02.獣の目覚め
――私は捨てられた。
これまでずっと、二人きりの聖女として一緒に頑張ってきたのに。
仲のいい姉妹だと思っていたのは、私だけだったの……?
胸の中で何かが砕ける音がする。
『復讐だ……復讐のときがやってきた』
獣が静かに何か呟いている。
――でもごめん。今それどころじゃないの。
『覚悟しろ、憎き聖女め――ッ!!』
「ねぇ、酷いと思わない!?」
『…………は?』
ばっと勢いよく顔を上げると、目の前で獣が大きな口を開いていた。
グァッと開けられた口には、骨をも砕きそうな鋭い牙。
けれど今の私はそれどころじゃない。
「これまで十年、華の十代を投げ捨てて国のために尽くしてきたのに!!」
『……ほ、ほう』
「婚約だって勝手に決められちゃったけど、私はエドガー様みたいなタイプ好きじゃないのよ! なんかナルシストだし!!」
『そう、なのか……』
なんだか獣は拍子抜けしたような顔をしている。でも私の話を聞いてくれてるから、案外いい奴なのかも。
「もういい! 私、聖女やめる!!」
『……え?』
覚悟を決めてそう宣言すると、私は獣に向き合った。
「あなた、魔獣じゃないでしょう。……聖獣、フェンリルね?」
『……何? 俺が、聖獣だと?』
「そうよ、その力……間違いないわ。もしかして、自覚がないの?」
魔物から感じる邪悪な魔力とは明らかに違う。むしろ私たち聖女に近い、神聖な魔力。
けれど聖女ともまた違う、何か特別なものを感じる。
それでも辺りの瘴気を浄化していることが、この獣が聖獣だということを物語っている。
『……俺は随分長い間、眠っていたような気がする』
「そうなのね……もしかして、生まれて間もなく力を溜め込んでいたのかしら。でもイリスの魔力を受けて目を覚ました……」
聖獣ならば、聖女の魔力を受けて目覚めたことにも頷ける。
でも、エドガー様は確かに〝魔獣〟と言って危ぶんでいた。エドガー様には魔力を見極める力がある。イリスも、この獣が聖獣だと気づいていなかった。
……二人は私を生贄にしたつもりだろうけど、もしかしたらそのうち再びやってきて、この子を倒そうとするかもしれない。
そのときは私が守ってあげなければ。
きっと、この子はまだ生まれたばかり。独りにするのは不安。
『しかしおまえは逃がさぬぞ――』
「私たち、一緒に暮らしましょう!」
『…………は?』
「これからは私が一緒にいてあげるから、安心してね?」
フェンリルが何か言いかけたような気がするけれど、私は安心してもらおうと、笑顔を浮かべて頭を撫でた。
「私は聖女として神殿に仕えてきたけど、さっき捨てられてしまったの。あなたへの生贄なんですって」
『…………』
「だから私、決めたの。見たところあなたはまだ生まれて間もないでしょう? 一人前の聖獣になるまで、私が守ってあげるわ」
『……おまえ、俺が怖くないのか?』
「あなたは聖獣だもの。怖くないわよ」
『…………』
古来より、聖獣が誕生した際は聖女の守護神となり、ともに戦った――そんな伝承が頭をよぎる。
彼が聖獣なら、私たちは出会うべくして出会ったのかもしれない。
「私はアーデル。あなた、名前はあるのかしら?」
『……ゼル』
「ゼル、いい名前ね」
『……前世の名だがな』
ゼルはどこか戸惑った様子で呟いた。けれどその瞳の怒りや憎悪は、先ほどに比べて確実に和らいでいる。
私は笑顔を浮かべたまま、ゼルに一歩近づいた。
「ゼルには前世の記憶があるの?」
『ああ、あるぞ。しっかりとな』
そう尋ねると、ゼルの口角がにやりと上がった気がする。誇らしげに見えて、ちょっと可愛い。
「そうなんだ、すごいのね!」
『…………』
私が手を叩いて称賛すると、ゼルはまた拍子抜けしたような顔を見せた。
『……貴様、何もわかっていないようだが俺は――』
「ゼル様~!!」
ゼルが何か言おうとした、そのとき。
遠くのほうから誰かが空を飛んでやってきた。
ゼルの名前を呼んだけど……知り合いがいたの?
『おお……、オリヴァじゃないか。おまえ、生きていたのか……!』
美しい所作で地面に着地し、優雅に礼をするのは、細身で長身の美青年だった。
銀色の髪に紫色の瞳が神秘的で、まるで絵画から抜け出してきたような姿だ。
「もちろんです! ゼル様の復活を今か今かと待ちわびておりました!」
やはり二人は知り合いなのね。
ゼルのしっぽが嬉しそうに揺れている。……可愛い。
「ああ……ゼル様……。こんなに可愛らしいお姿になられて……」
『うるさい。俺は今目覚めたばかりだ』
「おはようございます! 十年間、屋敷は守り続けてあります! さぁ、帰りましょう!」
私を無視して話が進んでいく。
ちょっと待って、この人は一体誰なの?
人間? さっき空を飛んでいたけど……。もしかして、すっごーく魔力が多くて、飛行魔法が使えるの? 私にも、エドガー様にも使えないのに。
「……あの、盛り上がっているところ悪いけど、あなたは?」
「ん? あ……!! この女、聖女アーデルではありませんか!?」
「はい、そうですが」
「おのれ聖女め……! 再びゼル様の前に現われるとは――」
「え?」
再びとは、どういう意味? 私は今日初めてゼルに会ったはずだけど……?
それに、なぜかこの人は私のことをとても怒っているみたい。
「今度こそ、必ずや私がゼル様を守ってみせま――」
『こいつも連れていくぞ』
「えええ!? しかし……あ、わかりました! 捕らえるのですね!」
ツン、と素っ気なく言いながらもしっぽがゆらゆらと揺れているゼルに、困惑しつつもすぐに納得した男。
「私の名前はオリヴァ。ゼル様に前世から仕えております!」
「あら前世から。すごいのね、オリヴァ。ゼルを守る者同士、これからよろしくね」
「なんと馴れ馴れしい――! え、ゼル様を守るって??」
オリヴァは不思議そうに首を傾げた。
聖女が聖獣を守ることが、そんなに意外なの?
それにしても、ゼルの前世はフェンリルではなかったのかしら?
でも、これほど強大な力を持っているのだから、きっと何か神聖な存在だったに違いないわね。
ともかく、私はオリヴァの案内で彼らの屋敷とやらに向かうことにした。