31.話を聞かなくちゃ
翌日の昼過ぎ。私は屋敷の庭をゆっくりと歩いていた。
ゼルに改めて話があると言われて、私は彼よりも先に約束の庭で待っている。
昨夜寝る前に話とはなんだったのかと聞いてみたけれど、ゼルはちょっと照れくさそうに「……今は無理だ」と言ったのだ。
本当に、話ってなんだろう。
……もしかして、ヴォルター様が言っていた通り、本当に告白だったりして?
「――なんて、そんなわけないか!」
自分で否定して、ふっと息をついた、そのとき。
「アーデル……! た、助けてくれ……!」
「!?」
突如、木の影から何かが転がるように飛び出してきた。その男を見た瞬間、私は目を見開いた。
「……エドガー様?」
そこにいたのは、かつての婚約者であり、今は失墜した元神殿長のエドガー・エーレンベルクだった。神殿の神聖な衣はすっかりぼろぼろになり、髪は乱れ、顔には疲労の色が濃く刻まれている。まるで逃亡者のような姿だった。
「どうしてこんなところに……!」
「お願いだ、アーデル……! 僕を助けてくれ……! あんな生活、もう耐えられない!」
彼は地面に手をつきながら必死に訴えてきた。その声には、かつての傲慢さも余裕もなく、ただ惨めな懇願があるばかりだった。
「助ける? 今更何を言っているのです……」
私は静かに言った。目の前の男は、私を生贄にしようとして見捨てた張本人。何をしても、私が許すと思っているのか、その甘えた態度が、かえって不快だった。
「君は……! 僕がどんな目に遭ったのか知りもしないくせに……! 神殿での下働きなんて、僕のような高貴な者がすることじゃないんだ!」
「高貴な者?」
私は思わず顔をしかめる。
「あなたは何か勘違いをしているのではないですか? もう昔のあなたとは違うのよ」
その言葉に、彼の顔が苦々しく歪む。それでも最後の切り札を切るように、口を開いた。
「……君は知らないんだろう、アーデル」
「何をです?」
自分がどんな目に遭っているかの話なら、もういい。そう思ったけれど、彼の口角が怪しく上がる。
「僕は気づいた……あの魔力は間違いない。僕の力は本物なんだ……」
「だから、何の話ですか」
私がその先を急かすと、彼はごくりと一度息を呑み、そして告げた。
「聖神ゼル様……いや、あの男は――魔王ゼルヴァルドだ!」
その言葉に、私の心臓が一瞬凍りつく。
ゼルが……魔王ゼルヴァルド……?
「そんなわけないじゃないですか。魔王は私が倒しました」
「だから、あいつは魔王の生まれ変わりなんだ!」
「……嘘、よ」
「本当だとも! 僕にはわかる! 最初からあいつには邪悪な魔力を感じていたのだ! あの男は聖神のふりをした……魔王だ!!」
エドガー様は壊れたように叫ぶ。確かに彼の、魔力を見極める力だけは本物だ。十年間見てきたから、それはわかる。でも――。
ゼルが、魔王? あのゼルが、魔王ゼルヴァルドだなんて――。
「……そんなはず、ない……」
「信じられないなら、君自身で確かめればいい! 彼に聞いてみるんだな。だが、真実に気づかれたとわかったら、何をするかわからないぞ! 何せ奴は、自分を倒した君を憎んでいるに違いないのだから!」
「…………」
エドガー様の叫ぶような言葉に、頭の中が混乱する。
でも、私はゼルのあの瞳を知っている――。
黒い髪、金色に光る瞳、すべてを圧倒するほどの強大な魔力――。
「でも……まさか。まさか、そんなことが……」
「さぁ、手遅れになる前に僕と一緒に逃げよう、アーデル!!」
彼がそう言って、私に手を伸ばした、そのとき。
「何をしている」
冷たい声が、空気を凍らせた。
――ゼル。
怒りを滲ませたその金色の瞳は、十年前に見た魔王ゼルヴァルドと同じ瞳だった。
「……エドガー」
静かな声だった。だが、その響きには冷たい怒りが滲んでいた。
ゼルはゆっくりと歩みを進める。先ほどまでの穏やかで落ち着いた彼の雰囲気は微塵もない。それはまるで、魔王のようだった。
その気配に、エドガー様がビクリと震える。
「っ、やっぱり、そうなんだな……! おまえは魔王ゼルヴァルドだ! そうだろう!?」
その叫びに、ゼルが足を止めた。彼の表情が、ほんの一瞬揺らいだのがわかった。
私の目の前で自分の正体を突きつけられたことに、動揺しているように見える。
「ゼル……、そうなの? あなたは、私が倒した……魔王、ゼルヴァルドなの?」
「…………、アーデル」
ゼルは否定しなかった。その動揺に揺れる瞳が、肯定を物語っている。
その隙を、エドガー様は見逃さない。
「アーデル! こんな奴と一緒にいては駄目だ! 一緒に逃げるぞ!!」
「え……っ!?」
エドガー様は私の腕を強く掴むと、ぐいっと引き寄せてゼルに魔法の杖を向けた。
「ちょっと、やめ――!」
私が抗おうとするより早く、エドガー様はゼルに向けて魔力弾を放つ。
ゼルは、その場から動かない。私の目には、ゼルがなぜか手を伸ばせずにいるように映った。
「ゼル――!」
彼があの程度の攻撃でやられるとは思わないけれど、私の呼びかけにも反応しない。
その間に、エドガー様は私を無理やり連れ去った。
ゼルの手は、握りしめられたまま、震えているように見えた。
「はぁ、はぁ……ここまで来れば……」
ゼルが追ってこないことに気づき、エドガー様は息を切らしながら立ち止まる。
「……もういいですか?」
私は彼の手を思い切り振り払う。
「アーデル! 僕の話を聞いてくれ! 君は騙されているんだ! 魔王なんかと一緒にいるなんて……!」
「騙されてなんかいないわ」
私のまっすぐな言葉に、彼は目を見開いた。
「私はゼルを信じています」
はっきりとそう告げると、エドガー様の顔がどんどん歪んでいくのがわかった。
「そ、そんな……! どうして! あいつは元、魔王だぞ!?」
「それがどうしたというのです」
「どうしたって……!」
エドガー様は私の態度に混乱しているのか、焦ったように言葉を詰まらせた。
「元魔王だとしても、ゼルは……ゼルです。私は今のゼルを信じています」
「……っ! アーデル、君は本気で……!」
「私は、もう彼を傷つけることはしない。一度目は……間違えてしまったのかもしれないのだから」
「……アーデル」
「今度はちゃんと、彼の話を聞かないといけないので。失礼します」
そう言って、私は踵を返した。
エドガー様は、もう私を止めることはしない。私の覚悟が伝わったのだろう。
おそらく、エドガー様に会うことはもう二度とない。
ゼルの元へ、帰らなくては。そして、ちゃんと話をしなくちゃ。