3-23 遠ざかっていく花言葉が僕を呼ぶ
僕の大学の事務員の佳澄さんは、まさに高嶺の花という言葉がふさわしい。誰も話しかけられない孤高のエーデルワイス。そんな彼女の隠れた趣味を、僕だけが知っている。
──婚活パーティーに参加して、男性たちを酔い潰すこと。
「今日も君は何もせずに帰るんだね」
婚活パーティに迎えにいって家まで送った僕に、佳澄さんは底意地の悪い笑みを見せる。
「私はね、お酒によって暴かれた、人の純粋な欲が見たいんだ。だから婚活パーティーに参加しているんだよ。でも、君の欲だけはまったく見えない。君の欲を見せてよ」
佳澄さんは僕の好意を知っている。僕も、好意があることを隠さずに伝えているのに、僕の欲が見えないと意地悪く笑って。
そして彼女は言うんだ。
「ねえ、迎えに来てよ」って。
だから、僕は行く。佳澄さんを迎えに。
嗅覚は、ヒトの五感の中でいちばん記憶に、そして心に残って咲き続ける。
ふくふくと酔った佳澄さんからは、いつもアルストロメリアの匂いがする。スマホ一つで迎えに呼ばれることをあっさりと受け入れてしまっているくらいには僕をダメにする匂いだと、いつも思う。
今日もぴったり五回のコールで僕は繁華街の端っこへと参上した。
肩を貸して歩いているが、徐々にこちらへかかる重さが増していく。長い髪がちらと視界に入るだけで少しどきりとした。
横断歩道で赤信号につかまり、片側二車線を車がひっきりなしに流れていくのを眺めながら酔っ払いに声をかける。
「あぁもう、佳澄さん。わざと体重かけてるでしょ」
「うん」
そこ即答すんのかよ。
どうせ酔った時にいつも見せる底意地悪い笑みを浮かべてるに決まってる。だから、佳澄さんの方は見ない。見てやらない。
「つれないなぁ、知ってるかい? 酔った人を介抱すると相手を依存させやすくなるんだよ」
「どこで聞いたっけな。ベン・フランクリン効果でしたっけ? じゃぁ、佳澄さんは僕に依存してるんですか?」
「いいや、まったく。でも私には君が必要だからね。ちなみにベン・フランクリン効果は助けた方が好意を持つやつだから違うよ」
「光栄光栄。間違いが恥ずかしくてうっかり手を離しそうになっちゃうのでしっかり立ってください」
「はぇーい」
信号が青に変わる。佳澄さんはこちらにいっそう寄りかかってきた。アルコールが入っている時ほど佳澄さんは饒舌になる。あと距離感がバグる。いい匂いもする。これで普段は鉄の仮面を被った大学事務だっていうんだから信じがたい。でも普段の姿を見ているから信じざるを得ない。
僕が大学に入学して初めて佳澄さんを見た時の印象といえば、まさに高嶺の花。話しかける事なんておそれ多すぎてどうしようもない孤高のエーデルワイスと誰もが評価していた。いや、僕以外は今でもそんな評価だと思う。
「お酒はね、人の本性を暴くよね。私は、人の欲が見たいんだよ。とびきり純粋なやつを」
「だから婚活パーティーに参加しては男連中を酔い潰すんですね」
「潰してるんじゃないってば。あっちが勝手に潰れるのさ」
「佳澄さん、婚活クラッシャーとして有名ですよ。僕の中で」
「生意気だなぁ、学部生のくせに」
「お褒めいただきどうも。もうすぐアパートですから。鍵、用意してくださいね」
鼻うた交じりにカバンからキーケースを取り出す。何の飾り気もない革のそれは、とても使い込まれていた。物持ちはいい方で、気に入ったものを長く使い込む性格らしい。履いているパンプスも、いつものベージュのやつだ。ローヒールじゃないと歩けたもんじゃないとぶつくさ部屋で佳澄さんが独り言をこぼしていたのを思い出した。
佳澄さんの部屋の前、回していた腕を外す。扉に背をつけて、もたれかかってずるずると彼女は座り込んでこちらを見上げた。やっぱり、あの顔だ。何かを見透かすようにじっと僕を見てくる。意地悪く、少し熱っぽい、試すような目で。
目を合わせるんじゃなかった。視線を外すことができなくなることなんて、分かっていたのに。
「今日もありがとう。それで、今日も何もせずに帰っちゃうのかな?」
「家まで送れと言われたので送った。それだけでしょう」
「ねぇ、君ってさ、私のこと好きなんだよね」
「もちろん好きですよ。じゃなきゃ呼ばれても来ないですから」
「だよね。私のストーカーだもんね」
「事実なんで否定しませんけど、ストーキングと好意って関係あります?」
「関係ないと思ってるの、世界で君だけだよ」
また始まった。確かに僕は佳澄さんのストーカーだし、こうして家の場所やら普段使っているコンビニやらも把握しているけれど、佳澄さんが好きだからストーカーになったわけでも、ストーキングをして好きになっていったわけでもない。
その二つは、はっきりと、完全に別の話だ。株値の上がり下がりとアジサイの色くらい別だ。日経平均が上がったら紫の花が咲くと言われて納得するやつはいない。
ストーキングなんて、庭に花の種を植えるのと同じだろ。ちょっと手間暇かける所が似ているし、どんな種でもまきたいわけじゃない所だってそうだ。誰でもいいってものじゃない。
「分からないんだよね。君には、欲がまったく感じられない。まるで賢者だよ。ストーカーなのに。ストーカー賢者。あはは、変なの」
「じゃぁ、人の欲を見たい佳澄さんからしたら僕はさぞ魅力がないでしょうね」
「逆だよ。逆。見てみたいじゃないか。君の奥に眠ってる欲ってのを――さ……」
佳澄さんがうっすらと目を細める。
あ、寝るなこれ。その前に部屋に押し込まないと。頭をふらふらさせてるもんな。
手を取って、玄関から寝室まで連れていくと佳澄さんはうつぶせにどさりと倒れ込んだ。家に送る以外のことは頼まれていないから後は放っておいていいだろう。ついでに彼女のカバンに入れておいたペン型のレコーダーを取り出す。部屋を出ようとした僕の背中から「直人君。また明日、大学で」とくぐもった声がした。枕に顔をうずめながらしゃべっているらしい。
振り向かずに「おやすみなさい」と返事して、静かに部屋から出た。僕にまとわりついていたアルストロメリアの匂いが薄れていく。佳澄さんは必ず、別れの間際にだけ僕の名前を呼ぶ。変な人だ。ストーキングを公認していることも含めて。
僕はお気に入りの曲でも聞くみたいにイヤホンをつけて、回収したレコーダーの中身を聞きながら家路についた。
※
翌日。
大学事務に、佳澄さんの姿は無かった。無断での欠勤らしく、事務の中が少しざわついた雰囲気になっていた。彼女は、仕事に対して完璧を超越した存在として有名だ。欠勤はおろか、遅刻すら一度もない。ちなみに笑顔もなければ愛想もない。お酒を飲んでさえいなければ、香りのないデルフィニウムのように静かな人だ。
昨日の婚活パーティーの内容も、特に不審な所はなかった。一人、やけに息巻いて佳澄さんに言い寄ってた男はいたけど。ええと、名前がすぐに出てこないな。酔い潰した男は六人ほど。迎えの時も普段通りだったし、何より、また明日と佳澄さんは寝る間際に言っていた。彼女に何かあったことは明白だ。
「事故……それとも事件?」
スマホで佳澄さんの位置情報を確認してみても、電源が入っていないのか地図上にアイコンが表示されない。
僕はどうするべきだろう。焦る気持ちは多少あるけど、助けてくれと言われたわけでもない。いや、言えない状況になっているのかも知れない。
「状況から判断した方がよさそうかな」
佳澄さんの家に向かいながら、いくつか持っているスマホの一つで彼女の通勤路にあるコンビニや駐車場の監視カメラの映像を確認していく。ハッキングできる所は全部手元で見られるようにしてある。どの映像にも、彼女の姿はない。
アパートの玄関を開けた時に確信した。
「うゎっ――!!」
事件。それも、誰の目に見ても分かるような。この状況で事件じゃないと言えるやつがいるなら連れてきてくれ。リビングで人が死んでるんだから。
くそっ、吐きそうだ。むせかえるほどの血の匂いって、こういうのを言うのか。腐ったユリより酷い。
佳澄さんじゃない。顔は見えなくても明らかに男だ。黒ずんだ血だまりに沈んで微動だにせず固まっている。
不自然に、固まりかけの血の上に置かれている男の身分証。社員証か何かだ。顔写真の横に、『加藤 広』と書かれている。
加藤、ああ、加藤だ。思い出した。昨日の婚活でやけに佳澄さんに言い寄ってた男の名前だ。だとしても、どうしてここで死んでいるかの説明はつかない。
――ピリリリリ
突然の音に肩が跳ねた。持っているスマホのうちの一つが鳴っている。佳澄さんから連絡があるときのものだ。彼女専用のものなので画面表示を見るまでもない。コール数に注意する。
一回、二回、三回――五回鳴った所で切れた。
これはいつもの、佳澄さんからの『迎えに来て』の合図だ。
正直何もかも分からないし、警察を呼ぶ方が合理的だと思う。だけど。
佳澄さんからのアクションがあったからか、驚くほど冷静になっている。彼女の安否を気にかける気持ちが湧いてくるくらいには、視界の端の死体にはもう興味が無くなっていた。
「そうだ。盗聴器――」
部屋に仕掛けておいた盗聴器の存在を思い出す。
忘れているなんてストーカー失格だな。
だが、会心の思い付きは空振りに終わった。盗聴器が外されている。部屋に仕掛けておいた三か所、全部だ。くそ、誰がこんな事を。タダじゃないんだぞ盗聴器も。
状況に進展はなし。何もかも分からないまま。
確かなことは、たった一つ。僕がやることだけは決まった。
「迎えに行かないとな。呼ばれたんだから」
部屋の鍵を閉めて、外の空気の中で深呼吸する。しないはずのアルストロメリアの匂いが、かすかに漂っている気がした。