01.生贄にされた聖女
「アーデル・ハイネ――。君は国のために犠牲になってくれ」
婚約者、エドガー・エーレンベルク様の冷たい言葉に、私は息を呑んだ。
「え……?」
まるで心臓を握りつぶされたような感覚がして、言葉がすぐに出てこない。
「……何を言っているのですか?」
なんとか絞り出した声は震えていた。目の前の彼の表情は硬く、その隣で妹のイリスが薄く笑みを浮かべている。
「僕はイリスと愛を誓い合ったんだ。だが、君がいるかぎりそれを公にすることはできない」
「イリスと?」
「どうせ君は〝血に濡れた聖女〟と言われ、人々から恐れられている。いなくなれば、むしろ皆ほっとするさ」
「…………」
なるほど……それはわかりました。
でも、どうしてそんな話をこのタイミングで言うのだろう。
十年の歳月をともに歩んだ婚約者と、妹。
それがまさか、こんなことになるなんて――思ってもみなかった。
――この国には二人の聖女がいる。私、アーデルと、一つ年下の妹イリス。
私が十歳のとき、最強と恐れられた魔王ゼルヴァルドを倒した、伝説の聖女。
金髪碧眼で儚げ美人のイリスは、得意の〝癒しの力〟で人々を治癒するのが主な担当。
そして、くすんだ桃色の髪に真っ赤な目を持つ私は、得意の〝浄化の力〟で邪悪な魔物を封じるのが主な担当。
この得意分野と目の色のせいで、一部の者から私が『血に濡れた聖女』と言われているのは知っている。実際、魔物を倒すときに、その血を浴びてしまうこともある。
けれど、それもすべては国のため、民のため、神殿のため――。
私たちはあのときから十年間、力を合わせてともに頑張ってきた。
そして今、魔王ゼルヴァルドが棲んでいた魔の森に誕生したという魔獣を討伐するため、私はイリスと神殿長エドガー様とともに、この森に足を踏み入れたのだった。
「アーデル、君は僕という婚約者がいながら他の男と枕を交わしているらしいじゃないか」
「え? そんなことしていませんが……」
「僕が知らないとでも思ったか? 君が夜な夜な騎士団の寮に通っていることはわかっている! あそこには男しかいない。何をしているのかなんて、馬鹿でもわかる」
「いや、それは――」
確かに、夜中に騎士団の寮に行ったことはあるけれど、それは怪我をした者を治癒するためだった。
治癒魔法はイリスのほうが得意だけど、私にも一応使える。
イリス一人では負担が大きいからと、彼女に頼まれたのに。
まさか私は、妹に嵌められたの?
五歳年上のエドガー様と婚約が結ばれたのは、もう随分前のこと。魔王を倒してすぐ、私と彼の婚約が結ばれたのだ。
だけど、大人になってイリスを好きになってしまったのなら、そう言ってくれればいいのに。
婚約破棄だってなんだって、受け入れてあげるから。
そんな甘い考えが、いかに浅はかだったかを思い知る。彼らの計画は、私の想像を遥かに超えて、冷酷で恐ろしいものだったのだ。
「とにかく君は僕を裏切った。聖女をあの魔獣に捧げれば、この森の魔物たちが鎮まることはわかっている。君は国のために犠牲になってくれ」
「待って、そんなの……冗談ですよね?」
「聖女は一人いれば十分だ。君にはここで役目を果たしてもらう」
淡々と語るエドガー様の声には、情の欠片すらなかった。
目の前には眠っている黒い獣。その周囲に漂う禍々しい魔力溜まりが視界に焼きつく。
瘴気に覆われた魔の森の中で、獣の周りに強い力が集まっているのがわかる。
「私を生贄にするということ……?」
「そうだ」
信じられない……。二人とも私の大切な存在だったのに。
「イリス……」
震える声で妹の名を呼び、恐る恐る視線を向ける。この十年、イリスとは聖女として姉妹として、支え合ってきた。ときには辛いこともあったけれど、一緒なら乗り越えられた。
だからきっと何かの間違い。イリスが私を見捨てるはずは――。
「これでやっと邪魔者がいなくなるわ。ずっとそのいい子ぶった顔が気に入らなかったの。エドガー様が私を選んで当然だわ」
「……そんな」
彼女は小さく鼻で笑い、エドガー様の腕を取りながら、私を見下ろしている。
その冷たい声が、私の心をぐしゃりと踏みにじった。
「国のために、犠牲になってくれ。勇敢な聖女、アーデル」
冷たくそう言うと、エドガー様は杖を構え、イリスも同様に手に魔力を込め始めた。
「ちょっと待って、二人とも、何を――」
私を勝手に勇敢な聖女にしないでよ……!
私の言葉を遮るように、二人はほぼ同時に魔法を放つと、光の矢が私を通り越して二人の視線の先に向かっていった。
その先にいるのは、眠っている獣。
青みがかった黒い毛並みが光を吸い込むように艶やかで、長いしっぽが地面を這うように横たわっている。額からは金色の角が伸び、神秘的な威厳を放っていた。
二人の魔力がその身体に直撃すると、周囲の空気が緊張に包まれた。
――その瞬間、獣の目が開く。
ズズズズ――と大地を揺るがすような強大な魔力の波動に、肌がビリビリと痺れる感覚を受ける。
「……!」
目を開けた獣は、私に鋭い視線を向けたままゆっくりと身体を起こした。
それだけで、周囲の木々から鳥たちが一斉に飛び立ち、逃げるように空へ舞い上がる。
開かれた金色の瞳が私と合った瞬間、この獣がただの魔獣ではないことを悟った。
この獣は、もしかして――。
『……おまえは、憎き聖女だな』
低く威厳のある声が、頭の中に直接響く。その一言で、たちまち肌が凍りつく。
「想像以上に恐ろしい力だ……魔獣よ! 聖女を生贄に捧げる!」
エドガー様がそう叫ぶと、慌てた様子でイリスに目を向けた。
「僕たちは逃げるぞ!」
「待って、エドガー様、私を置いていかないで!」
イリスは悲鳴を上げながらも、エドガー様を追って走り出す。
「ちょっと、二人とも……!」
私も二人を追おうとしたけれど、〝ズシン――〟と地面が揺れ、その場で転んでしまった。
『逃がすものか』
「……!」
その言葉とともに、獣が一歩、私に近づいたのだと気づく。それだけで辺りに震動が走ったのだ。
二人の背中は容赦なく遠ざかっていく。イリスが振り向きざまに、満足そうに笑みを浮かべてみせた。
楽しい気持ちになってほしくて書いた、基本ラブコメです!
よろしくお願いいたします!m(__)m