20.変わっていく心 ※ゼル視点
「ただいま戻りました、ゼル様」
「報告を聞こう」
その日、俺の使いとして王宮を訪れていたオリヴァは、いつも通りの軽やかな足取りで俺の私室へとやってきた。
アーデルの元婚約者と妹がこの城に来た日から定期的に、オリヴァは王宮に出向いている。
オリヴァを対面に座らせ視線を向けると、彼は姿勢を正し、手際よく王宮での出来事を話し始めた。
「まず、国王より改めて謝罪がありましたよ。王自身が深く反省している様子で、ゼル様の寛大な対応に感謝の意を述べられていました」
「そうか」
「それから、神殿のほうもすっかり新体制に移行したようで、あのエドガーという男も聖女イリスも、今やすっかり……真面目に働くようになり」
「詳しく話せ」
言葉を選ぶように告げたオリヴァに、詳細を求める。
王都の状況にはあまり興味がなかったが、あの二人のことは多少気になる。
もし反省の色がないようなら、俺直々に手を下してやる気は、今でも持っている。
「ふふ……ゼル様も気になりますか?」
「……手短に話せ」
オリヴァはにやりと笑い、肩をすくめて続ける。
「エドガーは、今や神殿の末端の仕事に回されているようです。朝から晩まで奉仕活動に追われ、寝る暇もないとか。元々高位の聖職者としてふんぞり返っていたのが、今では神殿の掃除に明け暮れる毎日です」
「……ふん。当然だな」
その男は、アーデルの元婚約者だ。
アーデルには恋愛感情がなかったと言っていたが……それでも俺の手で抹殺してやりたい。
「そして聖女イリスですが、彼女は騎士の監視下に置かれ、自由の欠片もありません。外出はおろか、一歩も外に出られず、朝から晩まで治癒魔法の行使と回復薬の調合に追われているそうです」
「それも当然の報いだろう」
騎士ヴォルターの話も聞いたが、あの女は自分の仕事までアーデルに押し付けていたようだからな。
「まぁ、彼らはこれからも真面目に働くしかないですね。逃げ場はありませんから」
オリヴァは楽しげに話しながらも、怒っているように少し口を尖らせた。
「報告は以上か?」
「あ、最後に!」
オリヴァは嬉々として本を取り出し、俺の前に差し出した。
「ヴォルター殿にも会ってきまして、王都の若い男性の間で人気の恋愛指南書を借りてきましたよ!」
「……本当に持ってきたのか」
俺は呆れ気味に小さく息を吐きながらその本を手に取った。表紙には〝好きなあの子を振り向かせる100の方法〟と書かれていた。
ぱらぱらと捲ったその中に書かれている文字は、
「まずは己を鏡で見よ。恋は外見から始まる、か……」
外見なら俺は問題ないはずだ。ヴォルターも俺のことをいい男だと言っていたしな。
ふ……余裕だな。そんなことを思いながら、誇らしげに更にページを捲る。
「レディの心を掴むには、まず目を見つめて微笑め……女性は褒められたい生き物です……強引すぎず、しかし男らしさは忘れずに……だと?」
ページが進むにつれて、余計な手順ばかりが並んでいる。
更には、〝恋愛は距離感が大事。さりげないボディタッチで心を近づけよ〟といった、妙な助言まで載っていた。
……俺がそんなことをするわけがない。
「……くだらん」
「まぁそう言わず、参考にしてください! あ、それからこれもお土産です」
「なんだ」
どうせろくなものではないと思いながら、渡された小さな木箱を受け取る。
蓋を開けると、中には精巧な彫刻が施された小さなガラス細工が収められていた。
それは、黒い狼を象った小さなガラス像。
「……なんだ、これは?」
これが土産? オリヴァは俺を馬鹿にしているのか?
そう思いながら、目の前の彼を軽く睨む。
「違いますよ? ぜひゼル様からアーデルに差し上げてください。王都の職人が手がけた逸品で、なかなか高価なものです! きっとアーデルも大喜びです!」
「……俺からアーデルに?」
「はい! ゼル様から差し上げてください! そうすれば、お二人はもっと仲良くなれるかもしれません!」
「……」
オリヴァの意図は明白だった。
しかし、確かにこのガラス細工はとてもよくできている。
アーデルはフェンリルだった頃の俺をよく「可愛い」と言って愛で、「大好き」と口にしていた。
……もしかして、アーデルは狼が好きなのか?
そう思えば、これを渡したときのアーデルの嬉しそうな顔がすぐに想像できてしまい、胸の奥が妙にそわそわして落ち着かない。
「ふふ、ゼル様、その気になってきましたね」
オリヴァが「思った通りだ」というように満足げに笑う。
だが――。
「俺は元魔王だ。聖女であるアーデルとこれ以上親しくなって本当にいいのかと、最近よく考える」
「ゼル様……」
魔王だった頃の俺は、多くのものを破壊してきた。人間が困るようなことをたくさんしてきた。
聖女に滅ぼされる存在だった。
アーデルは、俺が元魔王であることを知らない。
たとえ生まれ変わっていても、俺の心は俺のものだ。
「いつか俺は、再びあの頃と同じ行いをするかもしれない。そうすれば、アーデルはまた俺を……」
聖女と魔王は、相容れぬ存在。
もし無意識のうちに俺が彼女を裏切ることになったら?
彼女を傷つけるのが、俺は怖い。アーデルの悲しむ顔は、見たくない。
自分がこの部屋の空気を重くしていることがわかる。しかしオリヴァはいつもの軽い口調で言った。
「ゼル様、大丈夫ですよ。アーデルは今のあなた様を見ています!」
オリヴァの言葉は軽いが、時折妙に核心を突く。
彼の言葉に、少しだけ肩の力が抜けたような気がする。
「おまえだって魔族だろう。アーデルに対して何も思わないのか」
「私は何もされなければ人間に悪さをする気はありませんし、アーデルのことも好きですよ。あ、もちろん好きというのは恋愛感情があるという意味ではなく――」
「わかった。もういい」
ペラペラと語り出すオリヴァに小さく息を吐き、俺は静かにその木箱を握りしめた。
かつては俺もアーデルに復讐を企んでいた。だが今はどうだ?
彼女のことがすっかり大切な存在になっている。
それが、今の俺だ。
「……アーデルに渡す」
「その意気ですよ、ゼル様! ついでに告白もしちゃってください!」
「それとこれとは話が別だ!!」
告白などしてどうなるというんだ……!
やはり軽く言いのけるオリヴァに溜め息が出るが、彼が十年間俺を信じて待っていてくれたことも、わかっている。
「ふふっ、でもゼル様。アーデルはきっと喜びますよ!」
「……そうだな」
変わらぬ仲間と、変わっていく俺の心に、妙なくすぐったさを覚えながら。
俺はガラス細工の狼を指先でそっと撫でた。