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【1】

「先生、これでいいですか?」

 家庭教師先の生徒に声を掛けられて、ぼんやりしてた俺は慌てて彼の指すノートに目を向けた。


「え、ーっと。うん、できてるよ。あ、ただこれ、ちょっと字が読みにくいから気をつけて。正解なのに、読めなくてバツにされたらつまらないからね」

「あ! はい、わかりました。僕、元が汚い字だから注意してるつもりなんですけど、つい急ぐと気が回らなくて」

 素直に謝って反省している耀(よう)くん、……五十嵐(いがらし) 耀に、俺はごく普通に返す。


「いや、耀くんの字って汚くはないだろ? 美文字かどうかはともかく、読みやすいし十分きれいな字だと思うよ」

「そうですか? そう、かなぁ。でも、ありがとうございます」

 はにかんだように笑う彼は、中学三年生にしては少し幼く見えた。

 特に童顔というわけではない。メタルフレームの眼鏡の影響もあってか、普段はむしろ落ち着いた印象を与える方なんだけど。


牟礼(むれ)先生、ありがとうございました。受験までよろしくお願いしますね」

 決まった授業時間を終えて耀くんと一緒に玄関に向かった俺に、リビングから出て来た彼のお母さんが丁寧に頭を下げてくれる。


「耀くんは本当に優秀ですから。僕の力なんて微々たるものですけど、精一杯尽くします」

 お世辞ではなく本心からそう告げて、俺は五十嵐家を辞した。


 俺はもともと家庭教師なんてする気はなかった。

 能力が足りないとは思わないし思いたくないが、一対一で生徒の人生を左右しかねない立場はちょっと重かったのが正直なところだ。

 殊に耀くんの場合は、中学受験で残念ながら不合格だった志望校に再チャレンジする、ということなのでなおさらだった。

 併願で受かった、十分に素晴らしいと思える学校を辞退して公立中学に進んでまでどうしても行きたい高校。荷が重すぎる……。


 それがなんで今こんな状況にいるかというと、研究室の教授に頼まれたからだった。

 耀くんは、教授の若くして亡くなった友人の息子さんだそうだ。

 塾でプロに教わっているので、家庭ではむしろ年の近い相談役にもなれる学生さんがいい、というのが親御さんの意向なんだとか。

 俺も一応、世間では一目置かれているらしい名の通った大学の学生だからなぁ。


 教授の名誉のために言っておくと、もし俺が断ってもそれで気分を害したり、ましてや不利益な取り扱いをするような人じゃない。

 それどころか「じゃあ他に誰かいないかなぁ。牟礼くんいい人知らない?」と屈託なく振って来そうだ。

 苦学生ってほどじゃないが、地方から出てきて一人住まいで、間違っても経済的に余裕があるとは言えない。

 そんな俺は、小島(こじま)教授には大学関係の割のいいバイトに推薦してもらったり、研究以外の部分でもかなり助けてもらっている。それだけ信頼してくれてるってことなんだろうけど。

 いつも飄々(ひょうひょう)とした教授が、深刻とまでは行かないものの困っているのを平然とスルーするには、俺は人間が小さ過ぎたってことだ。



    ◇  ◇  ◇

「牟礼さん、次どうします?」

 研究室のコンパの後、後輩が二次会の出欠を訊いて来る。


「俺は帰る。悪いな」

 一次会はともかく、金もないし二次会になんて参加するのがレアとまで言われる俺なので、向こうも想定内の答えだった筈だ。

 それがわかってて一応は誘わなきゃならない幹事も、考えてみりゃ気の毒だよな。先輩だから無視もできないだろうし。


「あ、わかりました。それじゃお疲れ様でした」

「おー。また明日な。あんまり遅くならないようにしろよ」

 片手を上げて適当に振りながら、俺は台詞の途中でもう半分彼らに背中を向けていた。

 繁華街とまでは呼べない、居酒屋や飲食店の並ぶ界隈を俺は真っ直ぐ駅へ向かう。その道中だった。


「へ、っ!」

 思わず妙な声を上げてしまった。無理もない、と思う。何故なら。


「耀、くん⁉」

 咄嗟に身を翻して、俺はつい今しがた擦れ違った細身の少年の腕を後ろから掴む。

 頭より先に、身体が動いてた。人違いだったら、なんてその時は頭を(かす)めもしなかった。

 だって耀くんとは仮にももう半年以上、週に二回は二人きりで至近距離で過ごして来たんだからな。


「……? 誰? アンタ」

 素っ気ない反応。

 間違えた? いや、まさか、だって声も違わ、な……?


「耀くんじゃ、ないの?」

「……違うよ。オレはそんな名前じゃない。つか、手ぇ離せよ、失礼だろ」

 その時になってようやく、俺は本当に人違いをしてしまったんだ、と納得した。

 眼が、違う。

 耀くんは、こんな鋭い、射殺すという表現が当て嵌まるような眼をしていない。

 やけに尖った声も口調も。そして、裸眼に黒っぽいシャツとスリムパンツ、手首に何やら金属の輪っかを付けたファッションも。


 ……何もかもが、違った。


「あ、ああ。ゴメン。えっと、すみませんでした」

 混乱したままとりあえず謝る。俺が一方的に悪いんだから当然だけど。


 少年は俺の顔をちらっと一瞥(いちべつ)する。

 そして、力は入ってないが未だ彼の腕に掛かったままだった俺の手を振り切るようにして、無言で歩き去った。

 駅とは反対の、今まで俺が居た、……飲み屋街の方へ。


 次の家庭教師の日。

 俺はつい、耀くんの顔をまじまじと見つめてしまった。


「……? 先生、どうかされました? 僕の顔に何かついてます?」

 薄いレンズ越しの穏やかな瞳、落ち着いた静かな声。……やっぱり、違う。


「なんでもない。なんかぼーっとしてて。ゴメンね」

「いえ、構いませんよ。先生って、すごくしっかりなさってるのに、時々そういうことありますよね」

 くすくす笑う耀くんに、俺は少しバツの悪い思いで頭を掻く。

 どっちが先生だか年上だかわかんねーな、これ。


「じゃ、じゃあ! 今日はまず数学な。塾の方は今どこまで?」

「あ、テキストの、このあたりで」

 表面上は授業に集中する振りをしていながらも、俺は頭の片隅でこの耀くんと先日の少年を比べ続けていた。


 ──理由も見つけられないまま、ただ延々と。



    ◇  ◇  ◇

 連日の居残りにさすがにうんざりしていた俺は、思い切って最後の講義が終わると研究室に顔を出しこのまま帰ると告げた。

 その場にいた教授や学生たちと連絡事項だけやり取りして、ごく普通に送り出され大学を後にする。

 疲れたまま惰性でやったって効率が悪くなるだけだ。

 そんな風に自分に言い訳しながらも、半分以上真剣にそう考えてる。リフレッシュ大事。うん。


 それにしても、バイト以外でこんな時間に帰るのは久しぶりだ。大学を出て、駅へ向かう途中にある大きな橋に差し掛かったときだった。

 俺は誰かが欄干(らんかん)に手を掛けて川を、あるいはその向こうの夕陽を見ながら立っているのに気づいたんだ。

 見覚えのある、細身のそのシルエットは。


「よ、耀くん⁉」

 俺の声に身体ごとくるりと向き直ったその顔は、確かに俺のよく知る五十嵐 耀だ。

 でも、なのに。この違和感は、……何だ?


「……耀くん、じゃ、ない?」

 胸がざわめく。俺の身体のどこかで、アラートが鳴り響く。


「耀、ではない」

 俺の目を見て口を開いた少年の端的なその答えに、俺は重ねて訊いた。


「だったら、あの、……この間の夜の?」

 大きな、不安になるほど大きな夕焼けを背に、耀くんと同じ顔をしたその少年の口から紡がれるのは──。


「あれは、(さく)。もうひとりの耀」

「……君、は?」

 俺が恐る恐る発した問いに、目の前の彼は少し逡巡して答える。


「おれは(しお)。耀と朔の間。どちらでもないし、……どちらでもある」

「ゴメン。よく、わからないんだけど」

 俺、そんなに頭は悪くない、というか、頭だけはそれなり以上にいい筈、だったんだけど。

 そんなくだらない自尊心も揺るがすような、目の前の少年の不思議な言葉。


「そうだろうね。実はおれにもよくわからないし、上手く説明できない」

 なんだかさらさらと無味乾燥な印象を受ける、その声。

 よく聞くと、やはり耀くん、のような気がする。でも違うような気も、する。

 もう俺は、すべてに自信がない。


「昼間、太陽が出ている間は耀。これは日光とは関係なくて、曇りでも雨でも変わらない。日が暮れたら朔」

 夕陽を背負った少年は、無表情で温度を感じさせない声音にも拘らず、調子だけは歌うように話す。

 それが何ともアンバランスで、俺は堪らなく不安にさせられた。


「……昼と夜の間、太陽が沈み始めて完全に沈むまでの、ちょうど今の時間はおれ」

 今の、夕焼けの、時間?


「それはつまり。耀くんと、その朔くん、は別人格ってこと?」

 自分で発しておきながら、いったい何を言ってるんだ、と呆れるような俺の問いに彼はあっさりと頷く。


「そう。耀と朔は、単に同じ身体を使っているだけ。記憶の共有はない。だから例えば朔が怪我しても、耀は起きたら何故か傷がある、と不思議に思うだろう」

「二人はお互い、別人格、のことは知らないって理解でいいのか……?」

 別人格。

 なんなんだ、いったい。マンガかドラマの話じゃあるまいし。


「耀は知らない。本当にまったく。朔は、自分に『耀』というもう一人がいること、……自分が耀から生み出されたことは知っている、けれど知らない」

 わざと謎掛けでもしているのかと疑うほどに、意味ありげな言い回し。実際の意図は俺には読めないけど。

 もしかしたら、この辺が汐にもわからない部分なのか?


「……どういう?」

「知っているから、『五十嵐 耀』の家から出掛けて帰って来る。でも、朔はどうして自分がそうするのかわかっていない。考えない」

 余計わからん。いつのまにか俺の頭が悪くなったとでもいうのか?

 ……とりあえず、別方向から。


「君は。君はなんで、その」

「何故、二人のことを知っているのか?」

 相変わらず不思議な抑揚(よくよう)をつけて訊く彼。


「う、うん」

「おれは二人を繋ぐものだから。おれが居なければ、耀は朔にはならない。朔は出て来られない」

 この子がスイッチってことか? いや、スイッチというよりはバトンの方が的確なんだろうか? 


 ──ダメだ、やっぱりよくわからない。 


「もともとこの身体は、名前の通り耀のものだった。でも『素直で可愛くて優秀で真面目な』耀が、無意識のうちに抑えつけていたものが朔を生み出した。おれはただ、その橋渡しをする存在」

 素直で可愛くて、優秀で真面目な。

 それは確かに、俺の知っている耀くんだ。

 お父さんを早くに亡くして、お母さんの愛情と、……期待も何もかもすべて一身に受けて。「周りが己に望む理想」らしきものを先読みして体現しようと?

 まだ十五やそこらの男の子が、必死で背伸びしながら藻掻(もが)いて生きていたんだろうか。

 それがある日、とうとう堪え切れずに(あふ)れてしまった結果ってことなのか……?


「昼の終わりと同時に、耀はおれになる。切り替わる。完全に闇の世界では、おれは朔になる」

「……いつ、から?」

「ごく最近。耀の塾での成績が下がった、おそらくはそれが引き金(トリガー)

 成績が? 塾でのテストの結果は参考として全部見せてもらってるけど、下がったなんて……。あ!


「夏季講習明けのテストかな? 確か先月終わりだか今月初めに返って来たヤツ。下がった、って、……一位が三位だったか五位になったとかその程度じゃなかったか? 偏差値は特に落ちてないし、別に大したことじゃないのに」

 もともと耀くんは、家庭教師なんて何故必要なのかってくらい優秀だ。

 まあ最初に教授に聞かされたように、「年の近い相談相手」がメインだったのかもしれないけど。


「それが耀には『大したこと』だった。これ以上ないほどに努力を重ねて主席を維持して、神経が張り詰めていた耀に絶望を与えるには十分な」

 そこまで?

 俺にはそんな顔見せなかったのに。確か「また挽回します」って平然と。

 ……もうこれ以上、頑張れないってこと、か?


「最初は『入れ替わり』も(まば)らだった。夕陽と共におれが出て来ても、夜になったら朔に変わることなく耀に戻ることもあった。完全に確立したのはここ数日」

 そうなんだろうな。

 家庭教師の時間だって夕方や夜に掛かるけど、ヘンだと感じたことなんてなかったんだ。

 そうだよ、塾だって。

 あの、俺と行き会った時の朔の様子からして、入れ替わった状態で耀くんで通る筈がないんだから。

 第一、毎日夜遊びなんて続くわけない。


「……朔、くんが耀くんに戻る、っていうかなる、のは?」

「朔が夜の間に眠って、朝起きたらそれはもう耀。厳密には、太陽が昇って完全に夜が明けるまではおれの時間」

 この子()は夕陽、と朝陽に左右される存在ってことなんだろうか。


「だけど、まるでプログラムされてるみたいに、朔は夜が終わる前に必ず眠る。朝になって、目覚めたらもう耀になっている。『知っているけど知らない』のも、プログラムのひとつ。考えたら崩れるので、それについては何も考えない。そして、おれはどこまでも『(あいだ)』の存在。そういうメカニズム」


 ……メカニズム。こういう場合に使う単語なのか?

 いや、相応(ふさわ)しくないとは言わないけど、どうも座りが悪い、ような。

 それは俺が、この入れ替わりの『メカニズム』を現実として捉えられてないからなんだろうか。

 俺の内心の混乱なんて気にする素振りもなく、汐は話し続ける。はじめから聞き手なんて必要としていないみたいに。


「元から居た耀か、後から生まれた朔か。どちらかが相手を消したらおれも消える。『五十嵐耀』の身体はそのまま、誰が心を支配するのかはわからない。このまま二人で共生していくのかもしれないし、……衝突してどちらも壊れてしまう、のかもしれない」

 汐は一切感情を乗せない冷たいほどの声で、相変わらず調子だけは歌うように仮定を並べて行く。

 その噛み合わなさが、逆に生々しさを際立たせているようだ。

 いや、そもそもこの子には『感情』なんてものがないのかもしれない。

 間の存在。

 情報を伝達する人形のように、機械のように、プログラムされた通りに形だけなぞった抑揚をつけて。


「汐く、──」

 考えるより先に口が動いていた。

 その俺を制止するかのように、汐が(てのひら)を俺に向けて突き出して来る。


「『むれぇ』先生」

 乾いた声には不似合いな、舌足らずに『聞こえる』リズム。

 ああ、そうか。汐は耀くんの記憶も持ってるんだな。

 彼が俺を見知っていたことなんて最初から自明だったのに、名を呼ばれて今更のようにそんな風に思う。


 そのとき。

 初めて汐が笑顔を見せた。満面の、嬉しそうな。

 笑えるんじゃないか、可愛いな。なんて考えられたのはほんの一瞬だった。

 彼が、それまでとは一転して朗らかな声で紡いだ言葉を聞くまでの。


「ねぇ。耀でも朔でもなくて、おれが『生き残る』可能性だってゼロじゃないよね?」

 言うなり汐は、ぱっと身を翻して駆け出した。

 立ちすくんだままの俺を置き去りにして、あっという間に姿を消してしまう。

 ああ、そうか。


 ──もうすぐ、夕陽は地平に、消える。


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