3-06 愛の帰り
【この作品にはあらすじはありません】
前日に雨の降った坂道、ひび割れた黒いアスファルトの合間に水が溜まっているのが視界に入った。どうしても透明な水も、黒く染まればより汚く見える。
一歩を踏み出すたびに、学校指定の運動靴、その靴底が鳴る。嫌な音がした。自分が歩いた後には泡がぶくぶくと残っている。なんだかそれがすごく汚らしいものにしか見えないのは俺だけだろうか。他にも歩いている同級生たちはそんなことを気にせずにずんずんと進んでゆく。きっと、そんなにどうでもいいことよりも今は新しいクラスで始まる新しい学校生活が楽しみだろう。普段はあまり笑顔を見えない彼も、いつもにこにこしている彼女も普段より歩くスピードは速い気がする。
そういう自分も、横切っていく通学路の景色がいつもより少しだけ早い。
「おはよ!」
そんなことを考えながら歩いていると後ろから背中をバシンと叩かれた。なぜかわからないが彼女が僕の背中を叩くと、痛みは少ないのにいい音がする。厚い冬服に吸い込まれるはずの音が、僕の背中周りから空気をはじいて、半径五メートルの内側にいる人ならこちらに視線を向けるほどだった。しかし、そんな人たちもいつものことかと諦めて僕と彼女を見てから良い意味で呆れたように視線をそらした。
「はぁ、朝から元気だな。結衣」
俺の背中を叩いたまごうことなき美少女は、そのまま隣に並んで歩き出す。だが、寝起きの俺にはそのテンションについていけない。
これほどの美少女に声をかけられれば普通はテンションがあがるのだろうけれども、なんでもそうだ。どれだけ美しい景色も、面白い映画も見飽きてしまえばどうということはない。俺にとっては結衣が隣にいることはもはや景色の一部と認識してしまえるほどに普通のことだった。誰もありふれた日常に感動することなんてない。
その中で、例えばクラス替えなどの変化を求めているのだ。
「ほらほら、もっと元気にいこうよ」
そういいながら、結衣は僕の手をとってそのまま持ち上げる。そのせいで、肩にかけていたカバンがずれて、するすると重力に従って下へと落ちてゆく。
かけなおさなければいけなくなった。
別にそこまでの手間ではないけれども、少しは面倒くさいなと思うことがある。ただ、こうして俺のリアクションが薄いとそれ、つまりは面倒くさいという感情ををしっかりと理解して、黙って隣を歩いてくれる。
別に空気が読めない奴というわけではなくて、彼女にとってのコミュニケーションにおけるジャブがハイテンションだということだ。事実、合理的ではある。
うまく仲良くなれる相手がいれば、そのまますぐに盛り上がることができるし、相手と会わなくてもすぐに次へといける。それを誰もができないからこそ、人間関係におけるパワーバランスにおいて高確率で優位に立つことができる。
もちろん、彼女はそんなくだらないこと、打算的なことは考えていない。
事実、俺も中学で初めて出会ったときには彼女のそのオーラに気圧されて、なんだかんだと世話を焼かされたものだ。そして、なんだかんだと面倒を見てくれる俺のことを気に入っているのか、今では公認カップルなどと言われて冷やかされる程ではある。別に、俺も結衣も好きな人がいるわけではないから、むず痒いが迷惑はしていない。いや、正確に言えば結衣には好きな人がいないが、僕にはいる。
まるで棘のように、変な方向へと刺さってしまった釘のように心から離れない、離れてくれない一人の女性が、ときおり夜中に顔をのぞかせて僕を苦しめる。
ただ、叶わない恋などは存在しないのと同じだ。そう思うことで、なんとか自分の心を説得して理解してきた。確率の世界において存在しえない事象はゼロとしてカウントされる。パラレルワールドとか世界線がどうとかそういった話は嫌いだが、もしもそれに当てはめるのならば僕と彼女が結ばれる世界など無い。
そう断言できるほどに、僕はその恋に対して一種の諦観があった。
僕がそんなことを考えている間も、彼女は静かに足元の泡を潰していた。
「おっす。今日も重役出勤か?」
「別にチャイムは鳴っていないから大丈夫だろ」
校庭にある錆びた柱に支えられた掲示板で確認した教室へとつくと、そこには何人かの友人がいた。まあ、クラス替えと言っても三分の一が同じメンバーなので友達作りなどに意識を張る必要はない。俺はいつも通りに静かなまま教室を横断し、黒板に示された指定の位置につく。苗字がわから始まるので、だいたいが教室の端だ。
「は~い、席付け」
先生も見慣れたまま。そのままだった。クラスのメンバーが少し変わっただけで、俺の生活は大きく変化しない。きっと、二週間もすれば落ち着いて変わらない日常が待っているだろう。平穏な毎日を、ぼんやりと過ごす。
そのことに安堵しながら、ぼんやりと外の景色を眺めていた。
しかし、それは一瞬で崩れ去ることになる。彼女を定義づけるならマクガフィン。
「転校生を紹介するぞ」
先生がそう言いながら、片手で乱暴に教室前方のドアをガラガラと開く。そのドアはすでに年季も入っていて、スムーズには開かない。なんどかドアの枠にぶつかって傷つきながらも、それは開いた。そして、一人の少女が教室へと入ってくる。
彼女こそが僕の人生に意味を与え、そして狂わせた。
その彼女の息遣いが、なぜか聞こえた。ぼんやりとしていた視界がパッと晴れて、窓の外から見える遠くにある山、それの輪郭すらもはっきりと映った。しかし、それを自覚したときには、僕はどうしようもなくその息遣いを求めて視線を移していた。
そして、その姿がはっきりと心に写し出される。変わらない。
彼女は礼儀正しく教壇の隣に立ち、お手本のようなお辞儀をした。
「初めまして、藤原弥生です。よろしくお願いします」
彼女が頭を下げると、ふんわりと空中にその黒髪が舞った。まるでオーラを放つように、彼女の周りから陽気が広がる。クラスメイトが立てる教室の喧騒すらも飲み込んで、それらは教室に充満した。その空気が懐かしく、苦しかった。
「あの子、可愛くね」
「すっごく上品」
「いい声してるなあ。吹奏楽部に来てくれないかなあ」
教室中に沸いた拍手、その隙間から聞こえてくる小さな声。そんなことよりも激しく、僕の心臓は動き出した。腕は否応なしに震えてしまって制御が効かない。こつんと爪が机にぶつかって音を立てるのがわかった。きっと、隣にいるクラスメイトがもう少しだけこちらに気を配っていれば、間違いなく心配してくれただろう。
顔は青く、そして体は赤く染まっていく。
「藤原さんだ。みんな、仲良くしてやってくれ」
担任が改めて名前を紹介して、席を指定する。どんどんと彼女との距離が開いていく。こちらに気が付く様子もなく、教室に並べられた机、そのわきにかけられた学校指定のカバンの群れをするすると抜けて背中が小さくなる。
その光景は、昔に見たその景色と全く一緒だった。彼女の背と髪が伸びたことなんて僕にとっては些細なことでしかなく、どうしようもなく理性と本能が反立して体の中で爆発しそうになる。なんとか、胸を思いきり右手で抑えてそれを鎮める。
藤原弥生。
彼女は、僕の初恋の人で。
僕の兄が過去に誘拐した相手だ。