3-07 re:ゲロから始まる高校生活
これはゲロで始まり、『愛』で終わる物語――
一瞬、僕は何が起きたか分からなかった。
耳をつんざく彼女の悲鳴。絶叫。涙。
――そして、ゲロ。
平凡な男子高校である安藤透の青春はゲロにより崩壊を迎えた。ある日、安藤は放課後に体育館裏に呼び出され、クラス一の美少女である『柊カスミ』から告白される。安藤は勿論OKするが、その刹那、猛烈で唐突な嘔吐により彼女をゲロ塗れにしてしまう。その日から彼が柊カスミをゲロ塗れにしたという噂は学校中に広がり、彼の高校生活は一転してしまい――
彼が嘔吐した原因はなんなのか。彼の高校生活は一体これからどうなってしまうのか!
『青春』×『恋愛』×『嘔吐』
ゲロが愛を呼ぶ、世界初の狂愛の青春ゲロコメディ!
「好きです! 私と付き合ってください!」
か細く、芯のある言葉が放課後の体育館裏に響く。その振り絞るような声から一生懸命な想いが伝わる。そして、もう答えは決まっている。僕は緊張しながらも、答える。
「はいっ! もちろんでっぇ……おえええええっ!! おぼろろろしゃぁぁっ!」
一瞬、僕は何が起きたか分からなかった。
耳をつんざく彼女の悲鳴。絶叫。涙。
――そして、ゲロ。
少し前まで頬を赤らめて告白していた彼女には、まるでもんじゃ焼きのような吐瀉物がふりかかっており、赤面していたはずの頬は酷く青ざめていた。
どうしてこうなった?
地獄のような現実から逃避するかのように、まだ幸せだった頃の記憶が走馬灯のように流れ出した。
今朝、僕は今日のために生きていたのだと確信していた。下駄箱にはいっていたラブレター。「放課後に体育館裏に来てください」と綴られた愛らしい丸文字。そして文末に書かれた名前、柊カスミ。小動物を彷彿させる小柄で可愛らしい風貌で、文句なしに美少女である。
僕は放課後になるとダッシュで体育館裏にむかう。そこには体育館の影に一人で佇む彼女がいた。ウェーブがかかった髪。白く透き通った肌。
そんな彼女の容姿はまるで天使が下界に降りてきたのかと思う程に可憐だ。
恋とは即ち『期待』である。
あの人は可愛いから性格も優しいのだろう、とか。あの人は格好いいからリードしてくれるだろう、とか。
恋とは期待、つまりは『理想』から始まる。偏見や期待、理想、願望。それらをひっくるめて恋となる。彼女も、平凡な僕になにか良いところを見出してくれていたのだろう。
でも、僕は彼女の期待に応えられなかった。
ごめん。僕はゲロがとまらない。とめられない。
彼女は涙を流しながら全力でその場から立ち去った。僕には彼女を追いかける資格も、立場もない。その小さくなっていく背中を眺めるだけしかできない。
「なんで……ど、どうして……」
僕は膝から崩れ落ちて目から涙が流れる。
終わった。何もかも、全て。
そして、これがまだ序章に過ぎないことをこの時の僕は知る由もなかった。
この日から、僕の地獄は始まった。
***
元気に登校する生徒達。談笑する者。スマホを触る者。部活の朝練で汗だくな者。いつもの風景であるのだが、なんだか今日は視線が多いような気がする。
顔になにかついている? それともトイレットペーパーでもお尻についているだろうか。
「おはよう……」
いつも通り朝礼まで十分くらいの余裕を持って登校した僕はいつものように教室の扉を開くと同時に、教室内時間が静止したようにみえた。生徒全員が同時にこちらを凝視したかと思うと、その刹那、僕から視線を外してまた教室はいつもの騒がしい雰囲気になる。
「なんだ、一体……」
僕はその異様な雰囲気を感じて訝しむ。周りの様子を見ながら僕は自分の席に座ると同時にお尻に鋭い痛みが走った。
「……っ?!」
これは、画鋲?
ズボンに血が染みるのが分かる。そんなに深くは刺さっていなかったのでそこまで血は出なかったけれど、流石の僕も今ので自分の置かれている状況を把握した。
これは、イジメだ。
僕は隣の席の女子に話しかけてみる。特に仲の良いわけではないが、雑談程度はする間柄だ。
「ねぇ、ここに画鋲を置いた人知らない?」
当然の如く、無視である。まるで僕の声が聞こえていない、存在しないかのように思うほどなんの反応もしない。
「うーすっ! ゲロリアン! ギャハw」
三人組の小麦色の肌をした野球部が絡んでくる。
どうやらゲロリアンとは僕の名前らしい。僕には「安藤透」という立派な名前がある。ゲロリアンはその名字とゲロからきているのだろう。
ゲロリアン、そのあだ名から察するにイジメの原因は昨日の出来事らしい。僕はなんだか怖くなって教室から逃げ出したい衝動に駆られる。なにをすればいいのか、どういう反応をしたらいいのか分からなくて思わず顔面の筋肉が硬直する。
「ははっ……や、やめてくれよ〜……」
僕は情けなく、笑うことしかできなかった。
***
あの日から、どうやら僕は学校中の人間から嫌われたらしい。誰かにあの時の告白を見られていたのか、もしくは柊カスミが言いふらしたのかは分からない。
別に言いふらされていたとしても僕は彼女を恨んじゃいない。このことが原因で僕がイジメられてもゲロを彼女にぶちまけたのはどう考えても僕が悪いし、彼女は被害者である。
しかし、だからといってイジメは流石に堪えるものがある。あの日からよく上履きはなくなるし、筆箱なんて十三回はなくなった。挙句の果てに水泳の時はパンツまでなくなった。パンツは違うだろ。パンツなんて盗ってどうすんだよ。
そして、当然ながらあの日から柊カスミは一度も口を聞いてくれない。何度も謝ろうとしてタイミングを伺ってみたが僕はまるで存在していないかのように扱われる。まぁ仕方ない。しんどいけど、仕方がない。
一度は告白までするほど好きだったはずなのに理由はどうあれそれが一瞬にして崩れ落ちるのだ。愛とは儚く、脆い。その証拠に将来を誓い合って、結婚したカップルが離婚するなんて別に珍しい話でもない。
やれ彼氏がご飯を奢ってくれないから冷めて別れた、とか。彼女がうんこをしてたから冷めた、とか。そんないつ別れてもおかしくない、保証もなく今にも崩れそうな理想を綱渡りすることを僕たちは恋愛と呼んでいる。
常に同じ状態の人間はいないし感情はない。つまり、永遠の愛なんてものはお伽噺に過ぎないのだ。
「バカバカしい……」
ポロリとそんな言葉が漏れた。
恋とか愛なんて馬鹿ばかしい。そんなことをウジウジ悩んでいる自分が恥ずかしい。
授業を全て終え、放課後になると僕はトボトボと部室に向う。
もう、世界中に僕の居場所はここにしかない。
僕は部室の前に立つと、はやる気持ちを抑えきれずに扉の取手を引いた。
「おっ、安藤くん」
部室の扉をがらりと開けるとハスキーで、ゆったりとした声が聞こえた。
「……こんにちは、日住先輩」
彼女は名前は日住ルイ。僕が学校でいじめられてもどんなに辛くても登校する理由である。そして、僕の所属する新聞部の部長だ。
まるで珈琲のような真っ黒な髪。一見、男子かと見間違う人もいるであろう、女性にしては短いショートカットが蛍光灯に照らされている。
少し伸びた前髪からチラリと覗くアーモンドのような瞳が、僕を捉える。
「どうしたの? 今日は元気がないねぇ」
よかった、彼女はいつも通りだ。僕を虐めることも無視することもない。僕は安心して思わず肩の力が抜けた。
「実は、最近……っ」
「……?」
「いえ、なんでもないです。お腹がすいちゃって」
僕は下手くそな笑顔でなんとか誤魔化す。つい、彼女に悩みを打ち明けようとしたが「イジメられている」なんて憧れの先輩に情けなくて言えなかった。
そして……もし、僕がイジメられているなんて知ったら、僕が女の子にゲロを吐いたなんて知ったら、彼女も他のみんなと一緒で僕を嫌うはずだ。
何故なら、人間の感情は儚いから。
それを僕は今回の件で知った。ずっと一緒の感情なんてない。愛も恋も友愛も信頼も憧れも、いつか必ず終わりがある。今は優しくしてくれる先輩だって、どうなるか分からない。
どうしても彼女にだけは嫌われたくなかった。
「ふーーーん、そう。じゃあ飴でも食べるかい?」
彼女はこちらをじっと見つめる。真っ黒なその瞳は何を考えているか分からないけれど、僕の誤魔化しを見抜いているようだった。小さな違和感でも見逃さない新聞部の性なのだろうか。
僕は彼女から受け取った飴を頬張ると口の中でコロコロと転がす。その刹那、違和感を感じる。
「美味しい?」
苦い。不自然な苦味。
まるで、薬のような――
僕はハッと彼女と視線を合わせる。彼女は不敵な笑みを浮かべつつ僕の頭をそっと撫でた。
「隠し事をする悪い子には、オシオキだっ」
まさか、彼女も僕を陥れて――
「ボクってあまり信頼されていないのかな? まぁ君のことだろうし察しはつくけどね。どうせ嫌われたくなかったんだろう?」
ぐらり、視界がまわる。
「全く、無駄な杞憂だね」
意識が遠のく。
最後にそう聞こえると僕の意識がプツリと消える。
目を覚ますと、そこは薄暗い部屋だった。周りがよく見えない。頭には柔らかい感触がしていて、薬のせいか頭がぼーっとして思うように体が動かない。
「ようやくお目覚めかい?」
彼女が顔を覗かせると視界が日住先輩で埋まる。膝枕をしてくれているらしい。ここは、恐らく先輩の部屋だろう。そして、部屋の天井を見ると思わずぎょっとする。
そこには――無数の写真。写真写真写真。
天井だけではない。部屋を見渡すと一面に写真が隅々まで貼られている。
そしてそこに映っているのは――僕!?
「ふふっ気づいた? でもこれで分かったよね。ボクは君を嫌わない」
確かに僕は密かに望んでいた。
裏切らない存在を。変わらない永劫の感情を。それでも、僕は信じない。永遠の愛など、ない。
「ずぅっーーと、大好きだ♡」
彼女の濁った瞳が僕を捉える。
これはゲロで始まり、『愛』で終わる物語。そして、永遠の愛を証明する彼女と否定する僕の戦いでもある。
流れる冷や汗。心臓がドクドクと高鳴る。その鼓動は、お先真っ暗な僕の高校生活が始まるファンファーレに他ならなかった。