだろう。
週末の土曜日、星見の計画を実行する日がやってきた。真里は朝からそわそわしていた。リビングでは、母・洋子がキッチンで夕飯の支度をし、父・健一がソファで新聞を広げている。ブラウン管テレビからは、懐かしいクイズ番組のテーマ曲が流れていた。真里は深呼吸し、健一に話しかける決意を固めた。
「お父さああん!」
真里は10歳らしい元気な声で、健一の隣に飛び乗った。健一は新聞を畳み、にやりと笑う。
「お、なんだよ、真里。急に甘えてくると、なんか企んでるな?」
真里は少し照れながら、言葉を紡いだ。
「ねえ、今日、夜に美咲がうちに来るの。裏庭で一緒に星見ようって約束したんだ! お父さんの双眼鏡、貸してくれて…あと、なんか、星のこと教えてくれると嬉しいな!」
健一の目がキラッと光った。真里は35歳の記憶を掘り起こす――健一は若い頃、アマチュア天文愛好家で、休みの日にはよく星座の話を聞かせてくれた。あの頃は「ふーん」と流していたけど、今ならその時間がどれだけ貴重か分かる。
「ほう、星見か! いいねえ、真里、いい友達持ったな!」
健一は立ち上がり、押し入れから古い双眼鏡のケースを取り出した。少し埃をかぶったケースを開けると、真里の子供の頃の記憶が蘇る。健一が双眼鏡を手に持つ姿、夜の裏庭で「ほら、あれがオリオン座だ」と指差す姿。真里の胸が熱くなった。
「美咲ちゃん、どんな子だ? お前と仲良いんだろ?」
健一の問いかけに、真里は少し考えた。35歳の視点で美咲を思い浮かべる――内気で、でも心が温かくて、星や物語が大好きな子。
「うん、すっごくいい子! ちょっとシャイだけど、話すと楽しいんだ。絶対お父さんも好きになるよ!」
健一は「そりゃ楽しみだ!」と笑い、洋子がキッチンから顔を出した。
「真里、夜に外で遊ぶなら、おにぎりでも作ってあげようか? 美咲ちゃんも食べるでしょ?」
真里の目が輝く。母の手作りおにぎり――25年後の真里が恋しく思う、あの素朴な味。
「うん、お願い! 梅干しのおにぎり、作って!」
夕方、美咲がやってきた。少し緊張した様子で玄関に立つ美咲は、グレーのカーディガンに、いつもより少し丁寧に結んだ髪。真里は手を振って迎え入れる。
「美咲、来てくれて嬉しい! ほら、裏庭行こう!」
裏庭に出ると、夕暮れの空が深い藍色に変わり、星が一つ二つと瞬き始めていた。健一はすでに庭に古いキャンプ用の椅子を二つ並べ、双眼鏡を手に準備万端だ。美咲を見ると、健一は温かい笑顔で声をかけた。
「やあ、美咲ちゃん! 真里の友達だろ? 星、好きなんだって? いい趣味だな!」
美咲は少し縮こまりながら、小さく頷いた。
「は、はい…好きです…」
真里は美咲の手を引き、椅子に座らせた。健一が双眼鏡を渡しながら、星座の話を始める。
「ほら、あそこ見てみろ。オリオン座だ。三つ並んだ星が腰のベルトだろ? んで、右上の赤いのがベテルギウス。すっげえデカい星なんだぜ!」
美咲は双眼鏡を覗き、目を丸くした。
「ほんとだ…きれい…!」
その声には、いつもの控えめなトーンを超えた、純粋な驚きが込められていた。真里も双眼鏡を借り、星空を見上げる。35歳の自分は、こんな風に星をじっくり見ることなんてなかった。都会の明かりに埋もれて、星なんて気にも留めなかった。でも今、10歳の目で見る星空は、まるで無限の可能性を映しているようだった。
洋子がトレイにおにぎりと麦茶を持ってきて、庭に置いた。
「ほら、冷めないうちに食べなさい。美咲ちゃん、遠慮しないでね!」
美咲は少し恥ずかしそうに「ありがとうございます」と呟き、おにぎりを手に取った。梅干しの酸っぱい香りが漂い、真里は25年ぶりの母の味に胸が熱くなる。美咲も小さくかじり、目を細めた。
「…おいしい。」
健一が笑いながら続ける。
「星見ながらおにぎり食うなんて、最高だろ? 美咲ちゃん、またおいでよ。次は土星の環でも見せてやる!」
美咲の頬が、星明かりの下でほんのり赤く染まる。彼女は小さく、でもはっきりと頷いた。
「うん…また、来たいです。」
真里は美咲のその言葉に、心の奥で何かが弾けるのを感じた。35歳の自分が後悔していた「美咲との距離」が、今、確実に縮まっている。健一の笑顔、洋子の温かいおにぎり、星空の下のこの時間が、すべてを繋いでいる。
夜が更け、美咲が帰る時間になった。玄関で靴を履く美咲に、真里はそっと囁いた。
「ねえ、美咲。今日、すっごく楽しかった。また一緒に星見ようね。約束だよ!」
美咲は一瞬目を伏せ、すぐに小さな笑顔で答えた。
「うん、約束。」
美咲を見送った後、真里は裏庭に戻り、健一と並んで椅子に座った。星空を見上げながら、健一がポツリと言った。
「いい友達だな、美咲ちゃん。真里、ちゃんと大事にしろよ。」
真里は頷き、35歳の自分が知る父の未来を胸に秘めながら答えた。
「うん、大事にする。お父さんも…ずっとそばにいてね。」
健一は少し驚いたように真里を見たが、すぐに笑って頭を撫でた。
「なんだよ、急に。ずっと一緒だろ、家族なんだから。」
真里は涙をこらえ、星空に目を戻した。
星見イベントの夜、真里は布団の中で星空の余韻に浸っていた。美咲の小さな笑顔、健一の温かい声、洋子の梅干しおにぎりの味――すべてが、35歳の真里が失ったと思っていた「何か」を取り戻してくれた。美咲との約束が心の支えになり、健一との「ずっと一緒だろ」という言葉が胸に響く。
(これが私の新しいスタート。後悔しない人生、絶対に作るよ。)
だが、星空の下で輝いた決意は、翌週の学校で新たな試練を連れてきた。
月曜の朝、真里はランドセルを背負い、いつもの道を歩いていた。美咲と並び、星見の夜の話をしながら笑い合う。美咲の声はまだ控えめだが、時折見せるくすっとした笑顔に、真里は確かな手応えを感じていた。
「ねえ、真里。あの夜、ほんと楽しかった。おじさん…真里のお父さん、優しいね。」
美咲の言葉に、真里は誇らしげに頷く。
「でしょ! お父さん、星のことめっちゃ知ってるんだ。また一緒に見ようね!」
教室に着くと、いつもの喧騒が真里を迎えた。黒板には算数の問題が書き殴られ、窓際では男子がプロレスごっこで騒いでいる。真里は美咲と席に座り、教科書を広げながら、ふと教室の反対側に目をやった。
そこに、彼がいた。佐藤翔太――10歳の真里が密かに憧れていたクラスの人気者。サラサラの前髪、いつもニコニコした笑顔、運動神経抜群で、女子の間でも「カッコいい」と噂される少年。35歳の真里の記憶では、佐藤君は中学で別の街に引っ越し、その後は連絡も途絶えた。「あの時、話しかけておけば」と後悔した淡い初恋の相手。
佐藤君は友達と笑いながら、教室の中心でボールを投げ合っていた。真里の心臓がドキッと高鳴る。
(佐藤君…! ほんとにいる。25年前の、変わらない佐藤君。)
35歳の冷静な自分が囁く。「落ち着け、真里。10歳の恋心なんて、ただの思い出よ。美咲との友情やお父さんとの時間の方が大事」。でも、10歳の体は正直だ。頬が熱くなり、つい佐藤君をチラチラ見てしまう。美咲が不思議そうに尋ねる。
「真里、どしたの? なんかボーッとしてる。」
「え、う、ううん! なんでもない!」
真里は慌てて教科書に目を落としたが、心はざわついていた。
その日の昼休み、運命は思わぬ形で動き出した。校庭で美咲とドッチボールに参加していた真里は、ボールを追いかけて勢い余って転びそうになった。すると、すっと手が伸び、彼女の腕を支えた。
「大丈夫? 危なかったな!」
見上げると、佐藤翔太の笑顔がそこにあった。陽に焼けた顔、キラキラした目。真里の頭が真っ白になる。
「さ、佐藤…君…?」
名前を口にした瞬間、35歳の自分が「やばい、10歳らしくしろ!」と叫ぶ。真里は慌てて立ち直り、ぎこちなく笑った。
「あ、うん、ありがと! 大丈夫!」
佐藤君はニカッと笑い、ボールを拾って友達の輪に戻っていった。だが、その短いやりとりが真里の心に小さな波紋を広げた。美咲がそばにやってきて、からかうような声で囁く。
「真里、佐藤君と話したんだ! なんか、顔赤いよ?」
「ち、違うって! ただぶつかりそうだっただけ!」
真里は手を振って誤魔化したけど、美咲のくすくす笑う顔に、なんだか懐かしい気持ちが蘇った。10歳の頃、こんな風に友達と恋バナで盛り上がったっけ。
放課後、真里と美咲は駄菓子屋に寄るいつものルートを歩いていた。美咲が10円のグミを手に、珍しく自分から話題を振ってきた。
「ねえ、真里。佐藤君って、なんかカッコいいよね。今日、助けてくれてたし。」
真里はドキッとして、グミを噛む手を止めた。35歳の視点で考える――美咲も佐藤君に憧れてた? それとも、ただの話題作り? でも、10歳の自分なら、こうやって友達と恋の話を共有するの、楽しいよね。
「うーん、確かにカッコいいかも! でもさ、なんか…話すの緊張するよね。」
真里はわざと軽い口調で答え、美咲の反応を窺った。美咲は少し頬を赤らめ、小さく頷く。
「うん…私、佐藤君とか、クラスのみんなとあんまり話せないから…真里みたいに話せるの、すごいなって思う。」
その言葉に、真里の胸がチクッと痛んだ。美咲の内気さ、クラスでの孤立感。35歳の自分が知る美咲の未来――疎遠になった原因の一つは、真里が美咲の悩みに気づかず、自分のことに夢中だったからかもしれない。
「美咲、そっか…でもさ、佐藤君だって普通の男の子だよ。ほら、星見の時みたいに、好きなこと話せば絶対仲良くなれるって! 私も、ちょっと緊張したけど、話してみたら普通だったし!」
真里は笑顔で美咲を励まし、35歳の知恵を少しだけ借りて続けた。
「ねえ、今度、佐藤君とかクラスの子たちとも一緒に何かやろうよ。ドッチボールとか、星見とか! 美咲がいたら、私も勇気出るし!」
美咲の目が少し輝き、恥ずかしそうに微笑んだ。
「…うん、やってみたい。真里と一緒なら、怖くないかも。」
その夜、真里は布団の中で佐藤君との再会を振り返った。10歳のドキドキと、35歳の冷静な視点がせめぎ合う。佐藤君への淡い気持ちは、確かに懐かしい。でも、それ以上に、美咲の笑顔や健一の「家族なんだから」という言葉が、真里の心を強く支えていた。
(佐藤君と話すの、ちょっとドキドキしたけど…それより、美咲と一緒に新しい思い出作りたい。お父さんとも、もっと時間過ごしたい。35歳の私、これでいいよね?)
真里は星見の夜を思い出し、静かに目を閉じた。星空の下で交わした美咲との約束、そして佐藤君との小さな一歩が、彼女の新しい人生を少しずつ照らし始めていた。
真里の心は、星見の夜と佐藤君との再会で揺れていた。美咲の控えめな笑顔、健一の「家族なんだから」という言葉、そして佐藤翔太のキラキラした笑顔――すべてが、35歳の真里が忘れていた「可能性」を呼び起こしていた。だが、どこかで小さな不安が疼く。このタイムスリップは、いつまで続くのか? 25年前のこの世界は、35歳の自分をどこへ連れていくのか?
月曜の昼休みの佐藤君との短いやりとりは、真里の心に小さな火を灯した。10歳のドキドキと、35歳の冷静さがせめぎ合う中、真里は美咲との会話で新たな一歩を踏み出していた。美咲の「真里と一緒なら、怖くないかも」という言葉が、真里に勇気を与えていた。
(美咲を、絶対に一人にしない。佐藤君とも、ちゃんと話してみたい。後悔しない人生、今度こそ…)
翌日の放課後、真里は美咲を誘い、佐藤君を含むクラスの数人と校庭でドッチボールのミニゲームを企画した。35歳の視点で「みんなで遊べば美咲も馴染める」と考えたのだ。校庭の砂埃が舞う中、子供たちの笑い声が響く。佐藤君はチームのリーダー格で、ボールを軽やかに投げ、仲間を鼓舞していた。真里は美咲の手を引き、ゲームの輪に飛び込んだ。
「美咲、ほら、ボール来るよ! 投げてみて!」
真里が声をかけると、美咲は少し緊張しながらボールを握り、ぎこちなく投げた。ボールはふわっと弧を描き、佐藤君のチームの男子に当たる。
「おお、ナイス、美咲!」
佐藤君が笑顔で親指を立てると、美咲の頬がぽっと赤くなった。真里は35歳の自分に囁く――「ほら、佐藤君、いい奴だよ。美咲も楽しそう」。
ゲームの後、みんなで校庭のベンチに座り、駄菓子を分け合った。佐藤君が缶ジュースを手に、真里と美咲の隣に座ってきた。
「真里、今日のドッチボール、企画してくれてありがとな。美咲も、めっちゃ上手かったじゃん!」
佐藤君の無邪気な笑顔に、真里の心がまたドキッとする。美咲は恥ずかしそうに目を伏せ、小さく「ありがと…」と呟いた。
真里は35歳の知恵を借り、会話をリードした。
「佐藤君って、スポーツ得意だよね! 何か好きなの? サッカーとか?」
佐藤君は目を輝かせ、話し始めた。
「サッカーも好きだけど、実は野球が一番! いつか甲子園行きたいなって思ってるんだ!」
その言葉に、真里の胸がチクッと痛んだ。35歳の記憶では、佐藤君は中学で引っ越し、野球の夢を追ったかどうかも分からない。10歳の佐藤君の純粋な夢が、なぜか切なく響く。真里は笑顔を保ちながら、話を続けた。
「かっこいいね! 佐藤君なら絶対行けるよ! ね、美咲もそう思うよね?」
美咲は少し驚いたように顔を上げ、頷いた。
「う、うん…佐藤君、がんばって…」
佐藤君は照れ臭そうに頭をかき、笑った。
「なんか、応援されるとやれる気するな! ありがと、真里、美咲!」
その瞬間、真里は美咲と佐藤君の小さな絆を感じた。10歳の無邪気な友情が、35歳の自分が後悔していた「もっと話せばよかった」を少しずつ埋めていく。でも、どこかで冷たい予感がよぎる。この幸せな時間は、本当に続くのだろうか?
その夜、真里はいつもの散歩道でタロウを連れ、星見の夜を思い返していた。美咲の笑顔、佐藤君の夢、健一の温もり――すべてがあまりにも完璧で、まるで夢のようだ。ふと、タイムスリップの路地に差し掛かると、空気がかすかに歪んだ。真里はハッとして足を止める。タロウがクンと鼻を鳴らし、路地の奥を見つめる。
(また…あの道?)
心臓がバクバクと鳴る。35歳の自分が囁く。「行ったら、戻れるかもしれない。35歳の現実に」。だが、10歳の自分が叫ぶ。「まだここにいたい! 美咲も、佐藤君も、お父さんも…!」
真里はリードを握りしめ、路地を避けて家に戻った。だが、その夜、夢の中で見たのは、35歳の自分の姿だった。派遣社員のデスク、母の小言、父のいない静かな食卓。そして、佐藤君や美咲のいない、孤独な現実。
翌日、学校で異変が起きた。美咲が朝から元気がない。いつもよりうつむきがちで、教科書をぼんやり見つめている。真里は心配になり、休み時間に声をかけた。
「美咲、どうした? なんか…気分悪い?」
美咲は唇を噛み、しばらく黙っていた。やがて、ぽつりと呟いた。
「…昨日、うち、ちょっと…お父さんとお母さんが喧嘩してて…」
真里の胸が締め付けられた。35歳の記憶が蘇る――美咲の両親は離婚し、彼女は高校生の頃から一人で悩みを抱えていた。真里はそのことに気づかず、ただ自分の恋愛や進路に夢中だった。
「美咲…そっか。つらいよね。話したくないならいいけど…私、いつでも聞くよ。」
真里は美咲の手をそっと握った。35歳の自分が叫ぶ。「今、支えなきゃ。後悔しないために」。美咲は目を潤ませ、かすかに頷いた。
「…ありがと、真里。ちょっと、話したい…かも。」
その日の放課後、真里と美咲は校庭の隅で話した。美咲の両親の不仲、夜遅くまで続く口論、星が見えない狭いアパートの部屋。美咲の小さな声が、真里の心に突き刺さる。真里は35歳の知恵を総動員し、ただ聞いて、時折「美咲、ひとりじゃないよ」と繰り返した。
帰り道、佐藤君が二人に声をかけてきた。
「お、二人ともまだいたんだ! なんか、今日、美咲元気なかったからさ…大丈夫?」
佐藤君の素直な心配に、真里は少し驚いた。10歳の少年の純粋さが、35歳の自分を照らす。美咲は恥ずかしそうに「うん、大丈夫…ありがと」と呟き、真里は微笑んだ。
「佐藤君、優しいね。美咲、ほら、友達いっぱいいるよ! またドッチボールやろうね!」
真里は美咲の言葉に、胸の奥で小さな温もりとざわめきを感じた。10歳の自分が佐藤君の笑顔にドキドキする一方、35歳の自分は冷静に囁く。「恋心は懐かしいけど、美咲との友情が今、一番大事」。真里は美咲の笑顔を見つめ、軽く肩を叩いた。
「うん、佐藤君、いい奴だよね! でもさ、美咲とこうやって話してるのが、私、一番楽しいよ。」
美咲の目が一瞬驚いたように揺れ、すぐに柔らかい笑顔に変わった。
「…真里、ほんと変なこと言うね。ありがと。」
その言葉に、真里は35歳の自分の後悔を思い出した。美咲と疎遠になったのは、10代の頃、真里が恋愛や自分の夢に夢中になり、彼女の悩みに気づかなかったからだ。今、10歳のこの瞬間、絶対に同じ過ちを繰り返したくない。
翌週、真里は美咲と佐藤君を巻き込んだ小さな計画を立てた。クラスの遠足が近く、自由時間にグループで宝探しゲームをするという話になった。真里は35歳の知恵を借り、「みんなで楽しめば、美咲も佐藤君ともっと自然に話せる」と考えた。
遠足当日、丘の上の公園で、子供たちは地図を手に走り回る。真里、美咲、佐藤君、そして数人のクラスメイトが一つのグループに。佐藤君はリーダーシップを発揮し、「よし、宝はあっちの木の下だ!」と皆を引っ張る。美咲は最初、いつものように少し後ろで黙っていたが、真里が「美咲、ほら、地図見て!」と手を引くと、徐々に笑顔が増えた。
ゲームの途中、佐藤君が真里に話しかけてきた。
「なあ、真里、なんかお前、最近めっちゃ楽しそうじゃん。美咲もさ、前より笑うようになった気がする。なんか、いいよな。」
佐藤君の素直な言葉に、真里の心がドキッとする。10歳の自分が「佐藤君、なんか私を見てくれてる?」と浮き足立つが、35歳の自分が冷静に分析する。「彼はただ、グループの雰囲気を褒めてるだけ」。真里は笑顔で答えた。
「そ? そりゃ、佐藤君がいいムード作ってくれるからじゃん! 美咲も楽しそうで、嬉しいよ。」
佐藤君は少し照れ臭そうに笑い、美咲の方をチラッと見た。
「美咲、さっき地図読むのめっちゃ上手かったな。頭いいんだな!」
美咲はびっくりしたように顔を上げ、頬を赤らめて呟いた。
「え…そんなこと、ないよ…」
その小さなやりとりに、真里はふと気づいた。佐藤君の純粋な優しさは、美咲の心にも届いている。10歳の恋心がチラッと顔を出す――佐藤君と両思いになれたら、なんて素敵だろう。でも、35歳の自分が強く叫ぶ。「美咲を置いていったら、また後悔するよ」。
宝探しゲームの最後、グループは「宝」のキャンディの入った箱を見つけ、みんなで分け合った。佐藤君が真里にキャンディを一つ余分に渡し、ニコッと笑った。
「真里、今日の遠足、楽しかったな。またなんかやろうぜ!」
真里の心がまたドキッとする。でも、彼女は美咲の手を握り、笑顔で答えた。
「うん、絶対! 美咲も一緒だよね?」
美咲が小さく頷き、佐藤君が「もちろん!」と笑う。その瞬間、真里は決めた。佐藤君への淡い気持ちは大切だけど、美咲との友情を何より守りたい。
遠足から数日後、真里は美咲と二人で駄菓子屋に寄った。いつものグミを半分こにしながら、美咲がぽつりと話した。
「真里、遠足、ほんと楽しかった。佐藤君とか、みんなと話すの、初めて怖くなかったよ。」
真里の胸が温かくなる。35歳の自分が知る美咲の孤独を、今、10歳の自分が変え始めている。
「美咲、よかった! ねえ、これからもさ、佐藤君とかクラスの子たちと、いろんなことやろうよ。星見とか、宝探しとか! 私、いつも美咲と一緒にいたいから。」
真里の言葉に、美咲の目が潤み、すぐに笑顔になった。
「うん…私も、真里とずっといたい。」
その夜、真里はタロウを連れて散歩に出た。いつもの路地に差し掛かると、ふと空気が歪む感覚があった。タイムスリップの道――あの光が、かすかに揺れている。真里の心臓がバクバクと鳴る。35歳の現実に引き戻される恐怖がよぎるが、彼女は深呼吸し、路地を避けて歩き続けた。
(まだ、ここにいたい。美咲との約束、佐藤君との思い出、お父さんとの時間…全部、もっと守りたい。)
だが、真里は気づいていた。このタイムスリップが永遠ではないことを。いつか、35歳の現実に帰らなければならない日が来る。その時、美咲との友情、佐藤君との淡い絆は、どうなるのか? 佐藤君への恋心は、確かに心をときめかせる 真里は、両思いになるかもしれない夢を追いかけるより、美咲との友情を選んだ。彼女は、35歳の後悔を繰り返さないと誓った。
数週間後、クラスの文化祭で、真里、美咲、佐藤君は出し物の劇を一緒に準備した。佐藤君は主役を演じ、美咲は小道具作りを担当し、真里は脚本を手伝った。劇の練習中、佐藤君が真里に笑いかけた。
「真里、脚本めっちゃ面白いよ! お前、ほんとスゲーな!」
真里は照れ笑いし、美咲に目をやった。
「美咲の小道具がなかったら、こんな面白くならなかったよ! ね、美咲?」
美咲がくすっと笑い、頷いた。
劇の当日、舞台は大成功だった。観客の拍手の中、真里は美咲と佐藤君と手を繋ぎ、舞台で一礼した。佐藤君が真里の手を少し強く握り、彼女の心がドキッとした。でも、隣で美咲が笑うのを見て、真里は微笑んだ。
(佐藤君、好きだよ。でも、美咲、君が私の宝物。)
その夜、真里は美咲と校庭で星を見上げた。佐藤君は家族の用事で来られなかったが、二人でグミを分け合い、笑い合った。美咲がぽつりと呟いた。
「真里、ずっと友達でいてね。」
真里は美咲の手を握り、星空に誓った。
「絶対、ずっと。」
文化祭の夜、真里は美咲と校庭で星を見上げ、固い約束を交わした。「ずっと友達でいてね」という美咲の言葉が、真里の心に温かい灯りをともした。佐藤君の笑顔と劇の成功は、10歳の初恋を懐かしい輝きとして胸に刻んだが、真里にとって何より大切なのは、美咲との友情だった。35歳の自分が後悔していた「疎遠」を、今、10歳の自分が確かに変えたのだ。
校庭の星空の下、真里は美咲の手を握りながら思った。
(美咲、君は私の宝物。佐藤君とのドキドキも楽しかったけど、君との時間が一番だよ。)
だが、帰り道でいつもの路地に差し掛かると、ふと空気が揺れた。タイムスリップの道――あの不思議な光が、かすかに瞬いている。タロウが低く唸り、路地の奥を見つめる。真里の心臓がバクバクと鳴る。35歳の現実に引き戻される恐怖がよぎるが、彼女はリードを握りしめ、路地を避けて家へと急いだ。
(まだ、ここにいたい。美咲との約束だけじゃない。お父さんとも、もっと…もっと一緒にいたい。)
翌日は日曜日。真里は朝からそわそわしていた。文化祭の興奮が冷めやらぬ中、父・健一との時間を大切にしたいという思いが強まっていた。35歳の真里にとって、健一は10年前に病気で亡くなった遠い記憶だ。あの笑顔、あの温かい手、週末に作ってくれたカレーの匂い――すべてが、取り戻せないものだった。でも今、10歳のこの世界では、健一が生きている。ピンピンとして、笑いながら新聞を読む健一が、そこにいる。
リビングでは、洋子が朝食の味噌汁をかき混ぜ、健一がソファでスポーツ欄を広げていた。ブラウン管テレビからは、懐かしいアニメの主題歌が流れている。真里は深呼吸し、健一の隣に飛び乗った。
「お父さああん! ねえ、今日、なんか一緒にやろうよ!」
健一は新聞を畳み、にやりと笑った。
「お、なんだよ、真里。急に甘えてくるな。文化祭で調子乗ってるのか?」
そのからかう口調に、真里はくすっと笑い、35歳の自分が知る健一の未来を胸に秘めながら答えた。
「違うよ! ただ…お父さんと一緒にいたいなって。ねえ、カレー作ってよ! お父さんのカレー、めっちゃ好きなんだから!」
健一の目が少し驚いたように揺れ、すぐに温かい笑顔に変わった。
「カレーか! いいね、久々に腕振るうか! 洋子、真里がカレー食いたいってさ!」
キッチンから洋子が顔を出し、呆れたように笑う。
「まったく、急に言い出すんだから。いいわよ、材料はあるから、健一、ちゃんと作ってよね。」
真里は心の中でガッツポーズした。健一のカレーは、35歳の真里が何度も夢に見た味だ。玉ねぎの甘み、隠し味のチョコレート、ちょっと辛めのスパイス。あの味を、もう一度、健一と一緒に作りたかった。
キッチンに移動し、健一がエプロンを着けて玉ねぎを切り始めた。真里は小さな手でジャガイモの皮をむき、健一の動きをじっと見つめた。健一が鼻歌を歌いながら包丁を動かす姿、時折「ほら、真里、こうやって切るんだぞ」と教えてくれる声――すべてが、35歳の真里の心に深く刻まれる。
「なあ、真里。文化祭、楽しかったみたいだな。美咲ちゃんとか、佐藤って男の子とか、いい友達だろ?」
健一の言葉に、真里は頷きながら答えた。
「うん、めっちゃ楽しかった! 美咲、最初シャイだったけど、最近めっちゃ笑うようになったんだ。佐藤君も、なんか…いい奴でさ。」
最後の言葉に、10歳の自分が少し頬を赤らめる。健一はニヤッと笑い、からかった。
「ほー、佐藤君ねえ。真里、なんか目キラキラしてるぞ? 恋でもしてんのか?」
真里は慌てて手を振った。
「ち、違うって! ただの友達! 美咲の方が大事だし!」
健一は大笑いし、真里の頭をポンポンと叩いた。
「ハハ、冗談だよ。美咲ちゃん、いい子だな。お前、ちゃんと友達大事にしろよ。恋なんざ、もっと後でいいだろ。」
その言葉に、真里の胸が熱くなった。35歳の自分が知る健一の未来――病気で亡くなる前に、健一は真里に「友達と家族を大事にしろよ」と何度も言っていた。今、10歳のこの瞬間、健一の言葉が同じように響く。真里は涙をこらえ、笑顔で頷いた。
「うん、絶対大事にする。お父さんも…ずっとそばにいてね。」
健一は一瞬、真里の真剣な目に驚いたように見えたが、すぐに笑って答えた。
「なんだよ、急にしんみりして。家族だろ、ずっと一緒だよ。」
カレーが煮込む間、真里は健一とリビングでトランプをした。洋子が「カレー焦げるわよ!」と笑いながらキッチンから叫び、タロウがソファの隅で寝息を立てる。こんな何気ない日曜日の風景が、35歳の真里には奇跡のように思えた。
夕方、カレーが完成した。食卓に並んだカレーは、懐かしい匂いで真里の鼻をくすぐる。健一が自慢げにスプーンを手にし、洋子が「ほら、早く食べなさい」と笑う。真里は一口食べ、目を閉じた。玉ねぎの甘み、チョコレートのコク、ピリッとしたスパイス――健一の味だ。
「お父さん…これ、ほんと美味しい。ずっと、この味覚えてるから。」
真里の言葉に、健一は照れ臭そうに頭をかき、洋子が「大げさね」と笑った。だが、真里の心は35歳の記憶でいっぱいだった。健一が亡くなった後、どんなカレーもこの味には届かなかった。今、この瞬間を、絶対に忘れない。
食卓の後、健一が真里に言った。
「なあ、真里。カレーの作り方、ちゃんと覚えとけよ。いつか、お前が誰かに作ってやるんだ。」
真里は頷き、35歳の自分が囁く。「美咲に、作ってあげようかな」。
その夜、真里は布団の中で星見の夜とカレーの日を振り返った。美咲との約束、佐藤君の笑顔、健一の温もり――すべてが、10歳のこの世界を輝かせている。だが、路地の光が脳裏をよぎる。タイムスリップは、いつか終わる。35歳の現実は、健一のいない、冷たい世界だ。
真里は目を閉じ、星空に祈った。
(美咲、お父さん、この時間を絶対守る。たとえ現実に戻っても、この気持ち、忘れないよ。)
カレーの夜から数日が過ぎ、真里は美咲との友情、佐藤君との思い出、健一との温かい時間を胸に、10歳の日々を全力で生きていた。文化祭の成功、星見の約束、カレーの味――すべてが、35歳の真里が夢見た「後悔しない人生」を形作っていた。だが、どこかで冷たい予感が疼く。このタイムスリップは、いつか終わる。健一のいない、35歳の現実は、すぐそこまで迫っている。
その週の金曜日、放課後に真里は美咲と駄菓子屋でグミを分け合った。美咲が珍しく饒舌に、劇の小道具作りや佐藤君の冗談を話す姿に、真里は心から笑った。
「美咲、最近めっちゃ楽しそう! 佐藤君とも、もっと話せるようになったよね。」
美咲は頬を赤らめ、小さく頷いた。
「うん…真里が誘ってくれるから、なんか、怖くなくなった。ありがと。」
その言葉に、真里の胸が温かくなる。35歳の自分が後悔した「美咲との疎遠」は、今、確かに変わっている。でも、帰り道でタロウを連れて歩く中、ふと路地の光が脳裏をよぎる。真里はリードを握りしめ、足を速めた。
(まだ、終わらないで。この時間が、もっと欲しい…)
家に着くと、健一がリビングでソファに寝転がっていた。いつもなら新聞を読みながら冗談を飛ばすのに、今日は少し疲れた様子だ。真里がランドセルを置くと、健一が軽く咳き込みながら笑った。
「お、真里、帰ったか。今日、なんか疲れちまってさ。カレーの後片付け、やりすぎたかな?」
その咳に、真里の心臓がドキッと鳴った。35歳の記憶が蘇る――健一が病気で倒れる数年前、時折こんな風に咳をしていた。医者には「ただの風邪」と言われ、誰も気にしなかった。でも、あれが…始まりだった。真里は10歳の笑顔を保ちながら、そっと尋ねた。
「お父さん、咳? 大丈夫? 病院、行った方がいいよ…」
健一は手を振って笑った。
「なんだよ、子供が心配すんなって。ちょっと喉がイガイガしただけだ。ほら、晩飯の時間だぞ!」
洋子がキッチンから「ほんと、健一ったら大げさなんだから」と笑いながら出てくる。真里は笑顔を貼り付けたが、胸の奥で冷たい不安が広がる。
その夜、真里は布団の中で考えた。35歳の自分が知る健一の病気は、肺の病気だった。早期発見できていれば、もしかしたら…。10歳の自分に何ができる? 医者に連れて行く? でも、10歳の子供の言うことを、大人が真剣に聞くはずがない。真里は拳を握り、決意した。
(お父さんを、絶対救う。タイムスリップした意味は、これなんじゃない?)
翌日、真里は健一を説得しようと試みた。朝食の席で、わざと大げさに言った。
「お父さん、咳してたよね? ほんと、病院行って! 私、なんか心配なんだから!」
健一は苦笑し、洋子も「真里、子供がそんな心配しなくていいのよ」とたしなめる。だが、真里の真剣な目に、健一は少し考え込んだ。
「…まあ、最近ちょっと疲れやすい気もするしな。来週、会社の健康診断あるから、ついでに診てもらうか。」
真里の心に小さな希望が灯る。健康診断で、もし何か見つかれば…。でも、その希望は、すぐに冷たい現実の予感に飲み込まれた。
その夕方、タロウの散歩でいつもの路地に差し掛かると、空気が強く歪んだ。タロウが吠え、路地の奥で光が激しく揺れる。真里の足が凍りつく。35歳の自分が叫ぶ。「今、戻ったら、全部終わる! お父さんを救う前に!」。だが、10歳の体は、まるで引き寄せられるように路地に近づく。
「お父さん…美咲…まだ、ダメだよ…!」
真里は叫び、タロウのリードを握りしめた。だが、光が一瞬強く閃き、彼女の視界を白く染めた。
目を開けると、そこは35歳の真里の部屋だった。実家の古い天井、母の小言が聞こえるキッチン、健一のいない静かな空気。タイムスリップは、突然、解けていた。真里はベッドに座り、震える手で顔を覆った。涙が溢れる。美咲との星見、佐藤君の笑顔、健一のカレー――すべてが、夢だったのか?
真里は立ち上がり、机の引き出しを開けた。そこには、古いノートがあった。震える手で開くと、10歳の自分の字で書かれた日記。星見の夜、劇の成功、カレーの味。そして、最後のページに、こう書かれていた。
「真里、35歳の私へ。お父さんは、ちゃんと病院行ったよ。でも、ごめん、変わらなかった。美咲は、笑ってるよ。後悔しないで。」
真里はノートを抱きしめ、泣いた。健一の病気は、結局変えられなかった。35歳の現実は、父のいない冷たい世界だ。美咲は今、どこで何をしているのか。佐藤君は、甲子園の夢を叶えたのか。すべてが遠い。だが、ノートに綴られた美咲の笑顔、健一の温もりが、真里の心に小さな星のように輝いていた。
真里はノートを胸に抱いたまま、窓の外を見つめた。5月の朝、薄曇りの空は、35歳の現実を冷たく映している。派遣社員の仕事、母とのぎこちない同居、恋愛もキャリアも中途半端な人生――タイムスリップの前なら、ただ「こんなはずじゃなかった」とため息をついていただろう。でも、今は違う。あの10歳の日々が、真里に小さな勇気をくれた。
彼女は深呼吸し、スマートフォンを手に取った。美咲の連絡先は、10年以上前に途絶えている。高校卒業後、進路が分かれ、SNSでたまに見かける投稿も、最近は途絶えていた。だが、ノートの日記に書かれた「美咲は、笑ってるよ」が、真里の心を突き動かす。
(美咲…今、どこにいる? 会いたい。話したい。あの時の約束、覚えててくれると、いいな。)
真里はSNSを開き、美咲の名前を検索した。いくつかのアカウントをたどり、ようやく見つけたのは、シンプルなプロフィールのページ。美咲は小さな出版社で編集者として働いているらしい。最新の投稿は、星空の写真と「懐かしい夜を思い出す」という一文。真里の胸が熱くなる。あの星見の夜を、美咲も覚えているのかもしれない。
メッセージを打つ手が震えた。「突然ごめん。真里だよ。覚えててくれると嬉しい。会いたいな」。送信ボタンを押す瞬間、真里は10歳の自分と35歳の自分が重なるのを感じた。美咲との再会が、タイムスリップの続きになる――そう信じたかった。
その日、仕事の休憩時間に、真里は派遣先のオフィスでノートを読み返した。星見の夜、佐藤君との劇、健一のカレー。どのページも、色褪せない輝きで真里の心を照らす。だが、健一の咳、健康診断の約束、そして「変わらなかった」という日記の言葉が、胸に重くのしかかる。真里は目を閉じ、35歳の現実を噛みしめた。
(お父さん、ごめん。救えなかった。でも、あの時間、絶対忘れない。)
夕方、実家に戻ると、洋子がキッチンで夕飯の支度をしていた。真里はエプロンを手に、そっと近づいた。
「お母さん、私、今日、なんか料理手伝おうかな。…カレー、作ってみない?」
洋子は驚いたように振り返り、すぐに笑った。
「真里、急にどうしたの? カレーなんて、健一の得意料理だったのに。」
その言葉に、真里の目が熱くなる。健一のカレーの味は、35歳の今も舌の奥に残っている。彼女は微笑み、玉ねぎを手に取った。
「うん、お父さんのカレー、懐かしくて。作り方、ちゃんと覚えておきたいな。」
キッチンに玉ねぎを炒める音とスパイスの香りが広がった。真里は健一のレシピを思い出しながら、チョコレートを隠し味に加えた。洋子が不思議そうに尋ねる。
「真里、チョコレートなんて、健一の真似ね。あの人、いつも変な隠し味入れてたっけ。」
真里は笑いながら、35歳の記憶をそっと話した。
「うん、お父さん、いつも『これが秘密の味だ!』って自慢してたよね。…お母さん、お父さん、昔、健康診断とかちゃんと受けてた?」
洋子の手が一瞬止まり、目を伏せた。
「…健一、頑固だったからね。咳してても『風邪だ』って笑ってた。でも、ある年、真里がやたら『病院行け』ってうるさく言うから、しぶしぶ検診行ったのよ。覚えてる?」
真里の心臓がドキッと鳴った。10歳の自分が、タイムスリップ中に健一に言った言葉。あの行動が、確かに現実の過去に残っていた。彼女は震える声で尋ねた。
「それ…何か、見つかった?」
洋子はため息をつき、首を振った。
「その時は、なんでもなかった。でも、数年後…肺に影が見つかってね。医者は『もっと早く気づけば』って言ったけど、健一は『しょうがない』って笑ってた。…真里、なんで急にそんな話?」
真里は涙をこらえ、玉ねぎを炒める手に力を込めた。
「ただ…お父さんのこと、思い出しただけ。カレーの味とか、笑顔とか、全部。」
カレーが完成し、食卓に並んだ。真里は一口食べ、目を閉じた。健一の味に近いけど、どこか足りない。洋子が静かに言った。
「健一のカレー、こんな味だったね。真里、こうやって作ってくれると、なんか、健一がそばにいるみたい。」
その言葉に、真里の目から涙がこぼれた。彼女は微笑み、頷いた。
「うん、お父さん、絶対そばにいるよ。」
その夜、真里はノートを手に、健一の記憶を振り返った。タイムスリップで過ごしたカレーの日、トランプの笑い声、健一の「ずっと一緒だよ」。あの時間が、35歳の真里に力を与えている。健一の病気は変えられなかった。でも、健一がくれた愛は、今も真里の心に生きている。
数日後、美咲からメッセージの返信が来た。「真里! 覚えてるよ、びっくりした! 会おう、絶対」。真里は涙を拭い、笑った。美咲の笑顔は、10歳のあの夜と同じように輝いているはずだ。
真里はノートを閉じ、窓の外の星空を見上げた。佐藤君の行方は分からない。でも、美咲との再会、健一のカレーの味は、真里の新しい一歩を支える。35歳の現実は、確かに残酷だ。健一はいない。だが、タイムスリップが教えてくれた――後悔は、未来を変える力になる。
真里は深呼吸し、明日への決意を固めた。
(お父さん、美咲、佐藤君…ありがとう。この星空の下で、私、ちゃんと生きるよ。)