32.闇の中の光※ゼル視点
――アーデルは、俺を恐れて逃げたのか?
その考えが脳裏を掠めた瞬間、胸の奥に鋭く冷たい杭が打ち込まれたような感覚が走った。
視界が揺れ、鼓動が一拍ずつ、鈍く重く響く。
……やはり、俺はアーデルにとって今でも〝魔王ゼルヴァルド〟なのか――?
つい先ほどまで感じていた、確かなぬくもりと笑顔。
あれらはすべて、幻だったのか?
心の奥に小さく灯っていた光が、音を立てて砕け散るのがわかった。
俺の中で、何かがひどく軋む。
骨ではない。血でもない。
もっと奥――魂の奥底で、何かが音を立ててひび割れていく。
手を伸ばすべきだったのか。彼女の名を叫ぶべきだったのか。
だが、何もできなかった。
冷静になれ、と言い聞かせても、頭の中はぐちゃぐちゃだった。
――アーデルは、俺を拒んだ。
そんな思いが、波のように何度も何度も押し寄せ、その場から動けない。喉が締めつけられるように痛んで息ができない。
「……違う」
それでも俺は頭を横に振った。
アーデルが、あんなにあっさり俺の前からいなくなるはずがない。
彼女は俺を受け入れてくれた。魔王に謝りたいと言っていた。
あの言葉が嘘だとは思えない。
しかし、胸の奥に広がる暗闇は、否定すればするほど強くなる。
まるで、心の底から湧き上がる闇が、全身を侵していくように。
また……また俺は、すべてを失うのか?
感情が、理性を噛み砕いた。
その瞬間、周囲の空気がびりびりと震えた。
俺の足元から、黒い霧がじわりと広がり始める。
それは、抑え込んでいた魔力が、限界を越えて溢れ出した証。
――魔力が、暴走しかけている。
理性が薄れ、視界の隅でものが歪み始める。
誰も彼も遠ざけたい。何もかもが鬱陶しい。
このまますべて壊せば、もう何も感じずに済むのかもしれない。
やはり、俺の本質は魔王なのだ――。
「……俺はもう、アーデルとともに生きていくことはできないのか?」
しかし――彼女だけは……アーデルだけは、絶対に傷つけたくない。
牙を剥く衝動と、それを必死に抑え込む意志がぶつかり合い、精神が崩壊しそうになったそのとき。
微かな足音が聞こえた。
「――ゼル!」
その声に、俺の時間が一瞬止まった。
耳に届いた声は、妄想ではない。とても鮮やかに、胸を貫いた。
アーデル……?
信じられない思いで顔を上げると、そこには確かにアーデルがいた。迷いも恐れもない瞳で、まっすぐに俺を見つめている。
「ゼル、ごめんなさい、遅くなって!」
彼女の言葉は、どんな魔法よりも強く、暴走しかけていた俺を沈めてくれた。
視界の闇が晴れていく。
一歩、また一歩、俺に近づいてくるアーデルの姿に、涙が溢れそうになる。
「ゼル……?」
彼女の瞳は、まっすぐに俺を見ていた。
俺を恐れるどころか、愛しさのようなものが滲み出ているではないか。
俺に会えて、ほっとしているようにも見える。
――やはりアーデルは、俺を拒んだのではなかったのだ。
その瞬間、俺の中に広がっていた闇が、完全に消えていった。
暗闇に沈んでいた心が、俺の名を呼ぶ優しい声によって引き戻される。
「……おまえは、俺を恐れずに戻ってきたのか?」
かすれた声で問いかける。
俺は恐れていた。アーデルが俺を見限ることを。俺の正体を知り、忌避することを。
だが、アーデルはいつもと変わらぬ笑顔でくすっと笑った。
「当然でしょう? 私はあなたとずっと一緒にいたいって言ったじゃない」
その言葉とともに、彼女は歩み寄り、俺の手を取った。
「それに、ゼルは私にこのことを話そうと思ってくれてたんだよね? 話し合えば、聖女と魔王はわかり合えるわ」
ああ――失うかもしれないと思った、この温もり。俺の手を取ることを恐れずにいてくれる存在。
張り詰めていた心が一気に崩れ、俺はたまらず彼女を強く抱きしめた。
「……アーデル」
彼女の名を呼ぶだけで、胸がいっぱいになる。
アーデルは驚いたように息を呑んだが、すぐに俺の背にそっと腕を回した。
「ゼル……私は、あなたが誰だろうと、関係ないの。だって今のあなたが私の大切な人だから」
まるで俺の不安をすべて見透かしているような言葉だった。
「俺は……魔王だぞ? おまえがかつて倒した、敵だ」
「あのときはごめんなさい。今でも私を憎んでる?」
俺の顔を窺うように、そっと覗き込んでくるアーデルに、心の中で「そんなわけないだろう」と即答している自分に、思わず笑ってしまう。
確かに、憎んでいた。聖女には復讐してやろうと思っていた。
しかし、今は違う。俺はアーデルのことが、心底愛おしい。
「おまえを、愛してる」
そっと囁くと、アーデルは一瞬頬を赤く染め、そしてやわらかく笑った。
「……私もよ、ゼル」
彼女の頬に手を添えると、俺たちの唇は自然と重なった。
すべてを包み込むような、優しくて、あたたかい口づけだった。
ああ、俺は。この瞬間をどれだけ望んでいただろう。
――闇に沈むことは、もう二度とない。
彼女が俺の光だから。